56. 詳しい話を聞きました
貴族の娘は若いうちに嫁ぐのが普通であるのに、こんなに美しい彼女が晩婚であったのはどうしてか。
クリスティーネさまも待たされたのだ。
オルラーフから寄せられる王妃懐妊の話のたび、彼女は嫁ぐこともできずに待たされた。
「エレノア殿下がお生まれになってからも、両国の情勢がどうなるかもわかりませんから、ごく最近まで、わたくしは保険の立場でした」
「ごく最近まで……」
クリスティーネさまは口にはしないが、きっと、もし私が健康に育たなかった場合とか、そういうものも含まれているだろう。
実際、毒に慣れる過程でなにが起きてもおかしくはなかった。
「他の有力な貴族のご令嬢たちは、逃げてしまいましてね。だってそうでしょう? 待たされたあげくに、王妃になれない可能性が高いのです。王妃にもなれず、政略のための駒にもなれない年齢まで待たされる。逃げても仕方のない条件ではあるかと」
そう説明してクリスティーネさまは自嘲的に口の端を上げる。
そうだ。ケヴィン殿下には女性たちが群がり、シルヴィスさまには誰も寄ってこない。そういう状況だったとフローラたちが教えてくれた。
寄ってこないどころか、皆、逃げていたのだ。
「わたくしの実家は伯爵家で王妃となるには弱いですし、その上、力もない、没落したと言ってもいいようなものでしたの。王妃を輩出するだなんて、とても考えられる家ではなくて」
そして、くすりと笑った。
「だから、賭けたのです」
「賭けた……」
「わたくしの家は、この千載一遇の好機を逃したくなかった。だから、一縷の望みに賭けたのです。そして、負けたのです」
クリスティーネさまは、手に持ったカップをテーブルに戻す。
それからこちらを向き、にっこりと微笑んだ。美しい黒髪がはらりと揺れる。
「賭けとはいうけれど、勝算がまったくなかったわけではありませんでした」
彼女はこちらに身体ごと向き、そして自身の胸に手を当てて口を開いた。
「少なくともわたくしは、ひとつ武器を持っておりました。謙遜などいたしません。これは、わたくしの誇れる唯一の武器です。わたくしには、誰にも負けない美貌がありました」
そう語って彼女は背筋を伸ばす。
美しいクリスティーネさま。
『魔性の域』の美貌を持つクリスティーネさま。
女の私ですら、見惚れてしまうクリスティーネさま。
それは確かに、唯一無二の武器だっただろう。
「だから、わたくしの実家も諦めきれなかったのです。何度も何度も登城するようせっつかれ、そのたび、陛下にお会いしました。何年も何年も」
彼女がいつからその保険の立場に甘んじていたのかは知らない。
けれど私が生まれてからも、ごく最近まで、ということなら、単純に考えて最低でも十六年以上。
その間、彼女はずっと、シルヴィスさまの婚約者のようでいてそうではない、という足元がおぼつかない、ふわふわした立場だったのだ。
「誘惑して御子を身籠ってしまえ、とも言われましたのよ」
ころころと笑いながら、クリスティーネさまは冗談めかしてそんなことを口にする。
軽く話しているが、それを実家から求められるのは、彼女にとっては苦痛だったのではないか。
王妃になれないなら、愛妾でもいい。御子さえ身籠ればなんとかなる。
伯爵令嬢であった彼女がそれを受け入れるのは、屈辱だったのではないか。
「でも陛下は、申し訳ない申し訳ないと言うばかりで。誘惑だなんてとてもそんな雰囲気にはなりませんでした」
くすくすと笑ってクリスティーネさまは明かす。
それはなんとなく、想像がついた。
「もう降りてもいい、何年も縛り付けるのは忍びない、嫁ぎ先を失ってしまう、と言われるのですが、では他に保険の立場に甘んじてくれる女性の心当たりがあるのかと尋ねると、それはない、と困ったように仰って」
そしてクリスティーネさまは、遠い目をした。
どこを見ているのだろう。その頃の思い出の風景か。
「でも……何年も、そんな曖昧なお立場で、つらかったのではないですか……」
私がそう問うとクリスティーネさまは、私をじっと見つめたあと、眉尻を下げる。
「つらかった……のでしょうか。よくわかりません。ただ、妙に居心地が良かったものですから……、だから何年も登城し続けたのですわ」
そう返して目を伏せ、私から視線を外す。
私はこの表情を、見たことがある。
舞踏会で一瞬、そんな表情を見せた。
それは、悲しい恋をしていたかのような、そんな瞳。
「ですから陛下は、わたくしとはなんの関係もございません。生真面目な方ですから」
その言葉は信じられた。
数回しかお会いしていないのにもかかわらず、クリスティーネさまはこんなときに嘘はつかない、と確信できた。
だからこそ、彼女の悲し気な瞳は、重い。
「でも……でも、クリスティーネさまは」
「エレノア殿下」
彼女は私の言葉をひったくるようにして止める。
「そのようなことはありません」
「でも」
「ありません」
きっぱりとそう断じたあと、目を伏せた。彼女の頬に、長い睫毛の影が落ちる。
「仮にそうであったとして、それを言葉にすることになんの意味がありましょう?」
そうだ。
私が今、クリスティーネさまのお心を問い詰めることに、なんの意味があるだろう。
それは傲慢な行為だ。彼女の本心が、どのようなものであっても。
「そう……そうね、ごめんなさい」
私はそう謝って頭を下げる。
クリスティーネさまは慌てたようにそれを制した。
「エレノア殿下が謝罪されるようなことは、なにひとつありません。どうかお顔をお上げになって」
「いえ、わたくし、自分がすっきりしたいからって、教えて教えてってばかりで」
「不安に思うのは無理ありません。だってエレノア殿下は、陛下をお慕いしているのでしょう? 恋とはそういうものですわ」
私はその言葉にゆっくりと顔を上げる。
恋とは不安に思うもの。恋は楽しいばかりではない。彼女はそれを、知っている。
「本当に良かった。陛下のお傍にいるのがエレノア殿下で。心からそう思っているのですよ?」
そう語ると彼女は私に向かって、美しい笑みを見せた。
それは、本心からの笑みだと、私には思えた。




