57. 秘密を教えてもらいました
空になったカップに、クリスティーネさまはポットからお茶を注いだ。そして私に差し出す。私はそれをありがたくいただいた。
クリスティーネさまは、頬に手を添えて喋り始める。
「でもまさか、エレノア殿下がそんなことを心配なさっているとは思いませんでした」
「あの……それは……わたくし、陛下には子ども扱いされているので、大人の女性であるクリスティーネさまがいいのかなって……」
私は自分の指先を弄びながら、そんなふうに弁解する。
「子ども扱い?」
ちょっと驚いたように口元に手を当てて、クリスティーネさまは問い返してきた。
「やっぱり、二十三歳も年が離れているから……それは仕方ないのかなって思うんですが……」
ついつい弱気な言葉が口から滑り落ちてしまう。
クリスティーネさまを、なんだかお姉さまみたいに思ってしまっているみたいだ。
彼女は自分の顔の前でひらひらと手を振って話し始めた。
「いえ、子ども扱いというか」
なのに、そこまで言って、彼女は突然に口をつぐんだ。
「えっ、なんですか?」
「ああ、いえ、これは……」
クリスティーネさまは斜め上を見て、しばらく考えたあと、こちらに顔を向けてにっこりと口元に弧を描く。
答えてくれる気になったのかと思いきや、彼女はこう告げた。
「内緒です」
「ええー!」
私はクリスティーネさまの腕に手を伸ばし、両手で持つと軽く揺さぶった。
「なんですかー! 子ども扱いというか、の続きはなんですかー!」
「あらあら」
彼女は私にされるがままになって、くすくすと笑っている。
「駄目です、内緒です」
「いじわるー!」
「さきほどエレノア殿下は、教えて教えてばっかり、ってご自分で仰ったではないですか」
クリスティーネさまの返事に、私はぐっと詰まる。
確かに。さっき反省したばかりだった。
「わ、わかりました……」
私はクリスティーネさまの腕をつかんでいた手を放すと、自分の膝の上で重ねて置いた。
今の私は、誰がどう見ても子どもっぽい。これはいけない。
クリスティーネさまは、軽く唇を尖らせた。
「でも、意地悪と思われるのは癪ですわ」
「すみません……つい」
しょげている私を見て、クリスティーネさまは小さく笑った。どうやら本気で怒っているわけではなさそうで安堵する。
「だからひとつだけ、陛下の秘密を教えて差し上げますわ」
「えっ、本当ですか?」
私はぱっと顔を上げる。
シルヴィスさまの秘密? そんな素敵なものをご存知で? それは知りたい!
「ええ、内緒ですよ?」
にっこりと笑って、クリスティーネさまは私の耳に顔を寄せた。
なんだろう。そんなに大層な秘密なのかしら。私が聞いても大丈夫なのかしら。
「あのですね」
「はい」
「陛下は、腹筋を鍛えるのが毎晩の習慣なのですよ」
「まあ」
なんと。
お腹が出ていないのには、そんな陰の努力が。
よくぞがんばってくださいました!
さすがシルヴィスさまです!
本当に良かった!
「エレノア殿下がお生まれになる、少し前からみたいです」
クリスティーネさまは私の耳元から顔を離すと、くすくすと笑う。
「弟君が、少々ふくよかでいらっしゃいますでしょう? ですからなにか特別なことをされているのかと訊いたことがあるのです」
「なるほど」
「そうしましたら、毎晩腹筋を鍛えていると仰って」
口元を手で隠し、クリスティーネさまは肩を震わせ始めた。
「もしオルラーフに姫が産まれたら、お腹が出ているような男では申し訳ないということでしたわ」
もう隠すことができなくなったのか、クリスティーネさまは声を出して笑い始めた。
いや、笑い過ぎでは。
「案外、そういうことを気になさるのかと。気にしていないふうですのにね? すましたふうですのにね? 硬派を気取ったふうですのにね?」
ふふふ、と口元を覆った手の下で、まだ笑っている。
この人意外に、感情表現が豊かな人よね。
舞踏会でも、フランツさまがクリスティーネさまを助けに来なかったとき、ずーっと非難めいた視線を向けていましたものね。
あと、お仕事の話をするフランツさまを、熱っぽい瞳で見つめていらしたものね。
ああ、そうか。そうだった。
彼女はもう、フランツさまを見ているのだ。
ひとしきり笑ったあと、クリスティーネさまは胸に手を当てて、ふーっと息を整えた。
いやもう本当に、笑い過ぎでは。
彼女はこちらを見て、釘を刺してくる。
「内緒と言いましたわよ?」
「はい」
真顔で言う彼女の確認の言葉に、私はこくこくとうなずいた。
それを見てクリスティーネさまは目を細める。
「わたくしは、陛下には感謝しているのです。なのにこんなことを明かしてしまうのは、大盤振る舞いですのよ」
「感謝……」
保険の立場であったのに。それでも彼女はシルヴィスさまに感謝しているのだ。
それはなぜか。
「フランツを推してくださったのは、陛下です」
「ああ」
