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つどいて巡る神田人情記  作者: 汐見かわ
神田紺屋町
11/16


 神田明神から歩く事数刻。文蔵の住む神田紺屋町に三人は到着した。紺屋町の金次郎店(きんじろうだな)の長屋に文蔵の住まいがある。よほど腹が減っていたのか八重の持って来た甘酒は、八重の分も公平がきれいに平らげた。

 紺屋町は染物職人が多く住む土地であり、江戸を代表する染物と手拭いの大半はこの町の染物屋で染められた。「場違い」という言葉はこの紺屋町以外の染物屋で染められた物をさした言葉だった。その年の流行は紺屋町に行けばわかるとさえ言われ、紺屋町は江戸の流行の発信地でもあった。


「紺屋町には初めて来たわ。文蔵は金次郎店の長屋に住んでるのね。覚えておくわ」


 八重は辺りをきょろきょろと見渡しながら言った。通りには、藍色に染められた布が旗のように掲げられ、風でひらひらと泳いでいた。藍色の布はいくつもいくつも連なっており、まるで川の中をいるような気になった。美しい光景であった。


「文蔵も染物職人なの?」


 文蔵はその問いには答えずに、表店と表店の間にある木戸を入り、どぶ板を鳴らしながら裏長屋へと入って行った。途中、知り合いに会ったらしく「いつのまに子を拵えたんだい」などと長屋の住民にからかわれていた。


「さぁさ、上がりな」


 腰高障子を引くと、まず目に入ったのは紙と硯であった。畳の上に紙が散乱しており、人が二人と座れる場所は無い。


「座る場所なんてないじゃない」

「うっせぇな、今どかすからよ。そこで待ってろ。触るんじゃねぇぞ。商売道具だからな」


 商売道具のわりには文蔵は乱暴に紙や硯を部屋の隅にどかし、真ん中にどかりと座った。


「おい、公平。お前さん字は書けるか。書けなくても筆は持てるよな」

「字は書ける」

「よしよし、なら問題ねぇ」


 文蔵は機嫌良く笑った。


「んじゃま、外の井戸で水を汲んで来な。とりあえず薄汚ぇ体を拭こうぜ。八重。お前は帰りな」

「もうちょっとここにいるわ。ちゃんと文蔵が公平を助けてくれるか見届けないと」

「ふーん、ま、良いけどよ。俺は家まで送らねぇからな。一人で帰れよ」

「帰り道くらいわかるわよ。公平、水を汲みに行きましょう」


 どぶ板を踏み鳴らし、井戸へと向かった二人は井戸に吊るさられた桶に水が貯まるのを待っていた。


「ねぇ……何で顔にあざがあるの? 誰かに殴られたの?」


 公平は特に何も答えなかった。顔よりも体の方にひどいあざがあるのだが、親に殴られていることは誰にも知られたくなかった。そんな自分は惨めで悲しく恥ずかしい。


「……腹が減って、握飯をとったら殴られた」


 盗んだのは自分では無いけれど、とっさに出たのがその言葉だった。店のおやじに殴られたのは本当だから。親から暴力を受けていることは誰にも知られてはならないと思った。


「もう、そういうことはやめなさいね。捕まっちゃうわ。お腹が空いたら私の家に来なさいよ。甘酒もあるし、食べ物もちょっとは分けてあげられると思うの」


 眉毛を下げ、さも悲しそうに言った八重の言葉に公平は何も言わなかった。自分についてきてくれた少女も自分が握飯を盗んだと思っているらしい。自分がそう伝えたから当たり前だけれども。


 世の中は理不尽で、悪いことは何もしていないのに殴られて、怒鳴られて、惨めで、悲しい思いをする。なぜ、自分だけがこんな思いをするのだろうか。公平は自分の取り巻く辛さに心が押しつぶされそうになったが、文蔵のように見ず知らずの子どもをこうやって家まで連れて来てくれる優しい人もいるのだと、必死に自分に言い聞かせた。

 ほどなくして桶に水が溜まり、二人は文蔵の家へ戻った。文蔵は畳にあった紙を全て拾い、一つの束にまとめるとそれを眺めていた。

 八重は土間の水がまに汲んできた水をざぁと入れ、側においてあった手拭きを公平へ渡した。


「やい、八重。お前さんは帰りな。お父っつぁんとお母っつぁんが心配してるぜ」


 文蔵が八重を見ずに、手にした紙に目を落としながら言った。


「とりあえず体を拭いたら飯でも食わせとくからよ。誰もこんながきをとって食ったりしねえから平気だよ。俺に任せとけ」


 八重はあなただから心配なのよと思ったが、とりあえず大人の文蔵の言うことを聞くことにした。


「ふーん、明日また来るわ。お祭りがあるの。じゃあね公平」


 二人に手を振りながら八重はぱたぱたとどぶ板を踏み鳴らし、帰って行った。文蔵は八重の出て行った引き戸から視線を公平に移し、ごろんと横になった。


「じゃあとりあえず体でも拭いておけ。土埃ついた体で俺ん家に上がるのは勘弁な。そしたら飯だ」


 公平は手近にあった樽に水がまより水を汲み、そこに手拭いを浸す。湿った手ぬぐいをぎゅと絞り、言われた通りに腕や足を拭った。


「背中もちゃあんと拭けよ」


 公平はどきりとした。文蔵は横になりながら公平を眺めている。着物を脱いだら背中や腹にできているもっと酷いあざが見えてしまう。冷や汗が公平の額にじっとりと滲んだ。


「俺はな公平よりももっと小せえ時から、職人のとこで世話になってたから、そりゃあしつけだと酷くやられたぜ。今さら子どもの怪我を見ても何とも思わねぇよ」


 そう言って手にしている書き物を眺めている。今ならこちらを見ていないし良いかと、公平は着物を脱いで背中や脇の下、腹などもくまなく拭った。拭いたところから皮膚が冷やりとして汚れが落ちていく心地がする。気持ちが良かった。ひとしきり拭き終わると、着物の袖をまた通して帯を締め直した。体を拭いている間も文蔵は書き物にずっと視線を落としていた。


「さて、ちと早いが飯にでも行くか」


 文蔵はよいしょと起き上がると公平と共に家を出た。




この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。


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