一
子どもは顔にあざがあった。頬も腫れている。着ている物からして男児のようであった。八重よりも体は一回り小さく歳下に見える。
「どうしよう……」
境内の崖から落ちたのであろうか。であればこの子の親はどこだろう。なぜ親はいないのだろう。見捨てられたのだろうか。いや、今医者を呼びに行っているのかもしれない。
「あなた、しゃべれる? お父さん、お母さんはどこ」
声を掛けるも目をつむったまま無言であった。
「怪我をしたの?」
やはり無言であった。
怖くなった八重は子どもをこのまま放っておいた方が良いような気がして後退りをした。誰か大人を呼んで来よう。人を呼びに行っている間に死んだらどうしよう。子どもはぐったりと身じろぎもせずに地面に横たわっている。何か事件だったら首を突っ込まない方が良いだろうか。親に迷惑はかけられない。怖い。いろいろな感情が渦巻き、八重はその場から離れようと思った。
むしろを元通りにそっと子どもにかけ、くるりと体の向きを変えて、元来た道を帰ろうとした。すると、通りの向こうで飄々と歩く見知った顔があった。さっき、店であったばかりだ。
「文蔵!」
声を掛けられた文蔵は、どこからの声なのか辺りをきょろきょろと見渡し、声の出所がわかると狭い眉間に皺を寄せた。
「何でい、天木屋の嬢ちゃんかい。さっきはどうも。あちらさんも良い神田見物が出来たってぇ喜んでたぜ。それよか今、呼び捨てで呼びやがったか?」
「ちょっと助けて!」
八重は話も聞かずに文蔵の裾をつかみ、倒れた子どもの元へと文蔵を連れて戻った。文蔵はわけもわからず大人しくついて行った。
むしろをどかすと、先程の子どもは薄っすらと目を開けていた。その目には光が無く弱々しい。
「おいおい、顔にあざがあるじゃねぇか。殴られたか。何だいこのがきは。天木屋の知り合いか」
「八重ね。天木屋は屋号だから。この子、知り合いじゃないわ。さっき見つけたの。この辺りの子じゃないと思う」
「親が医者でも探してんだろ。放っておいてやれよ」
文蔵はそう言うと、その場を離れようとした。
「ちょっと待ってよ。こんなに弱って、普通じゃないわよ。放っておけない」
「知らねぇよ。宮司でも呼んで来い。俺は関係ないね」
文蔵は手をひらひらと振って「そいじゃあな」とその場を離れようとした。すると、ゆっくりと子どもは起き上がった。
「……柳原の一平太。父ちゃんを探すの手伝って」
弱々しいか細い声で助けを求めた。八重はそれがいてもたってもいられなく、子どもに駆け寄り、しゃがみ込んだ。子どもが助けを乞うている。どうにかしてやりたいという気持ちが湧いた。
「あなた、お父さんを探しているのね。お母さんはどこへ行ったの」
子どもは首を横に振った。
顔にあざのある子どもがその場に倒れ込んでいる。これは尋常ではないと八重は判断をした。今までにこんな姿の子どもを見たことがない。恐ろしく、そして悲しい気持ちがした。
「……親がいないんじゃないかしら。文蔵、この子に親はいないのよ。柳原の一平太を探してあげましょうよ。このまま放っておけないわ。怪我してるみたいだし。迷子じゃないかしら」
「俺は関係ねぇよ」
「文蔵、子どもが助けを求めてるんじゃないの。それでも江戸っ子なの? 見損なったわ。江戸の中でも特におとこ気のある神田っ子の風上にも置けない。情け無い」
文蔵は八重の言葉に特に何とも思っていないようで、こう反論した。
「あのな、何か訳ありかもしんねぇし、そんなのにほいほい首を突っ込む事が人助けとは思わねぇよ。こちとら自分の生活かかってるんでい。然るべきところに届けを出せば助けてくれるぜ」
「……届けは出さないで」
八重と文蔵は二人して子どもを見やった。横たわっていた子どもは手をつきゆっくりと起き上がると、その場に正座をした。
文蔵は大きなため息をつきながらしゃがみ込み、目線を子どもに合わせる。
「わけありかよ」
子どもは何も言わずに頷いた。文蔵が子の顔を良く見る為に、額に掛かるぼさぼさの髪の毛を掻き分けようと手を出すと、びくりと体を引いて手で頭を守った。文蔵は眉間に苦々しく皺を作った。
手が頭に近づくと反射的に反応をしてしまうのだろう。日頃から頭を殴られているからだ。一体誰に殴られているのだろうか。奉公先か、それとも……。
子どもは口をきつく結び、何も言わない代わりにぽろりと涙をひと粒流した。
「おうおう、男がめそめそすんじゃねぇよ」
文蔵はくしゃりと子どもの頭を撫でて一つため息をつくと、よいしょと立ち上がった。
「仕方ねぇなぁとりあえずは俺んとこに来な。少しの間だけな。その後のことは後で考えるぜぇ」
八重も子どももぱっと顔を上げると、きらきらとした目で文蔵を見上げた。八重はこの時初めて文蔵を見直した。いつもふらふらしている男もやはり任侠のある神田っ子なのだ。
「その代わり、八重は俺んとこに食べ物を持って来ること。そっちは俺の仕事の手伝いをすること。良いな。で、お前さん名前は」
「公平」
「公平、歩けるか」
その時、公平の腹がぐぅと大きく鳴った。
「おい、八重。お前んとこは腐るほど甘酒があるだろうよ」
「わかったわ。待ってて」
八重は急いでその場から駆け出した。
「腹が代わりに返事をしてやがるぜ」
文蔵はにやりと笑った。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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