「陛下が嫁ぎ先をご用意くださると仰ったので」
「ご用意」
こんなところでも。ご用意。
そのときも、ドレスをご用意しよう、みたいな口調で言ったんだろうな。
「だからわたくし、お願いしましたの。陛下の考え得る限りで、わたくしを最も幸せにできると思われる男性をご用意くださいって」
「ご用意」
クリスティーネさままで。
「それで、わたくしは辺境伯閣下のところに嫁ぐことになったのですが……すると、実家の者が一瞬にして、みーんな夢から覚めたような顔になりましてね。あれは、衝撃でした」
本当に驚いたんだろう。少し興奮気味に手振りを加えて、クリスティーネさまは言い連ねる。
「良い嫁ぎ先があって良かった、って。本当に喜んでもらいましたわ」
その言葉に私はほっとする。
王妃になれなかったことで、実家から責められてはあまりにも気の毒すぎる。
エルマ夫人のようにならなくて良かった。
「わたくしもきっと、あんなギラギラした表情をしていたんだろう、って。そして夢から覚めたんだろうって」
そう続けて苦笑している。
「あんな最重要地域を任されている国王の信頼も厚い辺境伯閣下が、まだ独身であられたことは幸いでした」
それを聞いて私は、あ、と思う。
ローザじゃないけれど。
いい年した辺境伯さまが独身のままというのがそもそもありえません、というやつではないのか。
つまり、理由があった。
もしかして。もしかしたら。
フランツさまは以前からクリスティーネさまに懸想していて、待っていたのではないの?
クリスティーネさまがシルヴィスさまの元を離れるのを、ずっと待っていたのではないの?
シルヴィスさまも、それを知っていたのではないの? だってあの二人、同い年で仲良さそうだし。信頼しちゃってるし。
くっ。さすが、国境を任されているだけはある。じっと時を待つ戦略だ、これ。
あんな熊のぬいぐるみみたいな見てくれなのに、虎視眈々と狙っていたのかもしれない。抜け目なさすぎ。
まあその後の進撃はさっぱりみたいですけどね。抜けまくりですけどね。
そこまでがんばったのに、美しすぎて気後れする、とか言っている場合なんだろうか。
クリスティーネさまは頬にたおやかな指先を当て、ほう、とため息をつきながら零す。
「フランツはとても誠実な人で、わたくしを大事に扱ってくださいますが、誠実すぎているのか、なかなかわたくしを見てくださらない。そのことに少し怒っておりました」
ほらもう、やっぱりー!
「でも、エレノア殿下を見ていると、自分でも歩み寄らなければならないのだと気付いたのです」
そう語ると、こちらに向かって口元に笑みを浮かべる。
「だから今回、早めに屋敷を発ったのです。わたくしも閣下と旅行に行きたい、と駄々をこねましてね」
「まあ」
「そうしましたら、行こう行こう、と喜んでくださいました。わたくしから歩み寄ったら、あちらも歩み寄ってくださいました。エレノア殿下のおかげですわ」
「おかげだなんて、そんな」
でも少しでもお役に立てたのならよかった。
フランツさま、嬉しかっただろうな。クリスティーネさまからおねだりされて。すっごく張り切ったに違いない。
「今回のことで、その楽しみにしていたらしい旅行が潰されましたから……ケヴィン殿下のことはフランツに任せておけば大丈夫ですわ」
何気に恐ろしい発言を、美しく微笑みながら口にする。
それにしても。
クリスティーネさまは、フランツさまが自分を見ていないことを怒っていた。
つまり。
「フランツさまのこと、お好きなんですね」
「ええ」
少し照れたように頬を紅潮させて、クリスティーネさまはあっさりと認める。
「彼、いつもは熊のぬいぐるみみたいでしょう?」
「え、ええ」
クリスティーネさまもそう思っていましたか。もちろん私も思っていました。
「でも、お仕事の話となると、急に凛々しくなるのがいいのです」
そう話して、うふふ、と笑う。
大人の女性だとばかり思っていたのに、フランツさまの話をするクリスティーネさまは、少女のように可愛らしい。
そんなあどけなさまで加わって、ますます美女っぷりが上がっています。
そのとき、向こうからフランツさまが歩いてくるのが遠目に見えた。
「もう、お開きですわね」
彼女は椅子から立ち上がりながら、そう告げる。
私はクリスティーネさまに声を掛けた。
「とても楽しゅうございました」
「ええ、わたくしも」
そう答えて、彼女は美しい笑みを見せる。
クリスティーネさま。
私もひとつ、クリスティーネさまに内緒の話ができました。
もしかしたらフランツさまは、ずっとクリスティーネさまを待っていたかもしれない、という話。
でもこれは、言わなくてもいいだろう。
私も内緒にされてるものね。子ども扱いというか、の続き。
これがわかったら、こっそりクリスティーネさまにフランツさまの秘密も教えちゃおう、と私は心の中で決めた。
フランツさま、ごめんなさい。




