空気がどんどん澱んでいく
メイド長の忠告の正しさは、じきにエグモント本人の行動によって裏付けられた。
自分が家長として受け入れられたと見るや、エグモントは当初の気のいい男の仮面を捨て、尊大に振舞いだした。
シャルロッテを見てやたらにやつくので、なんなんだろうと気味悪く思っていたら、一週間後に樽のように太った男を連れてきて、シャルロッテに引き合わせた。
「いかがですか、プッヘルト男爵。なかなかの容貌でしょう」
「うむ、別嬪じゃないか」
太った男は、太鼓腹を揺らしながら満足げに言った。髪は白髪が混じった灰色で、脂肪のおかげか皺は少ないが、五、六十代といったところだろう。上等な服を着ているが、鼻と顎の下の無精ひげが清潔感を損なっている。
シャルロッテは、前世で老人に可愛がられることが多かったので老人にはどちらかというと好感を持つ傾向にあるのだが、この男には会った瞬間強烈な嫌悪感を抱いてしまった。
「坊主、饅頭やろうな」と頭を撫でてくれた優しいおじいちゃんと全然違う。注がれる熱のこもった視線は、まるでこれから食べる高級肉を品定めしているかのようだ。シャルロッテ自身を見ていない。シャルロッテの顔、肌、胸、首、腕、とにかく部位を見ている。無遠慮に、舐め回すように視線が体中を這いずる。
――キッッッメェ!!
シャルロッテは身震いした。
――なにこいつ!? 近づきたくねえぇ!
「この方はグスタフ・プッヘルト男爵だ。シャルロッテ、お前と結婚してくださる方だよ」
エドモントが満面の笑みを浮かべて言う。
シャルロッテは初めて、卒倒する令嬢の気持ちがわかった。
意識が遠くなりかけたのを気力で持ちこたえて、シャルロッテは適当な挨拶をして叔父とプッヘルト男爵から離れ、よろよろとラングヤール夫人の授業へ向かった。
向かう途中、ショック過ぎて先ほどは出てこなかった疑問が浮かんでくる。
シャルロッテの婚約者はエーベルハルトだったはずだ。何故、突然全く知らない老人が結婚相手にされているのだろう。
――いや、普通にエーベルハルトのほうがましじゃん!? ましっていうか、比べるのが申し訳ないぐらいエーベルハルトの勝ちだよ! あいつと結婚する気はないけど、どうしても男と結婚ってなったら絶対エーベルハルトを選ぶ! いい奴だし、趣味も合うし。
授業部屋に入ると、ラングヤール夫人に顔色が悪いと心配されたので、シャルロッテはプッヘルト男爵と結婚させられそうなことを話した。
すると、ラングヤール夫人は青ざめて、「そんなはずはありませんわ」と言って席を立った。
「プッヘルト男爵は西部のマリスタンを治めていて――そういえばダールラントに近い土地でしたわね。そこで知り合ったのかしら? でも一体何故? 仲がいいというだけではこんな婚姻は結びませんわ。マリスタン……最近何かで名前を……なんだったかしら。あっ」
ぶつぶつ呟いたあと、何かに思い当たったようにはっとした表情になる。
「なんてこと。これではシャルロッテ様があまりにお可哀想ですわ」
ちょっとお待ちくださいませね、と言って、ラングヤール夫人は部屋を出た。しばらくして戻ってくると、手のひらサイズの丸い小箱をシャルロッテに差し出す。中には刺繍用の針と糸が入っていた。
「この針山は、中が空洞になっていますの。ここに丸薬がいくつか入っておりますわ。殿方に……凄く嫌なことをされたとき、その殿方のことが本当に受け入れられなかったとき、これをお飲みになって。一度に一回ですわ。誰にもみつかってはなりませんよ。よろしいですわね」
じっとシャルロッテと目を合わせ、言い聞かせるようにしてぎゅっと小箱を持たせた。
何を言われているのかシャルロッテにはよくわからなかったが、ラングヤール夫人の真剣な表情につられて頷く。
その後、プッヘルト男爵が帰ったころを見計らって、ラングヤール夫人はエグモントに直接問いただしに行った。
「シャルロッテ様は、既にキルステン侯爵家の方と婚約しておられますのよ。素晴らしい良縁ですのに、何故これを反故にしてまでプッヘルト男爵家との婚姻を進められますの? グスタフ・プッヘルト男爵は六十四歳のご老人で、シャルロッテ様とは年が離れすぎているのではないかと存じます」
「家同士の結びつきに歳は関係ないだろう。プッヘルト男爵はシャルロッテのことを大層気に入っておいでだ。あの方ならシャルロッテを末永く可愛がってくれるさ」
「……しかし、失礼ですが家の格が少々釣り合わないように見受けられますわ。マリスタンの賭場で楽しく遊ばれたことは埋め合わせになるのでしょうか? ヒルデスハイマー家の資金力があれば、多少の借金は返済できるのでは?」
ラングヤール夫人は覚悟を決めた顔で言った。
「何が言いたい? 私が借金で困っているとでも!? プッヘルト男爵は友情に厚い方だ、はした金を請求することはない!」
「その代わりにお嬢様をお渡しするのですか。お嬢様の価値はどんな黄金にも勝るとご存じないのですね」
