第86話 「何にもわかってない!!」
「ぐぶっ!?」
突き出された剣は吸い込まれるかのように胸の中へと滑り込み、容赦なく心の臓を貫いた。肺から逆流した血液が口から血泡となってゴボゴボと溢れ出し、やがてそれは大量の血の海となって地面を赤く染め上げる。走馬灯を見ることも無く絶命した人間。それから剣を抜いた後で、“彼女”は言った。
「無事か少年? すまない……遅くなった」
黄金の剣から血を振り払ったミアキスの足元で事切れたのは、赤服の天使。
アキサタナ=エンカウント――――その人である。
彼は短刀を稲豊へと突き出した直後、ミアキスの片手剣によって背後から串刺しにされたのだ。驚愕に見開いた双眸が、アキサタナの受けた衝撃を物語っている。
「いえ、絶妙なタイミングでしたよ。合図が届いたみたいで何よりッス」
もし逸れてしまった時の為に、彼等が用意していた合図が二つ。
その一つは至ってシンプル、ただの『大声』。耳の良いミアキスには、大きな音を上げるだけでそれが何よりの合図となる。稲豊がアキサタナの注意を惹く為に叫んだ言葉には、仲間を呼ぶという隠れた意味もあったのである。
「負傷した箇所があれば言って欲しい。すぐに治療する」
ミアキスは心配で仕様がないと言った表情で少年の体に視線を這わすが、稲豊は「大丈夫です」と首を左右に振った。
「俺の事より、マルーを……! さっきから全然動かないんです」
「なに!? 承知した!」
そう言ってミアキスは巨猪に駆け寄り、その状態を確認した後に強張った表情を少し緩めた。マルーは爆風に飛ばされた衝撃で気を失っただけで、幸いにも擦り傷程度の軽傷で済んでいたのだ。そんな小さな傷を癒やしながらも、人狼は周囲の警戒を怠らない。全身を研ぎ澄ませて、感覚のアンテナを一帯に張り巡らせる。
「少年。今のところ周囲に人の気配は無いが……」
「ええ。判ってます。長居は出来ませんね」
『天使』というエデン国の最上級武官を殺害したのだ。
いつ人狼の里に兵士がなだれ込んで来ないとも限らない。稲豊は足元に横たわるアキサタナの死体を眺めた後、少しの感傷に浸りながらミアキスに同意した。
「…………くそっ!」
稲豊は口唇を強く噛む。
この村に来て間もない襲撃の所為で、ミアキスはトラウマ克服の時間を与えられる事無く、蜻蛉返りという結果になってしまった。運が悪いと言えばそれまでだが、それでも稲豊の胸にはやりきれない想いが残る。
「いや。天使が一人減ったんだ。ルト様に取っては……大きな成果になるはず」
無理矢理に自分に言い聞かせ、稲豊は気持ちを切り替えて面を上げる。
するとその視線の先には、ヨロヨロと立ち上がる巨猪の姿。少年は今迄の不満顔を一度に飛ばし、喜色満面にミアキスとマルーの元へと駆け出した。
――――その途中。
「うげっ!!!!」
少年は突然“赤い蛇”によって首を締め上げられる。
気道を圧迫された事で、彼は一瞬の目眩を覚えると同時に吐き気を催す。何が起きたのか理解出来ず目を白黒させる稲豊だったが――――
次の瞬間。
更なる混乱が彼を襲った。
「やれやれ。だから一度忠告しただろ? 初めてあった相手には油断するな……ってさ?」
「……ぐぅぇ……なっ!?」
少年の首を締め上げたのは、赤い蛇のようなアキサタナの左腕。
どういう理由か天使は蘇り。傍に居た少年の首を背後から締め付けたのである。耳元で響く耳障りな声に、稲豊は首を締められている事とは別に表情を歪めた。
「は…………離せ……!」
稲豊は腕から逃れようと必死にもがくが、それは眼前に迫った短剣によって制止させられる。「少しでも動けば刺す」そんなアキサタナの言葉も、小心者を動けなくするには十分な力を持っていた。
「っ!? 少年!!」
二人のやり取りに途中で気付いたミアキスは、驚きと悲痛の入り混じった声を上げる。そして無意識に腰の片手剣に手を掛けたところで、稲豊の顔の前に浮かぶ短剣の存在を知り、ギリと奥歯を噛み締めながら動きを止めた。
「うんうん。利口な犬は好きだよボクは? それにしても――まさかお前は人狼か? 絶滅したと聞いていたが、生き残りがいたんだなぁ」
ミアキスの肢体を舐めるように見るアキサタナ。
