第88話 「不幸を呼ぶ男」
元の世界で言えば小学生ぐらいの少女に、あらん限りの暴言を吐いた元料理長。
ナナの深層心理に消えない傷を刻んだ憎むべき男。そんな人間が現在。稲豊の視界の中心に居た。
「その辺で隠れて待っててくれるか? すぐに戻るからさ?」
優しい口調で少女に話し掛ける稲豊だが、その声には何処か有無を言わさぬ迫力を孕んでいる。元々その気も無かったナナはコクリと頷くと、足早に近くの土手に身を隠した。それを見届けた後で、少年は右足を力強く踏み出し前進する。
「ようやく見つけましたよ~?」
「……っ! 少年!?」
のっしのっしと二人に近付いた稲豊は、敢えて明るい口調で声を掛けた。
感覚の鋭い彼女には珍しく、ミアキスは一瞬驚いた表情を浮かべ、次の瞬間には「すまない」と伏し目がちに謝罪する。
しかし稲豊は、それが彼女の所為だなんて思ってはいなかった。
何かしらのイレギュラーが無ければ、ミアキスが待機場所を離れるなど有り得ない。
「別に構いませんよ。ミアキスさんぐらいの美人なら、声を掛けるナンパ男が出ても不思議じゃないですからね?」
そんな言葉を吐きながら、稲豊は血走った瞳を横へとスライドさせる。
そして青髪の男を見上げながら、憮然とした表情と声で言った。
「“ウチの”ミアキスさんに何の用ッスか?」
近くで見る事により、稲豊は男が自分よりも少し年上である事を知る。
そして、想像以上に美形である事も分かり、僻みにも似た更なる怒りが少年の心に湧き上がった。
「モノを尋ねる前に自己紹介も出来ないのか? 育ちの悪さが知れるな異世界人」
睨みつけられているにも関わらず、青髪の男は負けじと蔑んだ瞳を投げ返す。
それに対し、稲豊は口角と表情を歪めながら、再び毒を吐いた。
「興味ねぇ奴に挨拶する気は無いもんで。それに必要も無いみたいだしな? 『元』料理長」
視線を交差し、多量の火花を散らせる両者。
初めて会った二人だというのに、その姿はまるで犬猿の仲そのものである。
そして、険悪な雰囲気が周囲一帯を包み込んだ頃――――
「はっ。ここは僕が折れよう。『ネロ』だ。よろしくはしなくて良い。どうせ会う機会もそうは無いだろう」
「俺は志門稲豊だ。安心しろよ? よっぽどの事がない限り、見掛けても声掛けねぇから」
青髪の青年。
ネロの方から一歩引き、漸く二人は自己紹介を終えた。
そして青年は右手で眼鏡を押さえると、値踏みするかのように稲豊の全身に視線を這わせる。
「……なんだよ?」
あまりにも目障りなその視線。
嫌悪感に駆られた稲豊は、それを振り払うような言葉を発した。
すると、ネロは再び「はっ」と鼻で笑ってから、何でもないと首を左右に振る。
「ミアキス」
しゃなりと体を翻し、人狼の名を呼ぶネロ。
次に彼は――――
「用件は以上だ。明後日の昼までに済ませておけ」
と一方的に告げ、そのまま非人街の外へ向けて去って行った。
後に残ったのは嫌な空気と、何処か心を遠くに置いてきたようなミアキス。
稲豊はそんな空気を運んできた男に憤慨しながら、呆ける人狼へと話し掛けた。
「最近は良く嫌な野郎に会いますね。ミアキスさんに何か用事だったんですかアイツ?」
「…………ああ」
上の空なミアキスの返事は、やはり要領を掴めるものではない。
だが彼女の顔色の悪さを見れば、誰もが楽しい話題では無かった事が容易に想像出来るだろう。
心さえも凍らせるような不吉な風が、二人の間を分かつように通り抜けて、上空へと消えていく。もしかしたらその風は、稲豊の心から吹いてきた風なのかも知れなかった。
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夕食後の厨房。
稲豊は膨れっ面で食器洗いに勤しんでいた。
「ったく! 話には聞いてたけど、やっぱいけ好かねぇ奴だったな。元料理長は!」
青年に会ってから数時間は経過したというのに、稲豊の怒りのロウソクは未だ燃え尽きてはいなかった。鼻持ちならないネロの顔や言動を思い出しては、毒突きながら普段よりも荒い手付きで食器を洗浄していく。
「ナナも大嫌いです。アイツ! もう二度と会いたくありません!」
そしてそんな少年の隣には、彼同様に怒りの表情を浮かべるナナの姿。
少女も稲豊に合わせるように不満を吐露し、手渡された食器の水気を布巾で荒々しく拭っていく。
「そもそも、何でアイツはここで働いてたんだ? やっぱルト様のスカウト?」
嫌いになれば、逆に湧いてくる興味もある。
稲豊は事情を知っているであろう、古株の少女メイドに質問を投げ掛けた。
