水玉と墓石
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふーん、ここも文豪ゆかりの地って石碑が建っているわね。こうして亡くなってからも影響力を持つのって、はためにはすごいと思うけど、本人はどう思っているのかしら。誇らしく思う人もいれば、「そっとしておいてくれ」って人もいるかも。
自分の死後の評価って、私はものすごく興味が湧くんだけど、つぶつぶはどうかしら? 生きている時でさえ気が気でないなら、ずうっと長い死んだ後のことなんて、頭がおかしくなっちゃうくらいの関心の的になりそう。あ、でもそれが未練になったら、化けて出ちゃうのかな?
こうした記念碑の類も、私たちが入るであろうお墓も、ほとんどが自分ではない、誰かの手によって作られるもの。ある意味で自分が積み重ねてきた縁の集大成で、有り難いことこの上ない。日頃から死んだ後のことも考えて、恥じることない生き方をしないと……なんて、どこかの宗教っぽいかしらね。
生きている間に重ねたものは、目に見えないことも多いわ。その分、目に見えた時には、私たちは気を配らないといけないのかも。そう考えるきっかけになった、私の昔話、興味があったら聞いてみないかしら?
「水玉模様。踏んで生まれて、生まれて踏んで。あなたの生きる道しるべ」
この文句、つぶつぶは知っているかしら? 私が小さい時に、おばあちゃんから教えられたのよ。
人の歩いた後には、地面に水玉が残される。雨の日に限った話じゃなくてね。たいていは目に映らないそれだけど、それらが積み重なると、まれにその姿を現わす。
そんな時には、進んで踏むべき。ひとつところに溜まってしまったものが、大きく弾けて辺りに散らばる。それがこれから先、もっと多くの人の幸せにつながるんだって。
「くれぐれもうぬぼれちゃあいけないよ。たとえこれまでがダメで、今現在もダメダメだとしても、ここから先は分からない。幸せは自分と皆が作るもの。あんたもおろそかになっちゃあ、ダメなんだ」
おばあちゃん、ダメダメいうのが好きな人でさ。でもけなし言葉で使うことはあんまりなかったなあ。関西の人がよくいう「あほ」に近い感覚だったかも。
そんなこんなで、当時は素直だった私は、日々を過ごしながら「水玉模様」を待ち受けていたの。
初めての遭遇が、小学校にあがってからの登校時間だったかな。
ちょうど自由登校の時期。私は友達との待ち合わせ場所になっていた、交差点へ向かっていたの。
それは水たまりと呼ぶには小さく、そして鮮やかに色づいていた。油が混じった時の瑠璃とは違う、絵の具をきれいに溶かし込んだような水色ひとつ。周りがグレーのアスファルトの中で、個性を頑固に発揮していたわ。
私の数歩前を行くサラリーマン風の男性は、水玉に気づいた様子はない。鞄を手にしたまま、ごく自然に玉をまたいで先を急ぐ。私は「とととっ」と小走りで近づき、盛り上がる水玉をしげしげと眺めてから、おばあちゃんにいわれた通り、「えいっ」と踏んづけてみる。
踏んだ感触は、水たまりのそれに比べて粘り気を帯びていたわ。靴の底からにゅるりと逃げ、ふくらみがぱちんと弾けてそれっきり。どちらかというと「裂いた」印象の方が強い。足を持ち上げた時にはもう、水玉の跡はどこにも残っていなかったの。
これで幸せを、みんなに分けてあげることができた。おばあちゃんの言葉を信じ、私はとても上機嫌。けれども、この時から私の前へたくさんの水玉と共に、あるものが姿を見せ始めるようになったの。
初めは、なんでもないところでやけに足がつまづくようになって、首を傾げるばかりだった。何回目からか意識して足元を見ると、私がつまづく直前、不意に地面が盛り上がり、つま先につっかけてくるものがあったの。
現れるのも消えるのも、あっという間。意識して高く足を上げるようにしても、そこへ追いすがるように突起は身体を伸ばし、引っ込んでいく。でも外へ出ている時間が伸びたことで、私にはこの邪魔者の正体がはっきり分かったの。
