第89話 閉ざされた楓の心 前編
朝食を終えたパーシヴァル達がヴェネッツァの街へ発ち暫くして、ふらふらと力なくベルがアルベルト達の元へ飛んできた。
「アル~ぅ。ボク、もう疲れたよー。休んでも良い? 良いよね? 良いと言ってー」
「ああ、休んでいて良いぞ。お疲れ、ベル」
「やたー!」
嬉しそうに叫びながら諸手を挙げて喜びを露わにしたベルは、ポンっと掌サイズに姿を変えて、一目散にファンティーヌの方に向かって飛んで行き、ファンティーヌの肩に乗ると、ファンティーヌの柔らかい頬にうっとりする様な表情で頬擦りをしていた。
「は~ぁ。癒される~♡」
「にゃあぁぁぁっ。ベルちゃん、くすぐったいなの~っ」
「もうちょっとだけ。お願いっ」
「ちょっと待ってなの~っ、ディアナ小母さんのお手伝い出来なくなるのなの~っ」
身悶えるファンティーヌが両手に持つ洗ったばかりの器を、落としそうになっているのを見かねたアリアが傍に寄って来て、ひょいとベルを掴んで持ち上げると、ジタバタするベルの向かって空いている手の人差し指を突き立てた。
「めっ! お手伝いの邪魔しちゃダメでしょっ!」
「そんな~っ。ボクだって、ずっと頑張ってたのに。少しくらいご褒美があっても良いじゃないか~っ」
悄気るベルを見て、アリアとファンティーヌは顔を見合わせてクスリと笑い、労うようにベルに声をかけた。
「お疲れさま、ベルちゃん」
「お疲れ様なの。お手伝いの邪魔をしないなら、ファニーの傍に居ても良いのなの」
「邪魔しない、しないっ! だから、ファニーの頭の上で寝させてっ!」
ベルが両手を組んで瞳を輝かせながらファンティーヌにそう訴えると、ファンティーヌはきょとんとした顔で小首を傾げてベルに聞き返した。
「頭の上? ポケットの中じゃなくて? 大丈夫なの? 落ちないのなの?」
「大丈夫、大丈夫っ! ボク、精霊だよ。落ちたりなんてしないよ」
「それじゃあ良いけど、絶対にお手伝いの邪魔はしないでねなの」
「ラジャーっ!」
アリアの手から解放されたベルは、敬礼するように右手を額に当てる仕草をしてから、すとんとファンティーヌの頭に飛び乗って大の字に仰向けになると、直ぐにスヤスヤと寝息をたてはじめた。
「え!? もう寝ちゃったの? 吃驚するくらい早いんだけど」
「うん、吃驚したのなの。でも、それだけ疲れてたのかもなの」
「だねっ。 おやすみ、ベルちゃん」
「ベルちゃん、おやすみなさいなの」
そう言って、アリアとファンティーヌは再び顔を見合わせて笑い、アリアがファンティーヌの持っている器を半分手に取って、ファンティーヌの負担を減らすと、二人並んでディアナの元へと歩き出した。
◇◆◇
朝食の片付けが終わり手伝う事がなくなったアリアとファンティーヌは、未だに目を覚まさない母親の傍で紫焔と並んで座る紅葉の元にやって来ていた。
しかし、沈痛な面持ちで祝福の泉に横たわる女性を見つめる二人を見て、幼いアリアとファンティーヌは掛ける言葉が見つからず、ただ一緒になって、紅葉の母親を見つめていることしかできずにいた。
そこへローガンに森の様子を聞くついでに、食事を持って行っていたアルベルトが戻って来た。そして、セレスに声をかけて、鬼族の女性の容体について訪ねていた。
「身体の方はぁ完治しているのだけれどぉ、心の方がねぇ目覚めるのを拒絶しているみたいなのぉ」
「っく……我の所為じゃ。我が不甲斐ないばかりに、楓の心に深い傷を負わせてしもうた」
肉が裂けて血が滴るほど、拳を地面に何度も突き立てて自分を責める紫焔を見て、紅葉が紫焔の腕にしがみ付き、それを諫める様に声を荒げた。
「やめるのじゃ、父様! 父様は悪うない、悪いのは彼奴らなのじゃ! 妾も母様も人の為に尽力しておった父様を誇りに思うておる! 今でもそれは変わらんのじゃ! だから自分を傷つけるのは止めるのじゃ!」
縋る愛娘の瞳から零れる大粒の涙を見て、紫焔は湧き出る制御できない様々な感情に、肩を震わせ耐えるように紅葉を抱きしめた。
「もう、折角治してあげたのにぃ、自分で傷つけるような事ぉしないで欲しいわぁ」
「申し訳ありませぬ、精霊様。父様も妾と母様の事を思うてした事なのじゃ、許して給れ」
「セレスお姉ちゃん。あたしからもお願い、許してあげて」
「ファニーもお願いするのなの」
紅葉だけでなくアリアとファンティーヌにまで懇願するように見つめられたセレスは、思わず半歩引いて後退さると、ばつが悪そうに目を逸らして口を開いた。
