53. 憎しみの視線を向けられました
しばらくして、シルヴィスさまと衛兵が食堂に戻ってくる。
私はそれを目で追い、シルヴィスさまが口を開くことなく椅子に腰かけるのを見ていた。
憔悴している、と思った。
深く椅子に腰掛け、背もたれにすがるようにしている。
ローザが椅子を用意してくれたので、私は彼の斜め前に座った。
「シルヴィスさま?」
なにか私にできることはないか、と考えてみても、なにも思いつかなかった。
しばらくして、彼はぽつりと言葉を紡ぐ。
「……侍女たちが、泣いてしまってな」
「……どうして」
シルヴィスさまはひとつ息を吐くと、こちらにゆっくりと顔を向け、口を開いた。
「身体中、服を着ていると見えないところは、傷と痣だらけだったと」
私は息を呑む。
後ろのローザは見当がついていたのか、小さくため息をついただけだった。その傷と痣を見たのであろうフローラは、はらはらと涙を零している。
辛気臭い女? そんな目に遭って、彼女が笑えるわけがないじゃないか。
エルマ夫人は最初に会ったときからずっと、自信なさげな様子だった。きっと自信は夫にすべて削ぎ落されたのではないか。
どうしてそんな酷いことができるのだろう。
ああ。
今、わかった。
クロヴィスさまが言っていたこと。
『早く大人になりたい』
そうして王弟殿下を立場でも力でもすべてにおいて、追い抜きたいと思っていたのだ。だって彼は、負けたくない、とも語っていた。
『大切な人を守りたい』
大切な人とは、母親のことだったのだ。彼は幼いながらに、守るものを持っていた。
本来ならば、守られるべきは子どもであるクロヴィスさまのはずなのに。
クロヴィスさまは彼自身の力で、母親のこの状況を打破するつもりだったのだ。
誰も口を開かない。
重苦しい空気が、食堂を満たしていく。
しばらくして部屋の扉が開き、エルマ夫人が入室してきた。
私は立ち上がり、シルヴィスさまの近くの席を譲った。
彼女はおどおどと小さく頭を下げると、椅子に浅く腰を下ろす。
私はローザの隣に立って、彼女の話を聞くことにした。
「エルマ」
シルヴィスさまが夫人に話し掛ける。労わるような声音だった。
「余は、そなたがこの件に関わっているとは思っていない」
「いえ、そんな……」
「正直に言ってくれ。クロヴィスの身にも係わるぞ?」
その言葉に、夫人の肩が跳ねた。
沈黙が続く。けれどシルヴィスさまは辛抱強く、彼女の口が開かれるのを待った。
そして。
「……でも、わたくしではなく、ケヴィン殿下が王位簒奪を企てたのだとしたら、殿下はその罪に問われるのでしょう?」
「ああ」
シルヴィスさまはその問いを肯定する。
エルマ夫人は小さく息を吐き、話し始めた。
「……私の実家は、ケヴィン殿下のお慈悲で生活できているようなものです」
「そのようだな」
「陛下。王弟の妻であること、それだけにしかわたくしの価値はないのです。でしたら、わたくしの罪というほうがいいではありませんか」
『王弟の妻であることにしか価値はない』。
そんなはずはない。そんなはずはないのに、きっと彼女はずっとそう責められ続けてきたのだろう。
それを言ったのは誰か。
王弟殿下? いや、それだと少しおかしい。彼ならば、『王弟の妻である価値がない』と罵るだろう。
ならば、それを言ったのは。
おそらくは、彼女の実家だ。暗い癒着で失脚したという、元教皇一族だ。
もしかしたら、実家も王弟の暴力は知っていたのかもしれない。それでも、家のためにと戻されたのかもしれない。
逃げ場のない彼女は、理不尽な暴力をその身に受けながら、自分の境遇を受け入れ続けた。
もしそうだとしたら、彼女の絶望は、想像に難くない。
「お願いです、お慈悲を……! 殿下がいなくなったら、どうしたらいいのかわからない……」
そう懇願して彼女は頭を下げる。
それは、彼女の人生を引き換えにしてまで守るべきものなのだろうか?
