第75話 「・・・・・・ブツブツブツブツ」
太陽がもう少しで夕日に変わろうという頃。
マルーの猪車が屋敷へと帰ってくる。
「ただいま戻りました~!!」
これ以上ないぐらいニコニコ顔の少女メイドは、猪車から降りるなり、そう声を上げた。屋敷の中庭で佇む、主と執事長の姿を見つけたからである。
「どうかされたんですか?」
ミアキスの引く猪車が厩舎へと向かうのを横目に見ながら、主達の元へと駆け寄ったナナは、二人の顔色が優れない事に気が付いた。
「う、うむ。無事に帰ってきて何よりじゃ……」
「え、ええ。まったくですな……」
しかし、少女が声を掛けたにも関わらず、主達の歯切れはよろしくない。
明らかにおかしい二人の様子にナナは首を傾げたが、それ以上追求するような立場にはない。洗練された動きで礼をした少女は、ある人物を探すために顔を動かす――と。
「ナナ! きょ、今日は楽しかったか? 苛められたりはせんかったかえ?」
「――! はい! 苛められるどころか、タルトちゃんにお友達まで紹介して頂きました! スゴくスゴく楽しかったです!!」
非人街の大人達による魔物への風当たりは未だ根強い部分もあるが、ナナに対しては例外となりつつあった。惑乱の森での一件は、当然のように住民達の間で知れ渡っている。人間である稲豊の手伝いをする彼女に対して、冷たい態度を取る者は日に日に少なくなって来ていたのだ。
「そうか。お前も良い『仲間』を見つけたのじゃな。大切にするんじゃぞ? 間違っても、妾のようにはなるなよ?」
「ご主人様のように?」
主の言う不思議な言葉に、ナナの首は先程よりも更に傾斜する。
そして首の角度を大きく傾けた事により、今まで視界に入らなかった“あるもの”が少女の瞳に捉えられた。
「イナホ様!!??」
少女の叫んだ通り、屋敷外壁の隅に体育座りをしているのは、あられもない稲豊の姿であった。彼は虚ろな表情で、親指を咥えながら体を小刻みに揺すっている。そして、その小さく開いた口からは「将来の夢は~ピンクの河童になる事です」等々、理解に苦しむような言葉を延々と呟いていた。明らかに廃人のそれである。
「イナホ様! イナホ様ぁ~!! しっかりして下さい!!」
駆け寄ったナナが涙目になりながら少年の体を揺さぶったが、反応は全く返って来ない。相も変わらず訳の分からない事を呟き続けている。
「何があったんですか!!」
憤怒の化身となったナナは先程までの笑顔と立場も忘れ、頭から煙を吹きながら主と執事長に理由を求めて詰め寄った。初めて見る少女の怒髪天を突いた姿に、ルトとアドバーンは目を泳がせながら、事の次第を説明する。
「そ、それがじゃの……。妾達は良かれと思って、シモンに少し“特訓”をな……?」
「――――すこし? これのドコが“少し”なんですか! イナホ様壊れちゃってますよ!!」
「え、ええ。『ちょっと』……いやいや! 『大分』やりすぎてしまったみたいで……。気が付けばイナホ殿はこのような状態に……」
物凄い少女の剣幕に、ルトやアドバーンと言えど及び腰にならざるを得ない。
ナナは二人を涙目でキッと睨みつけた後に、表情を崩して稲豊の方へと視線を向ける。すると少年は、今度はガタガタと震えだし、怯えた声で――
「指を離せば死ぬ。指を離せば死ぬ」
「何をやったんですかーー!!!!」
少女は慈しみを持って稲豊の頭を抱き締めながら、口では二人を糾弾する。
それに対しルトとアドバーンは「ごめんなさい」と、謝る事しか出来ないでいた。
「イナホ様ぁ……おいたわしいお姿になって――――ハッ!?」
稲豊の頭を撫でていた時、ナナは不意に天啓にうたれた。
