08「百年の大樹」
「待て~」
「フフッ。捕まえてごらんなさい」
朝日が差し込む庭の一角で、マーガレットと少年が、樹の周りをグルグルと追いかけっこしている。マーガレットの背中には、兎のぬいぐるみがフリル付きのリボンで襷掛けに負われている。一方、少年は、腹部に大きな前ポケットがあるリーフグリーンのロングチュニック以外、何も身に着けていない。
そして走り回るたびに、兎の長い耳がピコピコと動いたり、チュニックの裾がパタパタとはためいたりしている。
「はい、捕まえた」
「あ~あ、捕まっちゃった」
立ち止まって振り返った少年に、一周回ったマーガレットは肩口を両手で掴まれ、捕らえられる。少年は、マーガレットの華奢な肩から手を放すと、上を指差して提案する。
「ねぇ。追いかけっこは、このへんにして、今度は、木登りをしようよ」
「さんせーい。でも、どうやって登るの?」
「登ったこと無いの? じゃあ、先の登って見せるから、よく見て、真似してごらん」
マーガレットは、両手を高々と挙げて賛同する。すると少年は、幹の凹凸に手足を掛け、器用に登っていく。
「わっ、スゴイ。早い、早い」
少年は、太い枝に腰を下ろすと、下にいるマーガレットに向かって呼びかける。
「さぁ。今度は、君の番だよ」
「えーっと。ここに、まず、足を掛けてっと」
マーガレットは、少年と同じように手足を置き、慎重に登っていく。
*
「お嬢さま。ようこそ、特別展望台へ」
「ウフフ。お招きいただき、光栄ですわ。えーっと」
成人男性の掌ほどの太さの枝の上に、マーガレットと少年が、並んで座っている。マーガレットは、少年の榛色の瞳をジッと見ながら質問する。
「そういえば、お名前を訊いてなかったわね。私は、マーガレットよ。あなたは?」
「僕には、名前が無いよ」
言い辛そうに少年が言うと、マーガレットは無邪気に訊く。
「あら、どうして? 誰にだって、お父さまやお母さまからいただいた、大事なお名前があるはずよ?」
少年は、しばし沈思し、逡巡した挙句、意を決して話し出す。
「驚かないで聞いて欲しいんだけど。実は、僕は人間じゃなくて、樹齢百年以上の大木に宿る精霊なんだ」
「そうなの。それじゃあ、あなたは百歳を超えた、お爺さんなのね?」
「まぁ、そういうことになるかな」
「それじゃあ、……ハンドレッド! あなたのことは、ハンドレッドと呼ぶわ」
「ハンドレッドか。良い名前だね」
「気に入ったのね、ハンドレッド」
「うん。……あれ? ビックリしないの?」
平然と受け入れているマーガレットに対して少年が訊くと、マーガレットは、さも当然のことのように言う。
「驚かないでって言ったじゃない」
「いや、それはそうだけどさ。……怖くないのかい?」
「平気よ。だって私は、お屋敷では、いつも生命人形と一緒に暮らしてるのよ? 言葉が通じれば、誰だって、何だって、お友だちになれるわ」
「そうだね。僕の考えすぎだ。――向こうを見てごらん」
少年が腕を伸ばし、目の前に垂れ下がる葉を押し上げて前方を顎で差すと、マーガレットは眼下に広がる街を一望しながら歓声を上げる。
「まぁ。遠くまで、よく見える」
はしゃぐマーガレットとは対照的に、少年は、声のトーンを押さえて静かに語る。
「ここに生まれてから、僕は、ずーっとここで、この街を見てきたんだ。ニョキニョキと立ち並ぶ煙突から、もくもくと黒い煙が立ち込めた時代があった。街一面が焼け野原になる、真っ赤な戦争もあった。それから、都市の中心に青い電波塔が立って、再び人間が集まり、どんどん数が増えて、夜でも金銀に光が溢れるようになった。ただ、それに反比例して、星たちは輝きを失って、動植物たちは姿を減らしたけどね。……これから、どうして行くべきかは、これまで、どうして来たかを知ることで、自ずと見えてくる。どうしたら失敗するかを覚えておいて、同じ過ちを繰り返さないことで、未来は少しずつ良くなっていく。僕は、そう信じて、ここで見守り続けてるんだ」
話を聞いたマーガレットは、感慨深げにポツリと呟く。
「ふ~ん。歴史のお勉強も、あながち役立たずじゃなさそうね」
二人は、そよ風に吹かれながら、平和な街を眺め続ける。
※ハンドレッド:榛色の瞳を持つ少年。正体は、木の精霊。腹部に大きな前ポケットがあるリーフグリーンのロングチュニック以外、何も身に着けていない。