第71話 「お姉さん」
『シモンを召喚した者は誰か?』
ルトが放った言葉により、その場は静寂に支配される。
頬に一滴の汗を流したマリアンヌは、ルートミリアを無言で睨みつけた。何故ならマリーは知っていた、姉が言の葉に覇気を乗せた時、それは『問い』ではなく『命令』であることを。
つまり、ルトは『お前の魔能でそれを調べろ』。
そうマリーに命令を下しているのだ。
「えっと……その……」
場の空気に耐えられなくなったナナが声を上げようとしたが、それは睨み合う姉妹の間に割入る事無く、虚空へと消えていった。そんな沈黙の中、一人の男が口を開く。
「マリお嬢は知らないんすかー? あんなに色々調べてたのに?」
空気を読まないタルタルの発言により、睨み合っていた姉妹は視線を彼へとスライドさせる。そして妹は、何処か煩わしそうに返事をした。
「ウチが興味あるんはシモン君だけや。誰が召喚したかなんて……どうでもええもん」
「まあまあ、召喚者が誰であるか? それぐらいは知っておいた方が良いと思いますぞ? もし召喚者が何かの原因で死んでしまっては、選択の余地すら無くなってしまいますからなぁ」
アドバーンの提案に、マリーは更に憮然とした表情へと変わる。
しかし、その提案に表情を変えたのは彼女だけではない。
「選択……って?」
弱々しい声でアドバーンにそう問い掛けたのは、右手で自身の心臓部分を押さえたナナである。老執事はそんな少女の問いに、髭先を触りながら答えた。
「彼を召喚した者を見つけ出さない事には、イナホ殿も元の世界に帰る事が出来ませんからな。その為には、マリアンヌ様の魔能が一番の近道でしょう。元の世界に帰るにせよ、この世界に留まるにせよ。その者を見つけてからでも遅くはありませんからな」
「…………イナホ様は、どうしたいですか?」
突然の少女の質問に、稲豊の心臓はドキリと跳ねる。
その音が漏れたかのように、皆の視線は少年へと集約された。不安気な表情を向けるナナと、寂しそうな瞳を覗かせるマリー。タルトの表情は見えなかったが、稲豊には心なしか陰っているようにも見えた。
「…………俺は……」
元の世界に戻るという事は、必然的に彼女達との別れを意味している。この世界の者達の前でハッキリ「帰りたい」と告げる訳にもいかず、少年が答えあぐねていると――――
「ナナもマリーも、シモンを困らせるでない。十年以上も生活してきた家族のいる世界と、来て数ヶ月の過酷な世界。帰りたくなるのも自明の理。シモンの事を本当に考えるのなら、帰してやるべきじゃ。違うか?」
ルトが発した諭すような言葉に、ナナとマリーは仕方なく閉口する。
誰も言葉を発さない重い空気に支配された室内で、ただ悪戯に時は過ぎていった。
そして、皆の皿の上が空になった頃。
唐突にマリアンヌが口を開く。
「まあ、どちらにせよ――――今のウチに魔能は使えへんのやけどね?」
突然の告白に、稲豊は呆気に取られて口を閉じるのを忘れる。
普段冷静なルトですら、この時ばかりは目を大きく開き、キョトンとした表情でマリアンヌを見つめた。そんな瞳を向けられた当人は舌を可愛く覗かせながら、小悪魔的な笑みを浮かべている。
「理由を伺っても? マリアンヌ様」
稲豊とルトの代わりに、そう尋ねたのはミアキスだ。
「ええよ」
そしてマリーは特に隠すこともなく、皆に分かるように説明を開始する。
「簡単な話やねん。ウチの魔能は魔素をかなり“喰う”んよ。昨日使ったばっかりやから、次に使えるんは早くても十日以上は掛かると思うで? ハニーを食べたら、もっと短くなるんやけどね」
「お、おい止めろ!? 冗談でもそんなコト言うな! お前に食われた記憶は、既に【精神的外傷】にジャンル分けされているんだからな!?」
「あはは! 冗談やって! ハニーが側におってくれる限り、ウチは人間を食べへんから安心してや?」
「俺が元の世界に帰っても食うなっての! 食糧事情は何とかしてやるから!」
魔素が足りないとなると、ルトであってもどうする事も出来ない。
個人の食事量は限られているので、コレばかりは魔素の蓄積を待つしか無いのである。
「仕方ないのぅ。使用出来るまでは待ってやろう……。じゃが魔素が溜まったら、シモンに一番に使うと誓え」
「溜まったらな。ウチもハニーに嫌われるんは嫌やから、協力はしたるよ。賛成はせえへんけどね」
稲豊帰還の光明が差したところで、両家の食事会は静かに終わりを迎えた。
