54. 寄り添いました
「私の姫さまは、どんなときでも前向きでひたむきな方なのです。一緒にしないでいただきたく」
怒りで、ぶるぶるとローザの身体が震えていた。
誰もローザの話を止めはしなかった。私もだ。いつも飄々とした彼女が珍しく、怒りをあらわにしている。
「アダルベラスに入国するとき、屈辱的な身体検査を受けました。でも姫さまは、『慣れているから』と笑っておられました。お気に入りのドレスを取り上げられたときも、『素敵なドレスをいただいた』と笑っておられました。宝物の本だって、持ってこられないから忘れないようにと何度も読み返しておられました」
ローザは下唇を噛み、涙を堪えているようだった。その目が赤くなっている。
シルヴィスさまは目を閉じた。彼女の語ることを受け入れようという意思表示に思えた。
「会ったこともない二十三歳上の男性に嫁ぐことが決まっても、泣いたことなど一度もありませんでした。楽しみだわ、と笑っておられました」
エルマ夫人は目を瞬かせて、ローザの話を黙って聞いている。
「だから入国したとき、港で姫さまは歓迎されたのです。笑っていたから歓迎されたのです。私はそう思っております」
あの日。港町に到着した日。
ローザはそう言ってくれるけれど、私はただ無邪気に喜んでいただけだった。
手を振れば振り返してくれるアダルベラス国民に、幸せな気分にしてもらっただけだ。
「そしてそれは、姫さまの力なのです」
そう断じると、ローザはエルマ夫人をじっと見つめた。
「あなたは、姫さまの立場であっても泣いていたでしょう。港町で歓迎などされなかったでしょう。アダルベラスの侍女たちが味方につくことなどなかったでしょう」
そのローザの強い言葉に、エルマ夫人はぼろぼろと涙を零す。それは止まることを知らないかのようだった。
「だって……わたくし……そんなに強くない……」
「ええ、そうなんでしょうね、あなたは」
ローザは夫人を見下ろし、そして背筋を伸ばした。
「けれど、姫さまは、強く誇り高い、私の大事な姫さまです」
そうきっぱりと告げる。
いつだったか、ローザは言った。
『私は、誰になにを言われていても、姫さまの味方ですよ』と。
本当だった。
本当に、私の味方だった。
エルマ夫人は泣きながらローザに問う。
「わたくしが悪いというの……?」
「あなたの境遇にはご同情申し上げます。だからといって、姫さまを侮辱していいことにはなりません」
きっぱりと返すローザの言葉に、夫人はうなだれた。
シルヴィスさまはその様子を少しのあいだ眺めたあと、衛兵に向かって指示する。
「エルマを部屋に。そしてクロヴィス同様、しばらく一歩も出さないよう」
「御意のままに」
衛兵がうなだれて座り込むエルマ夫人に歩み寄る。夫人は俯いたまま、抱えられるようにして部屋を出て行った。
それを見届けると、私は隣に立つ、大事な友人に話し掛ける。
「ありがとう、ローザ」
「褒めすぎました。まともに受け取らないでくださいよ」
つんとすましてローザは返してくる。
「もう」
ローザの腕に自分の腕を絡ませて、そしてその腕にすがりつくように頭を寄せた。
「大好きよ」
「でしたら、お手当お願いします」
「考えておくわ」
ローザの軽口に、私は小さく笑う。
私が笑顔でいられるのは、こうして優しく見守ってくれている人がいるからなのだ、と思った。
◇
夫人が部屋から出されたあと。シルヴィスさまは私以外の人払いをした。
皆、頭を下げ、食堂を出て行く。
「これからのことを説明しよう」
シルヴィスさまはそう話し始めて、私に椅子を指し示した。
私は素直に、椅子に腰掛ける。
「今、フランツ殿を呼んでいる」
私はうなずく。さきほどフローラにそれを頼んでいた。
「どうしてフランツさまを?」
「表向き、ケヴィンは病気療養ということにする。こんなときに、王弟が王位簒奪を目論んだ、などと表沙汰にはできない」
二週間後、婚姻の儀が行われ、私は王妃になる。
それに伴う諸々が、この国に押し寄せてくるはずだ。
諸外国からも代表者が祝辞を述べるために入国してくる。
国内の人事だって異動が頻繁に行われる。
それに。王族を支持する貴族や教会が、この事件を聞いて、どのように動くかわかりはしない。
とてもではないが、表面化したあと、鎮静化できるものではない。
ただでさえ難しい。なのにこんな、慌ただしい時期になどと、不可能だ。
「それに……もしこの事件が表沙汰になれば、クロヴィスが潰れる」
そう口にするとシルヴィスさまは黙り込み、そしてうなだれた。
私はワインボトルをちらりと盗み見る。ワインボトルはあの騒動の中でも、中身が入っていたからなのか、テーブルの上に立っていた。
このままこれを呷って飲んでしまうのではないか、そう思ってしまうほど、思い詰めている様子に見えた。
シルヴィスさまの手が膝の上で握られていることに、私はほっと安堵のため息をつく。
王弟子息であるクロヴィスさま。
私にはとても、彼が王位簒奪に関与しているだなんて思えない。それはシルヴィスさまだって同じだろう。
だが、他の人間はどう思うか。
表沙汰になってしまえば、いくら無関係と主張したところで、クロヴィスさまになんの影響もないだなんてありえない。
自分の息子を王位につけようとした、と思うほうが自然でもある。
口を閉ざすしかない。クロヴィスさまを救うには。
