一
他の長屋の住民が起き始め、家を出て行く音がする。どぶ板を鳴らし、井戸の水を汲んでいるようだった。すっかり朝になり、人々は活動をし始めている。だが、文蔵はひたすら寝ていた。時折り寝返りをうっては居心地の悪そうに眉間に皺を寄せている。
公平はと言うと、ひたすらに書き物をし続け、紙が無くなったので手持ち無沙汰であった。横になっても良かったが、家主である文蔵の許可も無く畳にごろんと横になるのは少し気が引けた。文蔵を起こさないよう静かに土間に降り、水がめから柄杓で水をすくう。柄杓の中の水を空いている方の手に流し、そっと顔を洗うと足の爪先まできんとした冷たさが駆け巡った。きりりと完全に目が覚めた。
朝の光は腰高障子より部屋に差し込み、公平が起きた時よりも随分と明るくなった。文蔵の顔にも光が差している。眉間に皺をよせているので、きっと眩しいのだろう。気持ち良く寝られるようにと気を使って公平は自分の背中で採光を遮ぎると、急に文蔵は目を開いた。
「ん? 朝か」
ごろんと仰向けになり、文蔵は天を仰いだ。それでも起きようとせずにぼんやりと天井の古い木目を眺めている。
「朝飯どうすっかねぇ……」
その時、ぱたぱたとどぶ板を鳴らす音が響いた。
「ちょうど良いや。朝飯かな」
文蔵が起き上がると同時に、家の腰高障子ががたがたと開かれる。いっそう強い朝の光が部屋に入り込んだ。
「公平! お祭りに行きましょうよ。朝から凄い賑わってるわ。人が凄いの!」
戸を開けっ放しにして八重が勝手に入って来た。祭りが楽しみで仕方がないのか、きらきらと目を輝かせている。
「ご飯食べて早く行きましょうよ。握りを作って持って来たの」
八重は手にしていた小さな木箱を公平に渡した。
「おい、八重。俺のは無いのかよ。そして戸を閉めろ。お前のうるさい声が外に聞こえる。朝っぱらから迷惑だぜ」
「もうみんな起きて仕事してるわよ。あんたが寝坊してるだけ」
しぶしぶ戸を閉め、八重は文蔵にも小さな木箱を渡した。蓋を開け、文蔵はさっそく中に入っていた握飯を頬張った。塩気の効いた白米であった。
「何だよ。米だけかよ。漬物は無えのかよ」
「うるさいわね。文蔵の分も持って来てあげただけでも感謝しなさいよ」
文蔵と八重が文句を言い合っている隣で公平もひと口握飯を食べた。炊き立てを作って来たのか、ほんのりと温かく、米の甘味の中にしっかりと塩気が効きとても美味かった。かぶりつくように握飯を食べた。その様子を満足そうに八重は横で見ていた。
「朝からすごい人でね。今日は何とかって踊りもやるみたいよ」
「良いねぇ良いねぇ、商売繁盛だな。期待できる」
文蔵は一口大の大きさになった握飯を一気に口に入れ、空いた手でいそいそと公平の書いた紙を集めた。
「なぁにこれ?」
畳の上にあった紙を一枚手に取り眺めている八重から文蔵はぱっと紙を取り上げた。
「触るんじゃねぇよ。売り物だぞ」
「次の元号は元明なの? 何で文蔵がそんなこと知ってるの。公方様が偉い人達と決めてるんでしょ。何で文蔵なんかが知ってるのよ。おかしいじゃない。まだ高札にも何にも出てないはずよ」
八重の頭にはいくつも疑問が浮かんでいるらしく、曇りのない澄んだ瞳でじっと文蔵を見つめている。
「うっせえな。良いんだよ。がきはさっさと祭りに行っちまいな」
「まさかこれを売る気じゃないでしょうね。こんな怪しい書き物を公平に、子どもにさせたってわけ? 恥を知りなさいよ。このことが見つかったら大変な目に合うんじゃないの。私でもわかるわよ」
文蔵は耳の穴に指を入れてほじっている。八重の言葉は全く意に介していないようだった。
ふっと指についたかすを払い、文蔵はよっこらと立ち上がる。
「こっちは生活かかってんだよ。何とでも言え。生きるってのは必死なんだ。生まれた時から恵まれてるお前にはわからねぇだろうな。知恵と工夫で必死に乗り越えるしかねぇんだよ。なぁ公平?」
「えっ……」
突然に話を振られた公平は、文蔵を睨む八重と身支度をしている文蔵との間に挟まれた。
文蔵が何をしようとしているのかは何となくはわかるが、それが特段悪いことだとは思わなかった。人が食べて暮らして行くのは大変で、寒い夜を外で過ごすのは辛いことだ。それは公平は身を持って知っている。
「食ったら神田明神に行くぜ。祭りだからなぁ。八重、俺の邪魔するんじゃねぇぞ。騒いだらお前んとこの甘酒は虫入りだって噂流すからな」
意地悪く、くつくつと笑った文蔵に、八重は怒りを通り越してもはや呆れた。
「箱、返して」
手にしていた握飯の入っていた木箱を文蔵がしれっとかまどの上にある棚に置こうとしていたので、八重はすかさず手を伸ばして言った。人の物を自分のものにしようとしている意地汚い性根にため息が出る。
こんな男と一緒に過ごしていたらきっと公平はだらしのない大人になる。早く二人を引き離さないと。八重はそんな風に思った。
「よぉし、行くか。お前達は先に行きな」
文蔵は二人を先に行かせ、紙と金を入れる袋を持ち、最後に編笠を深く被り腰高障子を開けた。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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