今朝タルトと書斎で読んだ、絵本の内容を思い出したのだ。それは、ゾンビとなってしまった魔族の姫君を、魔族の王子が口付けで元に戻すというものである。
ナナは「よしっ!」と自らを鼓舞し、自らの拳を握り込む。
そして稲豊の顎を両手でしっかりと固定すると、恐る恐る少年の口唇、その数センチ隣にキスをした。それを見たアドバーンは頭にクエスチョンマークを浮かべ、ルトはピクリと片眉を持ち上げる。
「ハッ! 俺は一体……?」
ルトとアドバーンが少女に説明を求める前に、稲豊はトラウマの世界より脱出を遂げた。口付けの絶大な効果に、事の発端となった二人だけでなく、キスをした本人も驚きの表情を浮かべる。そして三者は一様に歓喜の声を発した。
分からないのは稲豊である。
気が付けば太陽の位置がかなり下がり、ナナに抱き着かれているのだから。
「ナナ? いつの間に帰って来たんだ? 抱きつくのは良いけど脚が触れないようにな?」
「イナホ様ぁ。戻って嬉しいですけど、やっぱりそれは傷つきます!!」
「うんうん。良かった良かった! めでたしめでたしですな」
「めでたくありません!!」
ナナの頭を撫でながら立ち上がった稲豊は、自らの記憶に何があったのかを問い掛ける。しかし、覚えているのはアドバーンと握手を交わしたところまで。そこから先は黒い靄のようなものに覆われ、全く思い出す事が出来ない。
「シモン。本当に覚えておらんのか? “特訓”の事を?」
「…………とっ…………く……ん?」
彼が記憶巡りを諦めた頃に、タイミングの悪いルトの問いが稲豊へと投げ掛けられる。すると先程まで普通だった少年は急に虚ろな表情へと変貌し、またも遠い目であらぬ方向を凝視しだした。
「ご主人様!! 思い出させちゃダメです!!」
「す、すまん! 責任をとって妾が元に戻そう。口付けをすれば良いのじゃな?」
「それはそれで嫌です~!!」
「……イナホ殿。私めは少し羨ましくもありますぞ」
厩舎から戻ったミアキスが最初に見たのは、屋敷正面で騒ぐ仲間達の姿。
彼女は「やれやれ」と言った表情で額を触った後、彼等の元へと近寄っていった。
その際。
自身の口元が自然と綻んでいた事に気付いたミアキスは「騎士らしくないな」と首を振り、いつもの凛々しい表情で皆に近付いていった。
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そんな騒動があった翌日の昼。
稲豊は食事を済ませたルートミリアに、昨日の空き部屋へと呼び出されていた。
「昨日のはかなりやり過ぎたが、とっく……修行自体はお前に必要不可欠じゃ。それは今後日課としてこなしていくぞ? 勿論、加減をしながらな」
「昨日の事は良く覚えていないのでアレですけど。そんなに酷かったんすか俺?」
「ああ。かなり酷かった。その証拠に…………」
ルトがチラリと部屋の隅へと顔を向けると、そこには二人の様子を窺うナナの姿。やり過ぎそうになった時のストッパーとして、少女自らが志願したのである。
「……という訳じゃ」
「なるほど」
任せて下さい! と言わんばかりに鼻息を鳴らす少女を横目に、ルトはこれからの修行メニューを発表する。
「朝の起床後はミアキスと共に肉体の鍛錬。そして妾の朝食後、今の時間じゃな。その時は妾と共に魔法やその他の学問。それが終わればアドバーンとの実技で、夕刻は魔法の実技じゃ。これが基本的なめにゅーになる。用向きの際は時間をずらそう。何か質問はあるかの?」
「……それを毎日ですか?」
「無論じゃ。いつ天使達に攻め込まれるかも分からぬ今の状況。鍛えるのは早いに越した事は無いからのぅ」
あまりのハードスケジュールに、稲豊は助けを求めるような視線を部屋の隅にいる少女に送るが、少年に早死にして欲しくないナナは「ガンバって下さい!」と、逆にエールを送り返してくる。