それは、私の名前が刻まれた細い墓石。見た目なら位牌の方が近かったけど、蹴倒せるような軽さはなかった。むしろつまづいて然りと思わせる、頑健さがそこにあったわ。
他の人には見えていないみたい。つまづいたり、立ち止まったりしてしまう私の横を、不思議そうな顔をして通り過ぎていく。その様子に、私は漫画のキャラが、死期を悟ってしまったかのような気になっちゃったわ。
――もしかして私、近いうちに死んじゃうのかも。
そうこうしているうちに、とうとう墓石は足元に留まらず、ぬりかべのように私の前に立ちはだかるほどになったわ。はたから見た私の奇行にはいよいよ磨きがかかり、救いといえば、校内や家の中ではほとんど見かけないことだった。
相変わらず、ぶつかるとちゃんと衝撃がある。私のイメージ通りに、触れればびくっと身を引っ込めてしまう冷たさも。路上を歩く時にはいつでも足を止められるよう、びくびくしっぱなしだったわ。
おばあちゃんに相談したけど、「積み重ねを信じなさい」の一点張り。まともに取り合ってくれないことに、私は焦りと不満を募らせていったわ。じょじょにおばあちゃんと話す機会は減っていき、向こうから声を掛けてきても生返事で終わらせてしまうことが、ままあったわ。
墓石が立ちはだかるようになって、二ヵ月が経つ。友達に変な目で見られるのが嫌になってきた私は、その日もひとりで下校していたわ。
私の使う通学路は、途中で大きい十字路をいくつか越えなくちゃいけないの。そのうちのひとつで赤信号のお出迎え。足を止めるや、信号が周りの景色もろとも、塗りつぶされて見えなくなってしまう。
例の墓石よ。もううんざりするほど目にした水色の墓石を見て、私は「またか」とため息をつく。今回は歩く最中じゃなくて助かったけど、別のことで気が休まらない。
私の名前を刻んだ墓石は、心なしか傷み具合が増しているたの当初は真新しかった水色の直方体が、今は手前上部の「辺」がぽっくり欠けてしまい、私の名前を刻んだ溝も、いくつかはそこからひびが入っていた。
いよいよ私の死ぬ時が近づいている。どきどきはするけど、実感はない。だって、身体はどこも痛くも苦しくもないんだもの。
今日の墓石は、妙に長く立っている。私と同じ赤信号待ちの人が溜まってくる十数秒の間、じっとたたずんで動く気配がない。すっかり隠された視界の向こうで、盛んに車が行き来する音だけが響いている。私はじっと、墓石が消えるのを待つのみ。
その目の前で、唐突に墓石にひびが入ったの。脳天に鈍器を打ち込まれたかのように、ぎざぎざの稲妻が石の表面を走る。戸惑ってのけぞり気味になった私の目の前で、墓石は砕け散ったわ。爆散と言った方がいいかもしれない。
四方へ飛ぶ破片は、私の顏へも容赦なく迫ってきた。
かわせたのは、きっとこの気味悪い相手から目を離さなかったおかげ。私はさっと身をひるがえして、破片をかわす。よけてからまた、「みんなに変な目で見られるなあ」と思ったけど、周りの人は私より、私の後方を見やっている。
がっ、がっとアスファルトの上を跳ね、やがてコーンと甲高い音が響く。見ると、墓石とは違う大きな石が、私の背後十メートルそこそこにある柵にぶつかったようで、両者は大きく震えていたわ。
石はかなり大きく、私の顔面くらいはあった。先ほどまで見ていた墓石とは似ても似つかない色と形だけど、かなりの勢いを持っていたのは分かったわ。あれにぶつかっていたら、かなりのケガになっていたでしょうね。
たまたまその場で信号待ちをしていた友達によると、行き来する車の一台が、道路の真ん中の石を蹴飛ばしたみたい。あっ、と思った時には石が速球となって私の顏へ襲い掛かっていたとか。
当たる、と友達は思ったけど、目をやった時にはもう私は身体をひねっていた。後は音の通り、地面を跳ねて柵にぶつかって、寝転んでしまったとか。
墓石が身代わりになってくれた、なんて虫のいい考えかもしれない。
でもね、あの墓石はひょっとしたら、私がおろそかになると困る、どこかの、いつかの誰かが用意したんじゃないかと、私は思っちゃうのよ。