三
すたすたと先を歩く文蔵の後を追って公平も小走りに歩く。神田紺屋町は職人の町で、活気があった。決して広くはない通りにいる人々は立ち話をしていたり、遠くから誰かを呼ぶ声も良く聞こえる。公平のいた品川宿とは違った喧騒がある。品川宿が海のある風光明媚な宿場町であるならば、紺屋町は所狭しと店が立ち並ぶ、がやがやとした人の町であった。現に通りを歩く文蔵に至るところから声が掛かっていた。
「小さい弟がいたのかい。にしてはあんたに似てないね」
「ちげぇよ」
「今日は子守の仕事かい」
「ちげぇよ」
そんな町の人とのやり取りをしながら文蔵は歩き、足を止めたのは「茶漬屋」の看板がある店の前であった。文蔵は知った風に店に入ると、空いている席に座った。
「俺は茶漬けを食うが、公平のは……俺が決める」
そう言って文蔵は女将を呼び付け、勝手に茶飯を注文した。そして次に茶漬けとむき身切り干しも追加した。
「飯を食って寝たら朝から書き物するからな」
女将が注文を伝えに店の奥へと行くと、文蔵は声をひそめて言った。
「筆と硯もある。あとは手本の文字を真似て書くだけだから。な? 簡単だろ?」
「何を書くの?」
「それは後で教えるよ」
文蔵は店の中から卓に頬杖をつき外を眺めている。周りを見渡すと文蔵のような男ばかりが店内にはいて、子どもは公平一人だけであった。一人で食事をしている者もいれば、数人で酒を酌み交わしている者もいる。
「俺のとこにいられるのもせいぜい二日だな。子ども一人を抱えられる程、裕福じゃねぇ。で、公平よ。お前はここに何しに来たんだい。さっき言ってた柳原の何とかっつうのを探しにかい?」
「神田柳原で古着屋をしてる一平太。父ちゃん。別れた父ちゃんに会いに来た」
「へぇ……両親が離縁したっつうとこか。そんで新しい家から逃げて来たってのかい。折り合い悪そうだもんな。その体のあざ。昨日今日につくったもんじゃないもんな。変色してる。まったく痛そうだぜ」
文蔵は店の外の人通りを眺めながら何でもないことのようにさらりと言った。体のあざは見られていた。誰にも知られたくは無かったのに。公平は肝がぎゅっと握られたかのような息苦しさを感じ、心臓がどきどきとやけに強く脈打つ心地がした。しかし、文蔵が公平を哀れんでいるわけでもなく、悲しんでいるわけでもなくごく普通に言うものだから、胸の息苦しさはすぐに消えた。
「で、神田柳原の古着屋っつっても店を構えてるのもあれば、露店もある。まぁ露店だろうけどな。探すのは簡単じゃあなさそうだが、そこまでわかってんなら探しようもありそうだな。もし、親父が見つかって新しい嫁さん貰って子どももいたら公平はどうすんだよ? 忘れてるかもしれないぜお前のこと」
通りに目を向けていた文蔵がふいと公平に目を向けた。やや吊り目の顔に感情は無かった。ただ聞いているだけ。そんな風に見える。公平が返事に困っていると
「はい、おまちどおさま」
食事を運んで来た女将がとんと公平の前に茶飯と茶漬けとむき身切り干しを置いて行った。茶漬けからは湯気が立ち上り、公平は思わずごくりと喉を鳴らした。
「よしよし、食うぜぇ」
文蔵は先程公平に聞いたことはとうに忘れたようで、箸を持つと茶漬けをかき込んだ。ずるずると小気味の良い音を立て、茶漬けを何口かかき込むと手にしていた茶椀を置いた。
「早く食いな。明日は早えからよ」
公平は目の前に置かれた茶飯を手に取った。ごろっと入った栗と小豆が茶色い米の中に埋もれている。公平はたまらず茶飯をかき込んだ。まともな食事を取るのは久しぶりだ。味わう余裕は無かった。とにかく美味くて頭の中は早く茶飯を食うことでいっぱいになった。
「とりあえず柳原の親父を探す。それからのことはその時考えりゃあ良いか。お前、それだけ殴られてあざだらけでも死なないんだからよ。体が丈夫なんだな。大したもんだよ」
むき身を箸でつまみ、にっと笑った文蔵の顔が眩しかった。
ーーーーー
入り口の腰高障子から薄い明かりが差し込んだ。
寒いけれど、風が落ち葉を運んでこない。ここは家の中で、座布団に上半身を乗せている。昨日食べた茶飯は美味しかったな。
公平はそこでぱっと目を覚ました。文蔵は隣りで小さくいびきをかきながら寝ている。布団はなく、畳にそのまま横になっただけだが、外で寝るよりかはだいぶましで公平の目覚めは悪くは無かった。横にいる文蔵を揺する。
「文蔵さん。朝だよ。やる事あるんじゃないの」
「あぁ……そうだった」
むくりと起きた文蔵は目を擦りながら近くに置いてあった紙やら硯やらを引き寄せた。
「この通りに書きな。紙を無駄にすんじゃねぇぞ。字は書けるんだよな?」
「書ける」
「硯はこれ、筆はこれを使いな。とりあえず今書いてみろ」
公平は言われた通りに硯で墨を擦り、筆を持った。見せられた紙に書かれた文字は文蔵が書いたのだろう。文蔵もそこまで字が上手くはないので、自分の字でその通りの文字を書くことは雑作も無かった。
公平が書いた紙を眺め
「よしよし、良いじゃねぇか。これなら良いだろう。紙が無くなるまで書けよ。俺は寝るから」
文蔵はそう言って再び横になった。しばらくすると静かに寝息が聞こえて来て、公平はぽつんと残された。一宿一飯の恩をここで返さなくては。公平は再び筆を持つと、字を滑らせた。
『元号は元明と変わりました』
ひたすらその一文を書いた。書く文字を間違えないように、そのことだけに注意をして書いて書いて書きまくった。
それにしても次の元号は元明なのかと公平は思った。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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