60. 引っ張りました
その夜、シルヴィスさまが後宮の部屋を訪れてきた。
以前と同じように、客間に向かい合って座り、人払いをする。
シルヴィスさまは憔悴した様子で椅子に腰掛け、テーブルの上で手を組み、俯いている。
少し、痩せただろうか。あれから何日と経っていないのに。
侍女がテーブルの上に果実酒と、私のためのウバのお茶を置いていってくれている。
「よろしければ」
私は手を開き、揃えた指先で果実酒を指し示した。
「ああ」
でもシルヴィスさまは、それを眺めるだけだ。
「大丈夫です。匂いがすれば、わたくしがお知らせしますわ」
私の言葉に、彼はフッと笑う。
「いや、後宮にあるものだし、毒物が入っていると疑っているわけではないのだが」
「けれど、食が進まない?」
シルヴィスさまは自身の頬に手を当てそれを少し滑らせると、苦笑する。
「そのように見えるか」
「はい」
「そうか。いや、単純に、食事の時間が取れていないだけだ」
それはそうかもしれない。通常であってもお忙しい御身であるのに、さらに今は婚姻の儀を控えている。
それらも滞りなく済ませなければならないのに、内密に、ケヴィン殿下にまつわるあれこれもこなさなければならない。
「フランツ殿が来てくれてから多少は楽になった。ケヴィンに関する雑務は引き受けてくれている」
「それはようございました」
それから少しの間、静寂が私たちの間に訪れる。
そして。
「クロヴィスとの別れは、済ませただろうか」
ぽつりとシルヴィスさまが声を掛けてきた。
「ええ」
私はうなずく。
「その機会をくださって、ありがとうございます」
「いや、礼を言われることではない」
そう返してからシルヴィスさまは顔を上げ、私をしばらく見つめたあと、口を開いた。
「すまない、エレノア」
まただ。また、謝った。
ケヴィン殿下のあの事件の日、シルヴィスさまは最後に私に謝った。
それはどういう意味なのだろう。
「わたくしは、いったいなにを謝られているのです?」
私は眉をひそめて、そう問う。
嫌な予感がする。
いや。嫌な予感しかしない!
シルヴィスさまは目を伏せ、ゆっくりと話し始める。
「余が不甲斐ないばかりに、ケヴィンにあんなことをさせ……」
それからため息とともに、こう続けた。
「そして、エレノアの人生における選択肢のひとつを奪った」
私はそれを聞いて、頭が真っ白になりそうだった。
まさか。
まさか、まだ、そんなことを考えていたんですか。
シルヴィスさまが言うところの、『選択肢のひとつ』。
それは、シルヴィスさまとの偽装結婚を経て、クロヴィスさまの妻になること。
嘘でしょう?
どれだけポンコツなんですか、この大人! ポンコツにも程がありませんか?
開いた口が塞がらないとはこのことですよ!
私はテーブルに、バンッと両手をついて立ち上がる。
それに驚いたようにシルヴィスさまは身を引いた。
「どうし……」
私は構わずシルヴィスさまにずんずんと歩み寄ると、その前に立った。
「エ……エレノア……?」
シルヴィスさまは戸惑うように、こちらを見上げている。
私は両腕を伸ばし、両手でその髭をつかむ。
む。つかむには、ちょっと短いな。
それでも無理矢理持つと、そのまま下に引っ張った。
「痛っ」
痛がるシルヴィスさまに構わず、私は思いっ切り息を吸い込んで、そして。
「目を覚ませー!」
自分で出せる最大の声量で、そう叫ぶ。
「うわっ」
シルヴィスさまは慌てて両手で自分の耳を塞いでいた。
あ、やりすぎちゃったかしら?
でもまあ、いいや。これくらい、いいでしょう。これくらいは、やらせてほしい。
私はつかんでいた髭から手を放すと、それを自分の腰の両側に当てた。
「いつまでそうやって、自分の価値観の中で生きているつもりなんですか!」
「エレノア……」
彼は耳を塞いでいた手をそろそろと外すと、私を呆然と見つめている。
「わたくしを見て! わたくしの話を聞いて! わたくしを信じて!」
いったい今までなにを見てきたの。
いったい今までなにを聞いてきたの。
どうして私を信じてくれないの?
「わたくし、何度も言いました! あなたと恋をしたいって! どうしてそれを信じてくれないんですか?」
「……それは」
まあ、いろいろあるんでしょう。
侍女たちが「二十三歳も年上の男性に嫁ぐなんてお気の毒」とか噂しているのを聞いてしまったとか。
女性から逃げられていたとか。
クリスティーネさまを保険の立場にしてしまったとか。
でもそんなもの、今はどうだっていいじゃないの。
目の前の私を見なさい、このやろう!
「とにかく、わたくしの話を聞きなさい!」
私の剣幕に負けたのか、シルヴィスさまは大人しく、椅子に座り直してこちらを見上げた。
よろしい。
私はひとつうなずくと、口を開いた。
「ええと、なにから話しましょうか」
「なんなりと」
「では最初から」
私にだって、いろいろ思うところはあるんです。
なにも考えずにこの十六年間、生きてきたわけじゃないんです。
ただただ物語のような恋をしたいって、無邪気にはしゃいでいたわけじゃないんです。
「わたくしは物心ついたときから、おいたわしい、って言われ続けてきましたわ。生まれたばかりで、二十三歳の男性と婚約させられたって」
「エレノア……」
「でも、誰もなにも、しやしない。可哀想、可哀想、って言うばかり。ときには涙も見せられました。なんておいたわしい。なんて可哀想な姫さま、って!」
会う人、会う人、皆に言われた。
本当に、もう、数えきれないほど。
「でも誰も、なにもしないのです。それなのに、可哀想、なんて言葉になんの価値がありましょうか」
可哀想な姫さま。
国のために犠牲になる姫さま。
皆、そうは言うのに、だからといって、なにかするわけではない。
お父さまもお母さまも、謝るだけ。
誰も彼も、憐憫の言葉を口にするだけ。
それにいったい、なんの価値があるというのか。
「だからシルヴィスさまの偽装結婚の提案は、ほんの少し嬉しかった。内容はどうあれ、わたくしのために、なにかしてくれようとしたんだって」
そうよ、そうだわ。どうしてあのときわからなかったんだろう。
あのとき生まれた素敵な気持ちは、シルヴィスさまがくれたのよ。
ぽかぽかと温かくて、それでいて染み渡るような静かな気持ち。
今ならわかる。あれは、恋の始まりだった。
だから、決めたのだわ。
この人と恋をしようって。
初めて私のために動いてくれた、この人を好きになるんだって。
確かに、『恋夢』のフェリクスみたいに外見も素敵で、お優しそうで、お腹も出ていなくて、それで好きになれるかもしれないって思ったわ。
でも、それだけじゃない。
私はあのとき、偽装結婚の話を聞いたとき、決めたのよ。
この人と恋をするんだって、あのときに決めたの。
本当に、おかしな話。
偽装結婚の提案は悲しかったのに、でも同時に、好きになるきっかけでもあったんだわ。
喋っているうちに、頭の中が整理されていく。漠然としていた気持ちが形を変えていく。
私はちゃんと、あのときから、シルヴィスさまのことが好きだったんだわ。
私は間違っていなかった。最初から。




