49. 怒りに震えました
「毒殺といえば、それを得意とする国があるではないですか。誰だって知っている」
鼻で笑って、王弟殿下はそんなことを語り出した。
言うに事を欠いて、なんてことを。
私は拳をぎゅっと握る。怒りで身体が震えてきた。なにか言ってやらないと、と頭の中で考えられる限りの罵詈雑言を思い浮かべる。
そのとき隣で控えていたローザが私の肩に手を置いた。
私ははっとしてそちらを見上げる。彼女は小さく首を横に振った。
口出ししてはならない。静観するべきだ。
ローザの瞳がそう語っていた。
それから私の代わりに、シルヴィスさまが口を開く。
「エレノアではない」
シルヴィスさまは静かにそう断言した。
「エレノアだけは、ない」
重ねて語る。
なにを根拠にそう信じるのかはわからない。でも、欠片も疑っていないことだけは感じ取れた。
私はほっと息をつく。少し落ち着けた。
ケヴィン殿下は私たちの様子など目に入らないのか、なおも続ける。
「ええ、王女殿下ではないかもしれませんね。しかし、もう一人いるではないですか」
そう宣って、彼はローザのほうに視線を移す。
開いた口が塞がらない。なにを馬鹿なことを言っているの?
「侍女殿だと言うのか?」
「それ以外に誰が?」
シルヴィスさまの問いに、小さく首を傾げて王弟殿下は答えた。
これは我慢ならない。
「ローザではないわ! 滅多なことを言わないで!」
私は怒りに身体を震わせ、椅子からばっと立ち上がる。
すると私の大声のあとに、違う声が重なってきた。
「そうですわ! ローザでも、ましてやエレノア殿下でもありえません!」
その言葉を叫ぶように口にしたのは、フローラだった。
「お二人は、そんなことを企むような方々ではありませんわ!」
フローラも我慢ならなかったのだろう。彼女の立ち位置としては、この場で口を出せる立場にはない。いつもの彼女なら、決して口を開きはしなかったはずだ。
だから私はそれが嬉しかった。彼女の誠実さを確認したような気分だった。
けれど。
「侍女ごときが口を出すな!」
そう叫ぶように非難したのは、王弟殿下だ。
フローラは一瞬息を呑み、そして引き下がる。
「……申し訳ありません、出過ぎたことを申しました」
そうは謝罪したが、下唇を噛み締めていた。
「ケヴィン殿下」
私はなんとか息を整えて呼び掛ける。
「フローラはわたくしの侍女ですわ。口出しは無用です」
「それは失礼」
王弟殿下は小馬鹿にしたような声で、そう返してきた。
毒を盛ったのはお前だろうと詰ってやりたいが、私はその怒りを無理矢理に押し込んだ。
「ローザもフローラも、わたくしの侍女です。わたくしの侍女への侮辱、決して許せるものではありません」
「しかし、そちらのローザとかいう侍女が毒を盛っていないとも言えないのでは」
まだ言うか。
「そもそも、ローザには毒を盛ることによる利がありませんわ」
「果たしてそうですかな? オルラーフでは今回の同盟条件に関して異を唱える者もいると聞き及んでおります。王女殿下は、ずいぶん泣かれて見送られたようですしね」
「そ、それは」
このアダルベラスに入国したときに、船内にいた者が皆、泣いていたことを思い出す。
そして、それを苦々しい表情で外務卿が見つめていたことも。
「でもローザは、この婚姻に関しては賛成している立場ですわ」
「王女殿下の前ではそうなのかもしれませんね。しかしまあ、裏ではなにを企んでいるものやら。やけに金にこだわる女のようですし、金さえ渡せばなんでもやるのでは?」
「なんですって!」
私の侍女への侮辱は私への侮辱に等しい。
おとなしく黙って聞いている義理はない。許せるものか、こんなことが。
しかしシルヴィスさまは、私が続けようとする反論を手で制する。
「わかっている。大丈夫だ」
「だって!」
確かにローザは変わり者だけれど、こんな侮辱を受ける謂れはない。
そして、名指しされたローザは。
深く長いため息をつき、そして肩をすくめる。
「やめてくださいよ。お金にこだわっているのは否定しませんが」
「ローザ!」
興奮して大声を上げる私を無視して、彼女は続ける。