「そ、そんな事は分かっているわよぉ。わたしはぁさっさと泉に手を浸けてぇ治しなさいって言いたかったのぉ」
「父様、精霊様の言う通りじゃ。早う泉に手を浸けるのじゃ」
父親の拳の傷を癒すために紅葉が紫焔の手を取ろうとするが、紫焔はそれを制して静かに首を横に振り、悲痛な面持ちで妻の寝顔を見つめながら口を開いた。
「楓が負った心の傷に比べれば、この程度の――――」
「ダメじゃ!」
「――ッ!?」
しかし、紫焔の言葉は紅葉の叫ぶような声によって、全てを言い終える前に遮られた。
「妾はもう……これ以上……父様と母様が傷つくのを……見とうない……のじゃ……」
紅葉は紫焔に縋りつき肩を震わせながら絞り出すようにそう言うと、堰を切ったかのように紅葉の瞳から大粒の涙が次から次へと溢れだし、今まで抑え込んで耐えてきた感情を爆発させるように、声を上げて泣き出した。
「もみ、じ……泣か……ない、で…………」
それは不意に、ともすれば聞き逃してしまいそうな程の、か細い声音が楓の口から漏れた。
その場の全員の視線が楓に集まる中、紅葉は父親の腕から手を離して、涙を堪えるように洟を啜り、噎びながら泉の中に横たわる母親を見つめて声をかけるが、その声は空しく響くだけで答えが返って来ることは無かった。
「今、楓の意識が戻ったのではないのか?」
「まだ目覚めてないわよぉ。今のはぁ紅葉ちゃんの泣き声にぃ、無意識に反応しただけなのよぉ」
紫焔の問い掛けにセレスが事実をそのまま告げると、紫焔はがっくりと肩を落として、一度溢れだした涙を止める術を持たないといった様子で嗚咽を漏らす紅葉を、抱きしめてやる事しかできないでいた。
その二人の様子にディアナと子供たちも掛ける言葉がなく、居た堪れない気持ちに胸を痛めていた。
「セレス、一つ聞いて良いか?」
「なぁに? アルぅ」
「この女性、いや、楓さんはこのまま時間を掛ければ、自ら目を覚ますのか?」
「ちょっと難しいかもぉ。ベルちゃんから預かった時にはぁ、ほぼ堕ちていてぇ酷い状態だったのねぇ、だからぁ心が壊れなかっただけでもぉ奇跡なのぉ」
セレスの答えを聞いたアルベルトは腕を組んで目を閉じると、俯いたり天を仰いだり首を振りながら考え込み始めた。
そうして暫く思い悩むように思考を巡らせていたアルベルトが、心の底から憂鬱そうな表情で大きく息を吐き出すと、紫焔に向かって声をかけた。
「紫焔、さっきセレスが言ってたように、このままだと奥さんはいつまでも目を覚ます事はないと思う」
「精霊様が言うのであれば、そうなのであろう。だが、他に手立てがないのならば、今の我にできるのはこの場に止まり、只々、楓の傍に居て目覚めるのを待つ事しかできぬ」
「他に手立てがあるとしたら?」
「――ッ!?」
「奥さんを、楓さんを目覚めさせる事ができるかもしれないとしたら?」
アルベルトの言葉を受けて、暗闇の中に一条の光を見出したような表情を浮かべた紫焔親子は、身を乗り出し噛みつくような勢いで口を開いた。
「それは誠であるか!」
「妾にもう一度、母様と話をさせて給れ!」
「二人とも落ち着ついて。楓さんが目覚めさせるには、二人の協力が必要なんだ」
「楓の為ならば、どのような事でもいたそう! 隷属しろと言うのならば、それに従っても構わぬ!」
「妾もじゃ! 母様の為なら何も怖あない!」
「いや、ダメだろ。それじゃあ、楓さんが――――」
「ダメなの。それじゃあ、お母さんが悲しむのなの」
「そうだよー。それにアル小父さんが、そんなこと言うはずないよ」
紫焔親子の言葉を聞いて、アリアとファンティーヌがアルベルトの言葉を遮って、紫焔と紅葉を諫める様に声をかけると、紫焔親子は母であり妻である楓の為に、全力を尽くす覚悟を口にしただけことだと、幼い二人を相手に言い訳を繰り返していた。
「それで、我らは何をすれば良いのじゃ?」
「ただ楓さんと話をして、説得してもらうだけだ」
「意識の無い母様とどうやって話すのじゃ! 妾たちを揶揄うのも大概にするのじゃ!」
「揶揄ってなんかいないさ。話せないなら話せるようにすれば良いだけのこと」
「そのような事ができるのであるか?」
「俺たちにできないなら、それができる奴を呼べば良い」
紫焔親子が得心のいかないような顔でアルベルトを見つめる横で、アリアとファンティーヌは好奇心に溢れた表情で瞳を煌めかせて、ディアナは口元をヒクヒクと引き攣らせながら、死んだ魚の様な目をしてアルベルトに視線を送っていた。
アルベルトの提案にアリアとファンティーヌ、そして、ディアナは何かを感じ取ったようです。