その厭らしい視線に負けないようにと睨みつける人狼だが、美しい背中には絶えず悪寒が走り続ける。そしてそんな彼女の感覚が正しい事を証明するかの如く、天使が次に発した言葉は稲豊とミアキスに厭悪を齎すものであった。
「そうだな。取り敢えず武器を捨て、服を全て脱いで頂けるかな?」
「なっ!?」
ミアキスは顔を真赤に染めながら更に目付きを鋭くしたが、アキサタナが稲豊の首を強く締め上げたのを見て、歯噛みしながら剣を捨てる。そして観念したかのような表情を浮かべ、小さな声で言った。
「……分かった。その代わり、少年には手を出すな!」
「勿論。お前がボクの“コレクション”に加わるのなら、彼には指一本手を出さないと誓うよ。ふふ。当然お前には触れさせて貰うけどね?」
耳元で下卑た笑いを発するアキサタナに、稲豊の腸はグツグツと煮えたぎっていた。だがそんな激情が幾ら込み上げてこようと、目の前の状況は改善しない。
ミアキスは言葉通りに軽鎧を脱ぎ捨て、その豊満な二つの果実を明らかにする。黒いチューブトップの胸元から覗く自己主張の激しい胸は、アキサタナの小鼻を大きく膨らませた。シャツの下から顔を出すのは、高身長と不釣り合いな小さなヘソ。それはギャップとして、男の本能を扇状的に誘惑する。
「良いね良いねぇ! さぁ。次は下も脱いで貰おうか!」
「…………ああ」
鼻息を荒くして命令するアキサタナの指示に従い、ミアキスは感情を押し殺した声を発してデニムのホットパンツ。そのボタンに手を掛ける。数秒の逡巡の後で、彼女は意を決したようにボタンを外し、ファスナーをゆっくりと下ろした。
そして遂に――――稲豊の堪忍袋の尾が切れる。
「ちがーーーーーーう!!!!!!」
黒雲の立ち上る空に、突如響いた少年の叫び声。
それに驚いたアキサタナの興奮は消し飛び、ミアキスはホットパンツに手を掛けたままで、見開いた目を三回も開閉し硬直した。パチパチと家の燃える音がやけに響く空間で、稲豊は大きく深呼吸してから時間を進めるべく口を開く。
「分かってない! アキサタナ!! お前は全然分かっていない!!!!」
「な、なに? 博識なボクが何を分かっちゃいないって?」
馬鹿にされる事を嫌うアキサタナは、少年の言葉に必要以上に関心を示す。
天使が食い付いた事に見えないよう口元を綻ばせた稲豊は、次に「嘆かわしい!」と悲し気な表情を浮かべて拳を強く握り込んだ。
「例えばの話をしよう。これからある男と可愛い女の子が情事に及ぼうとしている」
「ふむ。イメージしたぞ」
アキサタナは目を閉じて、絶世の美女と自分を想像した。
そして稲豊は更に言葉を続ける。
「その女の子は全ての男を魅了するような、可愛らしく且つセクシーなコスプレをしている」
「ふむふむ。それは素晴らしいな」
「そこで男は女の子の肩に両手を置き。そして一息に――――」
「ほうほう。一息に?」
そこで稲豊はわざと一旦の間を開け、相手の気を十二分に持たせた後で一言。
「全裸にした。この間、3秒」
「な、なんだと!? それじゃあ、可愛い服を着た意味が無いじゃないか!!」
その言葉を聞いた稲豊は、心の中でほくそ笑む。
彼が待っていたのは、アキサタナのこの言葉だったのである。
「そう! その通り!! 可愛い服を着た女性をいきなり全裸にするなんて、正に愚の骨頂!! 脱がせるのは、そのコスチュームを堪能してからだ!!」
「な、なるほど。百理ある! ボクは間違っていた!!」
少年の魂の籠もった叫びはアキサタナの助平心を動かし、遂には間違いを認めさせるに至った。そしてここまで持ち込んでしまえば、後は稲豊の手の平の上である。
「ミアキスさん! もう一度ファスナーを上げてボタンを止めて下さい!」
「え? あ、ああ……承知した」
硬直したままだったミアキスは、稲豊の言葉で我に返る。
そして言われた通りにした後で、困惑顔で事の成り行きを見守った。
「それで? この衣装を堪能するにはどうすれば良いんだ?」
興味津々で稲豊に問い掛けるアキサタナ。
少年はそこで「フッフッフ」と意味ありげな笑みを零した後で、口を開く。
「この強調された胸を活かさない手は無い。ミアキスさん……俺の言う通りにポージングして下さい」