するとナナは皿を拭いていた手をピタリと止め、キョロキョロと周囲を見渡した後で、おずおずと口を開く。
「実は……ミアキス様の紹介なんです。屋敷で料理を出来る人が居なくなった時期があったんですけど、その際に非人街から……。あんな態度ですけど、料理の腕は良かったので働く形に」
「ミアキスさんが? って事は、以前からの知り合い――或いはその時に声を掛けたって訳か」
過去をあまり語らないミアキスなので、その際にあったことはナナも知らない。
色々な想像を膨らませた厨房の二人だったが、結局のところ幾ら考えても答えは出ないのだ。稲豊は頭のスイッチを切り替えて、少女が知っている事を尋ねる事にした。
「ネロって、料理の腕は確かなのか? 初めてこの厨房を見た時、かなり几帳面な男だって感じたんだけどさ?」
それは稲豊の率直な感想だった。
使い易いように置かれた調理器具や、整頓された食器達。そこはかとなく清潔感の漂う空間。アバウトな人間には絶対不可能な所業である。そして彼の偏見だが、それは料理を上手くこなしている者の証明のように感じられたのだ。
「んっと……。料理の腕“だけ”は凄いです。ナナが会った中で一番――いや二番目です!」
「一番目が俺だとしたら気を使い過ぎだ。正直に言いなさい。俺よりも上手なんだな?」
「うぐっ!? えっと…………はい」
自分が二番目だと聞いても、稲豊は特に落ち込みはしなかった。
元々「料理が上手だ」などと驕った少年では無かったし、まだまだ手探りながらも精進を重ねている真っ只中。寧ろこの時の彼は、その技術を盗みたいとすら考えていた。
「良い奴なら色々教えて貰う事も出来たんだけどなぁ。アイツとは相容れそうな気がしない」
まともな料理本も無ければ、ネットでレシピを検索する事も出来ない異世界での料理事情。稲豊は切実なまでに調理の知識を欲していた。もしこの世界に料理学校があるのなら、彼は入学を検討していたことだろう。
「ん? 待てよ?」
そこで当然の疑問が稲豊の脳内に出現する。
自分より腕も経験も確かな男が、何故“元”料理長になったのか?
一度気になってしまえば、それは和紙に落ちた墨汁の如く少年の好奇心を染め上げていく。
「アイツ何でクビになったんだ? あんまり仕事でヘマやらかしそうなタイプには見えなかったんだけどさ?」
そして彼は、さも当然のように隣の少女に問い掛ける。
これが他の屋敷のメンバーの事なら遠回しにでも聞いた稲豊だが、今回は相手が相手だけに遠慮などしない。
「詳しい事情はナナも知らないんですけど、ご主人様の“逆鱗”に触れたからだって執事長から聞きました! 追い出される感じでクビになったみたいです。アイツの事は嫌いでしたけど、あの時ばかりは少し可哀想になりました」
「ルト様に追い出されるほどの失態ねぇ。何をやらかしたのやら……」
多少の失敗には目をつぶる優しい一面も持っているルートミリア。
そんな彼女が激怒するほどの大失態。稲豊は絶対にそんな失敗は犯さないよう心に刻み込み、いつもよりも念入りに食器を擦った。
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「む? 誰じゃ?」
夜。
バルコニーでの一杯を楽しむ為に自室で支度をしていたルートミリアは、部屋の扉をノックする音に気が付いた。この時間に彼女の部屋を訪れる者はあまりいない。扉方向に声を掛けたルトは、小首を傾げながら様子を伺う。
すると――――
「失礼します」
扉の向こうから現れたのは、件の人狼。
「今日はいつもより早いが、妾の按摩をしてくれるのか? いつもすまんの。お前がいない間は肩が凝って仕方なかったぞ? やはり按摩はミアキスが一番じゃな」
手に持っていた薄桃色のストールをベッドに置いて、鏡台前の椅子へと腰掛けるルートミリア。彼女は左肩を触りながら、わざと明るい口調でミアキスへと語り掛ける。落ち込む従者の自信を少しでも取り戻させようと考えた、ルトの粋な計らいだった。
しかし。
いつまで待っても、騎士は主の計らいを汲み取ろうとはしない。
それどころかミアキスはルトの正面に立ち、神妙な面持ちで主の瞳を見つめる。
「……どうした?」
普段あまり感情を読ませない従者の瞳の奥に、計り知れない『覚悟』を感じ取ったルトは声を掛けた。するとミアキスは、一度静かに息を吸った後に跪づき、頭を垂れる。
そして…………決意の宿った声で、主に懇願した。
「“ルートミリア”様。本日を持って、貴女の騎士の座から……降ろさせて頂きたく――――」




