頭がいいって初めて言われた
赤子の柔軟な頭はぐんぐん身近に起こる出来事を学習していく。
意識がはっきりしてから三か月たち、シャルロッテは無事、フェアフォーテン語を理解できるようになっていた。
といっても、学習元はマルゴットの独り言なので、それほど語彙は多くないのだが。
ある程度まともに声が出せるようになったことを確認したのち、マルゴットに声をかける。
「マルゴッチョ」
「……えぇ!? お嬢様!? 今わたくしの名前をお呼びに!? いえ、まさかね」
「マルゴッチョ、呼びました。話を聞いてくだしゃい」
「お嬢様! まぁまぁまぁ、なんて流暢なお言葉! まだ一歳にもなってないのに天才なのかしら」
驚きながら駆け寄ってくるマルゴットに内心鼻高々になりながら、用件を告げる。
「マルゴッチョ、今までおしぇわをありがとう。あたし、お願いがありゅの」
「まぁお嬢様、お嬢様のお世話をさせていただくのが私のお仕事ですからね! お礼などなさらなくてよろしいんですよ! それで、お願いとは?」
「マルゴッチョがよくやる、火をつけたりしゅるやつがしたいにょれす」
初級火魔法のことである。
シャルロッテは、全ての魔法適性が最大レベルの10という大賢者真っ青の素質持ちの上に、最初から魔法言語である古代アテルニア語ができるため、自力でもある程度の魔法を使うことができる。
一度火魔法から初めて失敗したため、光魔法、風魔法、土魔法、水魔法、闇魔法と、安全そうなものから徐々に試し、コツが掴めてきたところで火魔法に再度挑戦した。
シャルロッテにしてはかなり慎重に進めただけあって、さして問題も起きず、それぞれの魔法レベルを3にあげることができている。
しかし、どういうわけか初級火魔法のスキルが現れない。
シャルロッテのステータスボードに表示されているのは『火魔法3』『風魔法3』といったものだけで、初級火魔法のように『点火、小火玉、沸騰、乾燥』などの細かい説明もつかない。
しかも、マルゴットが魔法を使う際に唱えている言葉は、どうも古代アテルニア語ではないようなのである。
そこで、もしかしたら自分が独学で頑張るだけでは身につかない魔法があるのではないか、という考えに至った。
初級火魔法のような生活が便利になる程度の小さな魔法なら自分でも似たような効果を起こすことはできるが、習わないとできるようにならない凄い魔法があるのだとしたら、早いうちに知っておきたい。
そういう意図をもって、マルゴットに尋ねたのだった。
ただ、『魔法』という言葉を知らなかったので、「火をつけたりしゅるやつ」という曖昧な表現になってしまったが。
マルゴットは、困ったように眉尻を下げた。
「お嬢様、それは魔法のことでしょうか? 私が竈に火をつけるのに使っているのは初級火魔法といって、さほど難しくないのでおそらくお嬢様にもできるとは思うのですが、いくら初級とはいえ火は危のうございますからねぇ。もう少し大きくならないとお教えできないんです」
ごもっともである。実際に火傷しかけたシャルロッテは、納得せざるを得なかった。
しかし、あ、と思いついて、食い下がってみる。
「でもマルゴッチョ、火のほかに魔法はにゃいにょれすか? 水とか風とか」
「申し訳ございません、お嬢様。私ができるのは初級火魔法だけなんです。庶民はだいたい、一種類か二種類しか魔法が使えないんですよ。魔法に長けた貴族家の方なら三種類以上使えたり中級魔法、上級魔法もおできになるそうですが、私はただの町人でございますから」
「あー……」
そういう状況ならば仕方ない。シャルロッテは諦めた。
やはり全魔法属性制覇などというチートは転生特典でもない限りなしえないようだ。
「じゃあ、いくちゅににゃれば魔法ちゅかえましゅか?」
「基本的には五歳になったらですね。……お嬢様、がっかりなさることはありませんよ。お嬢様はヒルデスハイマー家のご令嬢なのですから、五歳におなりになれば、きっと領主様が素晴らしい一流の家庭教師をつけてくださいます。そのためには、文字を覚えておいた方がよろしいですね。マルゴットがご本を読んで差し上げましょう」
マルゴットは、よっこいせ、と腰を曲げ、机の下の方の引き出しから古ぼけた本を取り出すと、読み聞かせの体勢に入った。