「表面上は、王位継承権第一位はケヴィン、第二位はクロヴィス。そのままだ。しかし実際は、二人とも、継承権を剥奪する」
「二人とも……」
「この場を知る者には口外しないように命じたが、それでも、貴族たちはこの状況を推測することはできるだろう。ケヴィンは動き回っていたようだからな」
そして、深く長いため息をついた。
「推測の先には、必ずクロヴィスへの疑惑がある。そして、クロヴィスが関わっていなかったなんて証明は、できない」
なにをどうやっても、結局はそれが問題なのだ。
本当に馬鹿なことをしてくれた……とシルヴィスさまは口の中で非難する。
「それでも余は、クロヴィスだけでも逃がしたい。だから王都を出てもらう。それで追及もされなくなるはずだ」
「はい」
きっとそれが、精一杯なのだ。
「ケヴィン、エルマ、クロヴィス、この三名は王都追放。だが表向きには、ケヴィンの療養による、一家での移転。オルラーフにもそのように」
「はい」
私は了承する。それ以上の策は、私には思いつかなかった。
「ケヴィンはハーゼンバイン領内で幽閉する。時期を見計らって……いや」
動揺しているのだろう。すんでのところで口を閉ざしはしたが、喋り過ぎた。本当は私に聞かせたくなかったのだ。
おそらく、落ち着いた頃に、ケヴィン殿下病死の報がもたらされる。
私だって王女として育った。オルラーフにだって、そんな、急な死が知らされることがある。
直接的には聞かされていなくても、もしかしたらと推測されることはあった。
そして、王位簒奪の罪が、幽閉などという処置で終わらされるものではないということはわかるのだ。
だから、慎重に事を運ばなければならない。
クロヴィスさまを救うために。
「わたくし……わたくしはまだ、オルラーフの王女で、アダルベラスの政に口を出せる立場にはありません。でも……でも……」
「ああ」
「どうか、クロヴィスさまを……」
「わかっている」
シルヴィスさまは手を伸ばしてきて、そして私の頭に手を乗せた。
「ありがとう、エレノア。そなたのおかげで余は助かった。礼を言う」
「いえ、わたくしは、なにも……」
私がふるふると首を横に振ると、シルヴィスさまは悲しく微笑んだ。なんとか口を笑みの形にした、という感じだった。
私は、膝の上に置いた手をぎゅっと握る。
なんとか彼の苦しみを半減したかった。彼の苦痛を請け負いたかった。
これを伝えてしまえば、彼は私のことを信用しなくなるかもしれない。でも。
「……毒をご用意いたします」
「え? いや、オルラーフからの毒は」
「わたくし、作れます」
シルヴィスさまが息を呑んだのがわかった。
「本国で作るほどの精度の高いものではありません。でも、作れます。毒性の植物ならどこにだってありますもの」
後宮に飾ってあったジギタリス。ラウクの山に自生していたフクジュソウ、バイケイソウ、オモト、ハナヒリノキ、オクトリカブト。
動物や鉱物からの毒の生成は私には難しい。でも植物なら簡単に手に入る。
入国するときにすべてのものの持ち込みを禁止されたが、そんなものは無駄だ。
身体検査にはなんの意味もない。
だって、作れる。知識なら、ある。
私は毒の国、オルラーフの王女なのだ。
気付いていますか? 私は、やろうと思えばいつだって、あなたでさえ殺せるということを。
非力な私だって、この知識で城内を混乱に陥れることだって可能だということを。
オルラーフ王女の使い方を、決して誤ってはならない。
毒にするのか薬にするのか、それは使い方なのだ。
「自身ですべての責任を負うことは、お辛いでしょう」
「エレノア」
「無味無臭のものは、わたくしには難しいですが」
「エレノア」
「単に……」
「エレノア!」
大声を上げられて、その先を口にするのを止められる。
単に殺すだけなら。単に苦しませるだけなら。私の作った毒でもいい。
自分の膝の上に置かれた私の拳が震えている。
するとシルヴィスさまの手が伸びてきて、震える手を上から覆われた。
ビクリと反応する私の頬に、彼の逆の手が添えられた。
「……そんな真っ青な顔色を……泣きそうな顔をしてまで、することではない」
喉の奥からこみ上げてくるものがある。
「だって……」
だって、シルヴィスさまだけを苦しませたくない。
せめて少しだけでも、私もその苦痛を請け負いたい。
私は下唇を噛み締める。
泣いてはいけない。それは彼の負担になることだ。
「そんなこと、しなくていい」
「……はい」
「本当はしたくないのだとわかっている」
「……はい」
「だから大丈夫だ、エレノア。余はエレノアを恐れたりはしない」
「……はい」
こんなときにも。こんなときにも、彼は私を守ろうとしてくれる。
私を毒として利用しようとはしないのだ。そして恐れたりもしないのだ。
なんて大きくて。そして私はなんて無力なのだろう。
彼は目を伏せ、ぽつりと零す。
「余は、国王でありながら、どうして誰一人幸せにできないのだろう」
「シルヴィスさま?」
私の手から自身の手を浮かせると、彼は椅子から立ち上がる。
そして再度私のほうを見ると、口を開いた。
「すまない、エレノア」
私はその謝罪を聞くと、じっとシルヴィスさまの濃緑の瞳を見つめ返した。
彼は悲し気に眉を曇らせていた。
「疲れただろう。もう休むといい」
「……はい」
ねえ、今のは。
私はそれを訊くことができなかった。
シルヴィスさまはの今の謝罪は、なんに対してだったのだろう?