シャルロッテはびっくりして、ラングヤール夫人の横顔を見上げた。ラングヤール夫人が上位者の男性に、こんなにはっきりものを言うのを見たことがなかった。
いつも上品かつ優雅に、相手のプライドを傷つけないよう回りくどい言い方で自分の望む方向に話を誘導していく、それがラングヤール夫人である。
だが、そのやり方が通用しない相手もいる。エグモントは、人の話を聞かない男だ。些細なことならともかく、シャルロッテをプッヘルト男爵と結婚させる話は、強引にでも進めようとする様子がうかがえた。直接的な言い方でないと伝えられないとラングヤール夫人は判断したのだ。
結果として、説得は上手くいかなかった。
エグモントは真っ赤になって、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「家庭教師風情が、伯爵家の婚姻に口を挟むとはずうずうしいことこの上ない! いくら美人とはいえお前のように薹が立った女はもう誰からも相手にされない、だからシャルロッテの結婚にケチをつけるんだろう! おいそこの男、この身の程知らずな女をつまみだせ! 金輪際この城に入れるな!」
近くにいた従僕に命じる。従僕は面食らった表情になるも、主人の命に従おうとラングヤール夫人に近づく。
「ラングヤール夫人!」
シャルロッテは思わず叫び、駆け寄ろうとしたが、エグモントに後ろからひょいと抱えあげられて叶わなかった。
「叔父様、おろしてくださいませ!」
「シャルロッテ、淑女らしくおとなしくしていろ」
――はあぁ!? こいつ人のこと勝手に抱えといてなんつう言い草だ!
睨みつけ手を振り回すが、エグモントは意に介さない。
ラングヤール夫人は、おそるおそる彼女の腕を引こうとした従僕の手をべしりと跳ね除けて、きっぱり言った。
「わたくしに触るのはおやめなさい、家長の命なら出ていきますわ」
毅然とした様子で出口に向かって歩を進め、部屋を出る直前に振り替える。
「シャルロッテ様、あなた様が結婚式で幸せそうに笑う姿を拝見できないのが唯一の心残りでございます。シャルロッテ様はわたくしが今まで目にした令嬢の中でも最高の、全てを兼ね備えた方でしたわ。これから……お辛いこともあると思いますが、シャルロッテ様ほどの方ならきっと乗り越えられるでしょう。陰ながら幸福を祈っておりますわ。どうかお元気で」
最後は少し涙声が混じっていた。
「ラングヤール夫人! どうして……」
シャルロッテは身を乗り出してその名を呼んだが、ラングヤール夫人は従僕に追い立てられるようにして部屋を出ていった。
あの自信に満ちた美しい女性と、こんな風に別れることになるとは思ってもいなかった。
シャルロッテは呆然と開け放たれたドアをみつめ、エグモントに床に降ろされると、無性に腹が立ってエグモントの右足を思い切り踏みつけ、怒りの声を背後にその場を逃げ出した。
なんだかわからないけど、きっとこれからいろんな事が嫌な方向に変わっていく。そんな予感がした。
「ラングヤール夫人だって、貴族の一人なのではないのですか? なぜあんな扱いをされましたの」
いまや唯一信頼できる存在となったメイド長を部屋に呼んで聞くと、メイド長は静かに答えた。
「ラングヤール夫人はあくまで元子爵夫人でいらっしゃいます。ご夫君が亡くなられた今は、なんの権力もありません。あの方は確か男爵家の三女で、ご実家に帰ることもできず、家庭教師をして生計を立てておられました。貴族は働くことを良しとしませんので、家庭教師という仕事をして報酬を得る時点で貴婦人とは見なされなくなるのです。ただ、ラングヤール夫人はあのように教養深く優雅な方ですから、ご令嬢教育において非常に優秀で、一目置かれてはいました。貴族社会では、同情もあって『貴婦人という扱いにして差し上げよう』という雰囲気だったのではないかと愚考いたします。しかしエグモント様があの方を邪険になさっても、表立って批難する方はいらっしゃらないでしょう」
ラングヤール夫人は、随分と不安定な立場だったようだ。
それでも俺のためにエグモントに抗議してくれたのか、とシャルロッテは切ない気持ちになった。
シャルロッテが幸せな結婚をすることを何よりも願っていた彼女は、理想的な婚約が勝手に破棄され、家格が低く年の離れた男に嫁がされることになったのが許せなかったのだろう。
男と幸せな結婚をすることはシャルロッテの望みではなく、ラングヤール夫人の価値観にはしばしば困惑させられたが、彼女がシャルロッテを大事に思ってくれていたことは確かだった。
シャルロッテは、ラングヤール夫人がすぐに新しい職場を得られることを祈った。
次の日、授業に行こうとしたシャルロッテはユーベルヴェークも解雇したことを知らされ、今度はエグモントの左足の脛を蹴り飛ばした。まったくもって令嬢らしくない行いだが、きっとラングヤール夫人もこれぐらいは許してくれるに違いない。
庭に出ようとして、空に灰色の雲が広がり、不穏な影を落としていることに気づく。生暖かい湿った空気が、肌にまとわりつくように頬を撫でる。
春の嵐が近づいていた。