どうやら、子供向けの絵本などという気の利いたものはないらしい。
シャルロッテはマルゴットの膝の上に乗って、読み上げる声を聴きながら必死で文字を追う。当然どの音がどの文字に対応しているのかなどほとんどわからないが、言葉を覚えた時も自然になんとかなったから今回もイケんだろ、と楽観的に考えていた。
「それは神明歴560年のことでした。西スキットと東スキットの間に聳える山々には、巨大なドラゴンが暮らしており、気まぐれに人里に下りてきては暴風雨を巻き起こしたり炎の息を吐いたりして、人びとを苦しめていました。ある日、荒廃した村を訪れた騎士、ルドルフ・アッヘンバッハは、村の様子に心を痛め、このドラゴンを成敗しようと山に入っていきました――」
幸い内容は、おとぎばなしのような旅する騎士の冒険譚で、それなりにおもしろかった。年号がでてくるあたり、もしかしたら本当に起こったことなのかもしれない。
シャルロッテはルドルフ・アッヘンバッハのかっこいい活躍の話を聴きながら、魔法使いじゃなくて騎士になるのもいいかも、などと思った。
マルゴットが読み聞かせをしてくれるようになったおかげで、シャルロッテの語彙は急速に増え、何度も同じ話を繰り返されたため文字もそこそこ読めるようになった。
シャルロッテは本来勉強嫌いなのだが、ほかに何もやることがなく、将来魔法を学ぶためと思えば多少の努力はできるのだ、ということがわかり、自分でもちょっとびっくりしていた。
そうこうして一歳になったシャルロッテは、順調にはいはいからつかまり立ちも済ませ、顎の発達が進んで滑らかに話せるようになり、本も時間はかかるが自力で読めるというハイパー赤ちゃんになっていた。
もちろん、離乳食をぶちまけたりおしっこする場所を間違えてしまうこともない。
マルゴットは、今まで面倒を見てきた下の兄弟たちと自分の子ども、下町で見かける赤子らと違ってお嬢様はなんて手がかからなくていい子なんだろう、と感動した。
これが貴種の血というものなのだろうか。いや、そうはいっても普通はここまで利発ではないだろう。お嬢様は特別なのだ。
「お嬢様が成人なさった暁には、きっと社交界でも有名な才媛として求婚者が引きも切らないでしょうねぇ。いえ、それどころではなく歴史に名を残す学者様になられるかも」
ある日シャルロッテに十冊目の本を渡しながら、マルゴットはしみじみと言った。
「このお年でご自分でご本をお読みになるなんて、まるでヘルツェンバイン卿の生まれ変わりですよ。お嬢様は並外れて聡明でいらっしゃいますね」
「そうめい?」
「とっても頭がいいということですよ」
「頭が……いい……」
シャルロッテは放心状態になった。
――頭がいい! 俺が!? テストは赤点を取り続け、幼稚園から高校までずっと『アホの光』と二つ名のように呼ばれていたこの俺が!?
シャルロッテの前世、川本光は、素直で単純で考えなしで思い立ったら即行動し、我慢が嫌いで椅子でじっとしていられなくて授業を聞くとすぐに寝てしまう少年だった。
楽しいことが大好きで、登校中にみつけたたんぽぽの綿毛を大量に教室に持ち込みハゲかけた教師の頭上から降らせたり、クラス中から靴下を集めて野良猫にどの匂いがいいか選ばせたりしていた。
高校の学年主任には渋い顔で、「お前は悪い子じゃないんだがもうちょっとアホを抑えなさい」とため息をつかれたものだ。
つまり、いまだかつて、『頭がいい』などという賞賛は一度も受けたことがなかった。
「わたし……頭がいいのですか……?」
「ええ、それはもう」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているシャルロッテに、マルゴットは微笑ましげに頷いた。
「シャルロッテお嬢様ほど聡明な子どもは見たことがございません。類稀なる才能の持ち主でいらっしゃいます」
シャルロッテは、嬉しさのあまり顔を真っ赤にし、衝動的に万歳した。
「わたし、頭がいいんですねー!!」
「さようでございますとも!」
マルゴットは力強く相槌を打った。
シャルロッテは興奮しすぎて拳を突き上げ、バランスを崩して転んだ。
このときほど、異世界転生して良かった、と思えた日はなかった。