最早稲豊に逃げ道は無く、彼は観念して首を縦に振った。
「うむ! では今から授業を開始する。席に着くのじゃ」
主の言葉に従い、彼女の正面の席に座るナナと稲豊。
ルトは昨日と同じように、美しい緋色の瞳を眼鏡の奥に仕舞い込んで授業を始める。それが少し気になった稲豊は、遠慮なく彼女に尋ねた。
「すいません。ルト様って目が悪いんですか?」
「これは気分を出すために掛けておる、それだけなので気にするな」
彼女の物言いに引っ掛かるものを感じた稲豊だが、それは現状に全く関係が無いだろう。稲豊は新鮮なルトを見れたのだと前向きに考えながら、彼女の次の言葉を待った。
「今日は『詠唱と無詠唱』についての授業を行う……がシモンよ。その前におさらいである。魔法には二つの発動方法があるが、それはなんだ?」
「えっと……『持続』と『放出』です」
魔法には二つの使い道がある。
魔素の続く限り魔法を維持する『持続』と、魔素を一度に消費する『放出』。
火魔法で例えるなら、焚き火のように長時間使いたいなら持続を用い、邪魔な草木を一瞬で吹き飛ばしたいなら放出をと言った具合だ。例外の魔法もあるにはあるが、この二つは基礎中の基礎。稲豊は以前のルトの授業を思い出していた。
「うむ。正解じゃ。ではナナよ、魔法とはなんだ?」
「えっと……。魔素を使う便利な力です! でも、魔法によって生まれたものは、“そのもの”ではないとお聞きました!」
“火”魔法や“水”魔法と名前がついてはいるが、本物の火や水を生成している訳では無い。魔素を限りなく本物に似せ、変化させているに過ぎないのだ。なので火の熱さを知らない者が火魔法を唱えたら、熱くない火が生み出されてしまう場合まである。想像力が魔法に“必要不可欠”と言われる所以である。
「優秀な生徒達で妾も助かる。ではそれらを踏まえた上で良く聞くのじゃ。まず魔法を詠唱する理由について説明する」
稲豊もナナも、魔法についてはズブの素人。
特に何も考えず呪文を唱えていた訳だが、それは今回の授業で改められる事となる。
「呪文は唱える事により、より威力や精度を増すことが出来るのじゃ。と言うのも、それを口にすることで術者本人が魔素を明確にコントロールしたり、やる気が増す事で焚べる魔素の量が上がるという訳じゃな」
ルトの言ってる事が今イチ理解出来ない二人は、揃って困惑の表情を浮かべる。
それに気付いた教師は「深く考えるな」と、前置きをした。
「自分達が魔素であると考えてみろ。お前達は妾の体内にいる魔素である! さあ、魔法へと転じるのじゃ」
「ええっ!? 急に言われても!?」
いきなり魔素として魔法になれと言われても、どうすれば良いのか分からない。
稲豊は助けを求めるようにナナを仰いだが、少女の方も同じ様子だったらしく、隣り合う二人の視線はぶつかって中空へと消える。
そんな二人の様子にしたり顔を浮かべたルトは、「それじゃ」と簡単な言葉を発した。
「つまりはそういう事じゃ。どのような形で、どのような魔法に転じれば良いのか? それを魔素に伝えるのが『詠唱』じゃの。逆に言葉を必要とせず、ツーカーで魔素を操れるようになったものが『無詠唱』じゃ。妾クラスになると、無詠唱でも威力や精度は詠唱時となんら変わらん」
最後に魔法の自慢を入れるところが実にルトらしいが、無詠唱がかなり高度なテクニックである事には違いない。稲豊は素直に感心を示した。
だが彼は覚えていない。
己がアリスの谷で『無詠唱』で魔法を行使していたことを……。
そしてその才能が、のちにとんでもない場所で発揮される事になるのだが、
このときの稲豊に、それを知る由はなかった。




