第91話 閉ざされた楓の心 後編
投稿に間があいてしまい、すみませんでした。
僅かな光源も見当たらない纏わりつくような暗闇の中で、紫焔と紅葉はお互いの姿を確認することができる事に、不思議そう表情で周囲を確認するように視線を彷徨わせていた。
しかし、肝心の楓の姿を確認することができずに、紫焔と紅葉はその場から移動しようとすると、二人の目の前にふわりとレイラが現れた。
「は~い、二人とも勝手にうろうろしないでねー♪ ここで迷子になると自分の身体に戻れなくなっちゃうからね」
「そういう事は、最初に言っておいて欲しかったのだが……」
レイラの言葉に紫焔が責めるようにそう言うと、レイラは可愛らしく舌をペロっと出して軽い感じで謝ったあと、忘れていた注意事項を説明し始めた。
一つ、この闇の空間は楓が生まれてから現在までの時間が圧縮された場所で、その時間の数だけ楓の精神世界への入口があり、レイラのガイド無しで今の楓の精神世界に辿り着くには奇跡に近く不可能である。
一つ、レイラの加護無く別の時間の楓の精神世界へ飛ばされたら、レイラにも探し出す事は不可能であるため、二度と今の自分の身体に戻ることができなくなる。故に、レイラの指示には必ず従い無暗に動き回らないこと。
一つ、紫焔と違い、まだ幼い紅葉には精神と肉体が切り離された状態は負担が大きく、一刻半がタイムリミットである。
レイラの説明を聞き終えた紫焔と紅葉がごくりと生唾を飲み込み、硬い表情で頷くと、レイラはいつの間にか手にしていた白い手旗を振り上げて、声と共に進行方向に向けて振り下ろした。
「ちゃんとあたしの後に付いて来てね。それじゃあ、しゅっぱ~つ♪」
紅葉はレイラの後に続きその足跡をなぞるようにして、一歩一歩確かめながら足を前に出し、紫焔もまた紅葉の後ろから恐る恐るといったようすで、レイラの後を追うように歩き始めた。
「二人とも、そこまで緊張しなくても大丈夫だよ。そんなにガチガチだと楓さんを説得する前に体力? 精神力? が尽きちゃうよ」
レイラのあっけらかんとした口調に、紫焔と紅葉はレイラの言う事も尤もだと、強張った笑みを浮かべつつ、緊張で硬くなった身体をほぐすように肩の力を抜いた。
それから、紫焔と紅葉が四半刻ほどレイラの指示に従って歩き続けていると、唐突にレイラは足を止めて高らかに声を上げた。
「は~い、とうちゃ~く♪」
しかし、そこは初めの場所と変わらず辺りは闇に閉ざされていて、それらしい物もなく、レイラにここが目的の場所だと言われても、紫焔と紅葉には本当に移動していたのか、とさえ思えるほど疑わしいものだった。
「は~い、お二人さん。その場で右に向いて~♪」
訝し気な表情をしている紫焔と紅葉に敢えて気付かない振りをして、レイラは最後の指示を出すと、目の前が現在の楓の精神世界との境界だと告げて、二人の背中を押した。
「時間が来たら強制的に身体に戻るようにしてあるから、頑張ってね~♪」
レイラの最後の声と共に紫焔と紅葉は闇の中に飲み込まれるようにして消えていった。
◇◆◇
先程まで闇の中に居た紫焔と紅葉は、突然の光の奔流に手を翳し、瞼を閉じてその眩しさに耐えていた。そして、明るさに慣らすようにゆっくりと瞼を開いていくと、二人の瞳に見慣れた風景が飛び込んで来た。
「父様、ここは……」
「ああ、あれからまだ一年と絶っておらぬのに、何とも懐かしく感じる」
紫焔と紅葉は目の前の家族や使用人たちと共に暮らしていた我が家を、暫く感慨深く眺めていると、庭の池の縁にしゃがみ込んで水面を眺めている見覚えのある人影に気が付いた。
「母様っ!」
「楓っ!」
紫焔と楓はほぼ同時に声を上げると、その声に反応して顔を隠すように頭から羽織を被って背を向けた楓に向かって駆けだした。しかし、あと数歩で手が届くという距離まで近づいた時、楓が叫ぶように声を上げた。
「なりませぬっ! それ以上、近くに寄らないで下さいまし、旦那様っ!」
その訴えるような悲痛な叫びを聞いて、紫焔はそれ以上、足を前に進める事ができなくなり、自分の伴侶の背中をただじっと見つめていた。