「ただ私は、そんな粗悪品を使うような、まぬけとは思われたくありません」
ローザは吐き棄てるように続けた。
その言葉に、今度は王弟殿下の開いた口が塞がらなくなったようだった。
「そ、粗悪品……?」
ローザはテーブルの上を指さした。
皆の視線も、自然とテーブルの上の食事のほうに向けられる。
「そんなにぷんぷん匂いを出すような毒、我がオルラーフが作るはずがありません」
「なん……」
「暗殺用でしょう? でしたら無臭は基本です」
首を傾げ、嘲るような声でそう続ける。
口にした言葉が衝撃的なものだったからだろう。今、彼女は、完全に場を支配していた。王弟殿下が今まで喋ってきたことが、すべて言い訳に聞こえてくるほどに。
そうだ、彼女は変わり者でも、それ以上に仕事ができる侍女なのだ。
そしてローザは語っているのだ。
粗悪品をつかまされたお前はまぬけだ、と。
「味はなんとか濃い味のものに入れればごまかせるかもしれませんが、ここまで匂いがきついと、毒としては不良品と評してもいいものです」
ローザの話に、シルヴィスさまは眉根を寄せた。
「匂いがきつい……?」
部屋の中にいた皆も、首を捻っている。そしてすん、と空気の匂いを嗅ぐと、また首を傾げる。
テーブルの上にはまだ食べかけの夕食が並んでいる。その匂いもするから、わからないのだ。
私たちは嗅いだことがあるからこれが毒だとわかるが、アダルベラスの人間はそう感じないのだろう。
私は何度か深呼吸して、すとんと椅子に座り直した。
我を失っているようでは駄目だ。落ち着かないと。
ローザはさらに続ける。
「オルラーフならば、無味無臭、そして無色のものを用意できます」
その言葉に、皆がしん、となった。
やる気になれば、できるのだと。
「だからこそ、わたくしは毒に慣らされているのです」
私はローザの話に補足した。
無味無臭、そして無色のもの。それに対応できるのが銀食器だ。
しかしそれも、ごくごく稀に、銀に反応しないものが精製されることがあるというのは黙っておこう。
それは、国家機密だ。
オルラーフ王家の歴史は毒殺の歴史。その中で発展してきた薬学。
確かにオルラーフは敗戦国だ。
けれど舐めるな。
私たちを侮辱するならば、それ相応の報いを受けさせることも可能なのだ。
私たちの怒りをその身に感じたのか、王弟殿下はごほん、と咳払いをした。
「なんだかおかしな話ではありませんか?」
雲行きが怪しくなってきたからか、どうにかして話を逸らそうとしている様子だった。
シルヴィスさまはそれに乗る。
「おかしな話とは?」
私もその頃には、シルヴィスさまがなにを狙っているのかを理解していた。
これ以上は口出しするまい。ローザは最初からわかっていたのだろう。だから私の肩に手を置いて黙らせたのだ。
怒りにまかせていろいろ喋ってしまったが、決定的なことだけは口にしなくて良かった。
王弟殿下は腕を広げ、辺りを見回すようにしながら確認する。
「そもそも、その毒で誰が倒れたというのです」
「なんだと?」
「だってこの場で死んだ者はいないではないですか。なのに毒を盛られた? 意味がわかりませんな」
この際、最初からなかったことにしようとしているのだろうか。
もう一度、仕切り直しだ、とでも思っているのだろうか。
シルヴィスさまは小さく息を吐くと、答えた。
「毒の匂いがすると、さきほど侍女殿が言っただろう」
その返答を聞くと、また王弟殿下はわざとらしく大きく目を見開いてみせた。
そして、ははは、と声をあげて笑った。
ひとしきり笑ったあと、嘲笑を含めて、シルヴィスさまに向かってまくし立てる。
「それだけ? たったそれだけですか? 果実酒は状態によっては変な匂いを出すこともある。ご存知ないので? それと勘違いしているのでは?」
王弟殿下のその話に、侍女や衛兵たちがこっそりと顔を見合わせた。
大声で彼はさらに言い募る。
「そんな戯言を真に受けて、王弟であるこの私を疑ったのですか? 国王ともあろう者が、なんと浅慮な!」
シルヴィスさまは少しの間、絶句して。
そして額に手を当て、大きくため息をついた。