「エルマ、それはできない」
シルヴィスさまが苦渋の色を浮かべてそう告げると、エルマ夫人は、わっとテーブルに伏せて声を上げて泣き始めた。
そんな彼女に、シルヴィスさまは声を掛ける。
「ただ、そなたの身だけは保障させてもらおう。もちろん、クロヴィスも」
「わたくしと……クロヴィス殿下だけ……」
彼女は涙に濡れた顔を上げた。
「そうだ」
その返事を聞いても、彼女は目を泳がせる。
「でも……でも、わたくしの家は……」
「そこまでは保障できない。そもそも、不正による失脚をしたからには、それ相応の罰を受けるべきだ。それは彼らが償うべきで、そなたが負う責任ではない」
「でも……困ります……わたくし、責められてしまう……」
もう彼女は、考えることを放棄している。
自分で逃げ出すことも、もう思いつきもしないのだろう。
クロヴィスさまだけが、彼女を守ることを考えている。
夫人はぽつりと喋り始める。
「陛下……」
「なんだ」
「どうして見逃してくださらなかったのです?」
「なにをだ」
シルヴィスさまは、エルマ夫人の質問に眉をひそめる。
「わたくしの祖父が、不正をしていたことを。あれは、王城からの糾弾でした。陛下のご意思でした。明るみにならなければ、ケヴィン殿下だって、ずっとお優しくいてくれたはずです……!」
「それは無理だ。今、自分がなにを言っているのかわかっているのか?」
「いいではないですか、少しくらい! わたくし、そのせいで……そのせいで!」
そうしてまた彼女は泣き始める。
言っていることは無茶苦茶だ。でも、彼女の身体中にある痣と、実家からの責めを思うと、エルマ夫人を非難することはあまりにも酷なような気がした。
「すまなかった。気付いてやれなくて」
シルヴィスさまの謝罪に、けれど夫人は皮肉げに口の端を上げる。
「気付いた今は……なにをしてくださるのです?」
「そなたとクロヴィスの身の保障。そこまでだ」
「そうなんでしょうね。それが精一杯なんでしょう」
そう返して、エルマ夫人は小さく笑う。
「……政略結婚なんて、こんなものです」
そして夫人は身体を起こすと私を振り返る。
その視線を受け、私は少し身を引いた。憎しみの込められた視線だった。どうして私は彼女から憎まれているのだろう。
彼女は小さく首を傾げ、そして口を開く。
「どうして笑っているの?」
「え?」
笑ってなんていない。そう言い返そうとしたときだ。
「どうしてあなた、笑っているの? 政略結婚なのに。二十三歳も年上の人と結婚させられそうなのに」
「私は」
「私みたいに可哀想な人が来たと思ったのに。それが嬉しかったのに」
その言葉に、しん、とその場が静まり返った。
「なのに笑っていられるなんて、まだ現実を知らない子どもなのね」
そう続けて、エルマ夫人は鼻で笑った。
私はなにも反論できずに立ち尽くす。
だが。
「無礼な!」
ふいに、ローザが叫んだ。
「オルラーフ王国第一王女であらせられるエレノア殿下に、なんという言い草!」
「ローザ、いいの」
「よくありません! とんでもない侮辱です!」
「いいの。わざわざ火種を作ることはないわ」
これは、政略結婚なのだ。
アダルベラスとオルラーフが、協定を結び、国交を回復するための。
どこでどう話が回るかわかりはしない。それがどう転がるのかもわかりはしない。
わざわざ揉め事を起こすことはない。
今は、静観するべきだ。
それはローザもわかったのか、口を噤んだ。
けれど少しして、また喋り始める。
「……これだけは、言わせてください」
ローザは拳を握った。何事かに耐えているようだった。