しかし、紅葉は求め続けていた母を目の前にして、その制止の叫びを聞いてもその足を止めることなく無く、一歩また一歩と楓に向かって触れる事ができる距離まで近づくと、母親に触れるためにその手を伸ばした。
「触れるでないっ! 近づくなと申したであろう、紅葉っ! 早く離れるのじゃっ!」
怒りと悲しみの混じった叱責の声に紅葉は手を伸ばしたまま、縋るように隠れたままの楓の顔を見つめるが、楓は立ち上がり紅葉に背を向けると、拒絶するように距離を取った。
「楓……すまぬ。我が浅慮ゆえ、其方たちを酷い目に合せてしもうた。我を恨んでくれても構わぬ、誹りも甘んじて受けよう。しかし、紅葉には其方が必要じゃ。せめて紅葉の為にも目覚めてはくれぬか」
「旦那様は妾には過ぎたお方、恨んでなどおりませぬ。」
「ならばっ!」
「だからこそ……だからこそ、できぬのです」
羽織で隠された楓の表情を見ることはできないが、肩を震わせながら頑なに拒むその声音は悲しみの色を纏っていた。しかし、紫焔と紅葉には楓がそこまで拒む理由が分からず、困惑の表情を浮かべていた。
「楓よ、何を恐れる? 我らはすでに助け出されておるのだ。もう恐れる事など何もないのだ。安心して――」
「そうではありませぬ。そういう事では無いのです」
楓は羽織の下で頭を振って紫焔の言葉を遮ると、声を震わせながら目の前の愛する家族に向かって、ゆっくりと口を開いた。
「あの時、妖魔族の男に大見得を切っておきながら、不浄の者たちに幾度となく穢された妾は、妾は…………。妾にはもう、旦那様と共に歩む資格などありませぬ。このような穢れた女子の事など忘れて紅葉と共にお戻り下さいまし。妾はこのまま此処で朽ち果てとうございます」
楓は卑劣な妖魔族の男と魔物への怒りなのか、それとも自身の弱さへの怒りなのか、声を震わせながら紫焔と紅葉にそう告げると、二人の視界から逃げるように家の影に向かって歩き始めた。
しかし、数歩進んだ所で楓は自分を呼ぶ声と共に背を引かれて蹌踉めくと、その反動でするりと被っていた羽織が落ちて、顔の半分ほどが魔物の様にくすんだ緑色に変色し歪に変形した楓の顔が露わになり、それを間近で見た紅葉はあまりの衝撃で顔を蒼ざめさせ、口元に手を当てて短く息をのみ込み、紫焔もまた言葉が失うほどの驚愕を受けていた。
楓は最愛の二人にだけは見られたくはなかったと、物悲しげに微笑んで魔物の様になった手で、慈しむように楓の頭を撫でながら声をかけた。
「旦那様、見てのとおり妾は心まで穢されてしもうた。このまま目覚めたところで、それは妾の形をした魔物に成り果てるだけ。旦那様の心が離れていくのは目に見えておる。それが妾には耐えられぬのじゃ!」
「妾には母様の手から以前と変わらぬ温もりを感じます! 母様の声から以前と変わらぬ優しさを感じます! 母様の瞳から以前と変わらぬ慈しみを感じます! 母様は穢れてなどおりませぬ!」
「紅葉の申すとおりじゃ! 我を見縊るでない! 其方がどのような姿に成ろうとも、其方と初めて言葉を交わした時から我の想いは変わらぬ!」
紫焔の想いの籠った言葉と共に力強く抱きしめられた楓は、始めこそ変貌した身体に触れられるのを嫌がり藻掻くように暴れていたが、次第にその抵抗を弱めると、その身体を委ねるように紫焔の胸に顔を埋めて背に手を回し、何度も最愛に人の名を呼びながら大粒の涙を流して泣きじゃくっていた。
魔物たちに穢されたことで、愛する者達の心が離れていくのではないかという恐怖から闇へと堕ちかけていた楓の心が、紫焔と紅葉の想いを感じ受け止めたことで、魔物の様に変貌していた姿が本来の楓の姿へと徐々に戻り始めた。
それと同時に紫焔と紅葉の身体も透けるように薄くなり始めて、二人は楓の精神世界に居られるタイムリミットが近づいていることを悟った。
「楓……」
「心配はいりませぬ、旦那様。話の続きはまた後でいたしましょう」
「母様っ!」
「うむ。妾もそろそろ起きるゆえ、先に行っておれ」
嬉しそうに輝かせる紅葉の顔を最後に、紫焔と紅葉が楓の精神世界から音もなく消え去ると、楓もまた現実世界で目覚めるために、ゆっくりと瞼を閉じた。
紫焔と紅葉、無事に楓さんを目覚めさせる事ができました。
あと少しで、魔の森での話も終了です。