そして稲豊の告げたポーズの恥ずかしさに、ミアキスの顔は見る見る内に赤面していく。だが、少年の事を信じている人狼は、それを無下に断る事は出来はしない。半ばヤケになった人狼は「ええいままよ!」と、出来るだけ忠実に稲豊の言葉に従った。
くるくるくるとその場で可愛らしく飛び回った後で、胸を両腕で挟んで上目遣いをし「ク~ン」と一声。恥ずかしそうな表情が上目遣いと絶妙にマッチした、恐ろしい破壊力を秘めた悩殺ポーズである。
当然の如く、その魅惑的な姿に翻弄される女好きのアキサタナ。
「こ、これは……!! す、素晴らしい!!」
胸元へ視線を釘付けにし硬直するアキサタナとは対照的に、稲豊の動きは「この瞬間を待っていた」とでも言うかのように、恐ろしく迅速な動きを見せた。敵に気付かれないようコートの左のポケットに手を忍ばせ、そこにあった“もう一つの合図”を取り出すと、少年はそれを出来る限りの勢いを付けて地面へと叩きつける。
「ん? ぶわっ!? な、なんだ!?」
地面に叩きつけられたのは、以前稲豊がアリスの谷でエルブから貰った魔煙石。割れた石の内部から出た白煙は、凄まじい量と速度で周囲を瞬く間に包み込み、一寸先すら白く染め上げていく。
突然に白い世界に放り込まれたアキサタナは、当然の如く困惑の声を上げる。
そしてその腕が緩むのを確認した稲豊は、全力で声の方へと頭を振った。
「こっからは会員登録して下さいお客――――さんっ!!」
「グハッ!?」
後頭部の頭突きがもろに鼻に入ったアキサタナは、鼻血を飛ばしながら仰向けに倒れる。そしてその赤い腕から開放された稲豊は、ミアキスの方へとダッシュした。
「ミアキスさん!! 逃げます!!」
「しょ、少年か? ああ!」
白煙の中で手を取り合った二人は、その勢いのままマルーの元へと駆け寄る。
そして先に背に乗ったミアキスが稲豊を引き上げると、巨猪は「ブルルン」と鼻を鳴らし、疾風の如く駆け出した。
マルーが全力で走ってしまえば、その速度は凄まじいものがある。
稲豊はリードを握るミアキスの腰に力一杯しがみつきながら、白煙と黒煙が同時に立ち上る村を見ていた。どんどんと小さくなる人狼の里。少年は自らの命が助かった事よりも、ミアキスが無事だった事に心の底から安堵した。
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屋敷へと戻っている最中の猪車。
その御者台には稲豊とミアキス、二人の姿があった。
「……確かに。ミアキスさんはあいつの胸を貫きました。何であいつは生きていたんでしょう?」
安全圏へと辿り着いた稲豊は、どうしても気になった事を隣のミアキスへと問い掛ける。すると彼女は、正面を向いたままでその問いに返答した。
「少年も聞いた事はあると思うが、恐らく神籬の能力だろう。奴等が持ってる何かしらの能力を発動したとしか思えない」
「はぁ~、なるほど。とんでもない能力もあるもんですね。まあ、相手が馬鹿だから助かりましたけど……」
もし相手が冷静沈着な敵だったなら、稲豊とミアキスは既にこの世に居なかっただろう。少年は自身の運が良いのか悪いのか悩んだ挙句、「生きているだけまし」とポジティブに思考し、一人で勝手に納得をした。
「それにしても……。本当に少年の行動は読めないな。突拍子も無い事を言い出したかと思えば、いつの間にか問題を解決している。我では到底思いつかない発想でな?」
「い、いやぁ~。その……スミマセン! あの時はあの手しか思い付かなくて……」
ミアキスに強要した羞恥プレイを思い出し、稲豊は申し訳無さそうな表情で頭を下げる。だが人狼は首を左右に振り、ニヒルな笑みを浮かべながら言った。
「怒ってはいないさ。寧ろ凄いとさえ思っているんだ。何も出来なかった我とは違う……」
そこでミアキスは寂しげな顔をして俯き、マルーの手綱をギュッと握る。
そして――――
「我の所為で少年が……もう少しで死ぬところだった。油断した我の……所為で……」
悲しげな瞳でそう零すミアキスの項垂れた耳には、もう稲豊の言葉は届いてはいなかった。




