三
人ごみの先から威勢の良い掛け声が聞こえてきた。
「それ、かっぽれかっぽれ」
かっぽれの掛け声に合わせ人々は手拍子を始めた。かっぽれが始まったのだ。
「公平! 前に行きましょう!」
初めて聞く音と、響く手拍子の音が八重の好奇心を掻き立てた。どんな踊りなのかぜひとも見たい。八重は社殿前にいる群衆の前に進み出ようと人混みを無理やり掻き分けながら進んで行ってしまった。
公平そっちのけでみるみるうちに人の波に沈み込んでしまった八重は姿が見えなくなった。公平も慌てて後を追う。人と人の間を掻き分け、時折り人の足を踏んでしまっては「すみません」と言いながら何とか前へ進む。八重の姿はもう見えなかった。
かっぽれ、かっぽれ──
歌と手拍子がいっそう大きく聞こえて来た。人を押しのけてその間を行こうとした時、押した体が公平へとぶつかって来て前に進めなくなった。
かっぽれ、かっぽれ──
何だろうかと顔を上げれば、赤い顔をした知らない男が怪訝そうな顔で公平を見下ろしていた。
「押すんじゃねえよ。何だよがきが」
そして、公平をどんと突き飛ばした。公平はまた違う別の人にぶつかった。
「こいつ人を押し除けて前に行こうとしてやがる」
男は酔っ払っているのか、目は据わり大声でまくし立てた。
「酔いが覚めるだろうが、糞がきが。ちっ」
怖い。
怖いと思った。舌打ちの声が怖かった。いつも聞き慣れた、拒絶、苛立ち、侮蔑の、いろいろな意味のこもった不快な音。ただ舌打ちを聞いただけなのに、公平の胸は苦しくなり、ぎゅっと着物の襟をつかんだ。苦しい、怖い、助けて。
かっぽれ、かっぽれ──
そこにいるはずのない、自分を苦しめる父親の姿が唐突に目の前に現れた。
一閃の雷が落ちた。
晴天の、雲は一つもない晴れであった。それなのに雷が裏手の銀杏の木に突然に落ち、耳をつん裂く激しい音をその場にいた全員が聞いた。賑やかだったお囃子の音は消え、人々は何だ何だと天を見上げた。いつの間にか境内に来ていた文蔵も読売の代金を受け取ると、金を仕舞わずにそのまま天を見上げた。八重は人々が天を見上げているその横で公平を探していた。
晴天の青空にみるみるうちに厚く黒い雲が広がり、たちまち辺りは曇天の空のように薄暗くなった。社殿より宮司が慌てて外に出て来て、険しい顔で空を見上げていた。するとあっと思うよりも早く、何の前触れも音もなく、雷が落ちた。落ちた場所はかっぽれが披露されている社殿の前で、かっぽれを踊る踊人が口を開けたまま驚いて尻餅をついていた。
敷き詰められている床石は黒く焼け焦げ、煙がくすぶるその場所に、髪を逆立てた武人がいた。朱い鎧に身を包み、瞳は虎のように辺りを睨んでいた。人混みの先頭にいた人々は、これは人ではないと咄嗟に思った。そこにいなかったはずの人が突然に雷が落ちたと共に現れたのだから。
武人は手に持つ大きな刀を天に掲げ、ぐるりとひとかきした。すると、強風が突然にふき、人々の手にしていたものが宙を舞った。手ぬぐいや金、酒、瓶、大小様々なものが風と共に天に噴き上げられ、武人が刀をくいと下にやると舞い上がった物は全て下に落ちた。「何だ何だ、いてて」と境内にいる人々の頭に落ちて、桶が頭上に落ちたところはかぽんと乾いた音がして人が倒れた。
そして物が一斉に落ちて来た後、一陣の強風が辺りに吹き、気付けば人々は膝を折り平伏した。わけもわからずただ膝をつけ、地べたに頭をつけていた。人々は口々に言った。
「何だ何だ!」
「改元の祟りだ」
「逃げた方が良い」
困惑し、何が起きたのかわからず泣き出す者もいた。頭を上げようとすると、見えない力が働いているらしく、どんなに力を込めても頭は上がらない。動かせるのは視線だけで、一体何が起きたのかわかる者はいなかった。
「将門の祟りだ!」
誰かが叫び声のように言った。
「何だって祀ってる神社を祟るんだよ! 思し召して下さったんだ。そうに違いない」
「ありがたや、ありがたや」
祟りと言う者と、そうでないと言い張る者で境内は騒ついていた。そんな光景を八重は石灯籠の影から見ていた。
「何だってこんなことに……」
なぜか八重だけは体が自由に動かせた。人々が地べたに這いつくばっている間、体を低くして何とか人混みから少し離れた場所に移動をする。きっと武人に姿を見られない方が良い気がして、忍者のように物陰に隠れながら辺りの様子を伺う。すると、人混みから離れた場所で文蔵がぶるぶると震えながら平伏している姿が見えた。八重はとっさに姿勢を低くして四つん這いで進み、文蔵に近付いた。
「文蔵。あれって、将門様よね。何なの」
「知らねぇよ。編笠がどっか行っちまったしよぉ、何でお前だけ動けるんだよ。近寄るなよ。見つかったらどうなるかわかったもんじゃねぇ」
「大丈夫よ。将門様は悪い事はしないもの。何か理由があって出て来たのだと思う。それよりも公平はどこかしら」
「知らねぇよ! あっち行けって。俺は死にたくねぇよ」
ぶるぶると震え、まるで役に立たない文蔵を横目に八重は公平を探した。しかし、四つん這いをしながら人探しをするのは無理だった。すぐ側にいる周りの人間しか見えず、わからない。八重は面倒になって、立ち上がった。すぐに八重の周りの大人が騒ついた。
「あんた、立てるのかい」
「八重ちゃんかい。やめときな殺されるよ」
八重にはなぜ人々が平将門を恐れるのか理解が出来なかった。
境内ではいつもすぐ側にいる気配を感じていた。危害を加える気は無く、見守っている感じとでも言うのだろうか。神田明神に時々、気配を表しては消えていた。その姿を見たのは今が初めてだったが、八重は今この時もちっとも怖くはなかった。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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