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屋敷の玄関に集まるマリー家の者達と、それを見送る他の者達。
マリー家の主は対面して立つルトに一宿と二飯の礼を言い、次に稲豊へと顔を向ける。
「それじゃあね、ハニー! 大勢でおる訳にはあかんから一旦帰るけど、また来るからね!」
「あ、ああ。ルト様が許したらな?」
「……ルト~」
「遊びに来ても構わんから、その捨てられている子猪みたいな瞳は止めるのじゃ」
姉に訪いの許可を出されたマリアンヌは、本当に嬉しそうな表情で「おおきに!」と元気よく返事をした。
「新しく住む所が決まったら教えてくれ。王都に行ったついでに寄らせてもらうからさ」
「ホンマ!? 絶対教える!!」
想い人の言葉にこれ以上ないぐらいに破顔したマリアンヌは、八重歯を覗かせながら子供のように喜んだ。それを見たタルタルは「大変だねぇ」と言った同情の瞳を稲豊へと向け、メイド達は苦笑して頭を下げた。
「皆忘れ物ないな? ほな行こか!」
「へーい。じゃーみんなー。またねー」
「それでは失礼致します」
先導するマリアンヌと、その後ろを付いて歩く使用人達。
マリー家の面々は玄関の扉を潜ると、既に待機している自身の猪車へと乗り込んで行く。そして最後に乗り込もうと考えていたマリーは、一人の使用人がまだ乗車していない事に気が付いた。
「タルトちゃん? 早く乗らんと出発してまうよ? 大丈夫やで! この猪車は六人乗りやから!」
上機嫌で手招きをするマリーだが、タルトの足取りはかなり重い。
案の定その足はマリアンヌの目の前で止まる。そしてその小さな手から、何かが彼女へと差し出された。
「ん? なんや? 手紙?」
タルトから便箋を受け取ったマリーは、声に出してそれを読み始めた。
「――――ウシ乳女様へ。このたびは、一身上の都合によりメイドを……やめさせていただきます!? コレはたいしょく願いです!?」
手紙の内容を知ったマリーは便箋とタルトの顔を交互に見て、あまりの驚きから声も出せずに口をパクパクとさせる。そして少し間を置いてから、何とか声を絞り出す事に成功した。
「何やコレ!?」
「朝早く書斎で書いた『じひょー』です!」
「そういう意味やなくて!!」
タルトの代わりに答えたナナに、狼狽しながらツッコミを入れるマリアンヌ。
何故そんな事になっているのか理解出来ない、と言った顔をする彼女に近付いたのは、呆れ顔の稲豊とルトである。
「いや、普通に考えてそりゃそうだろ……使用人を食う主の元で働けるかよ」
「い、いや……でも……! もう食べへんって約束した訳やし! 全部水に流れたんやないん……? ウチ昨日は罰も受けたし……」
「そう簡単に割り切れる問題でもなかろう。理屈で動くばかりが人ではない」
他人事のように話すルトだが、実はそれをタルトに持ちかけたのは彼女である。
少女は初めこそ困惑していたが、ナナや稲豊の後押しもあり、最後には小さな首を縦に振った。稲豊としても気分屋のマリーの所にタルトを置いておくのは忍びなかったので、この結果は喜ぶべきものだった。
「な、なあ? 本当にウチの所で働きたくないん? なんならお給金を倍に――――っ!」
往生際が悪く少女に詰め寄ったマリアンヌだが、その言葉は最後まで紡がれる事は無かった。彼女の瞳に、震えるタルトの姿が焼き付いたからである。
「俺でさえトラウマになったんだから、感受性の豊な子供ならそれ以上だろうよ。お前が使用人に雇ったくらいだから、タルトの事を気に入ってたんだろうけど……。嫌われて当然の事をしたんだ。その業からは逃げられねぇよ」
ショックを受けるマリーの胸に、稲豊の厳しい言葉が矢となって突き刺さる。
激しい痛みに彼女は表情を歪めたが、次の瞬間にはそれを見られまいと後ろを向く。そして肩を震わさせながら、それでもマリアンヌは彼女らしかった。
「え、ええもん! ウチにはハニーも、タルタル達もおるもん……! こ、子供なんて、騒がしくて、文句が多くて、ワガママで……元々嫌いやったもん!」
「それは全部お前の事じゃろが」
「ちゃうもん!」
ルトの横やりに涙声で返すマリアンヌ。
彼女は、静かで従順でお人形のようなタルトが好きだった。少女を見ていると、幼い頃に良く遊んだ姉妹達を思い出すからだ。だからこそ「一つになりたい」という想いを助長させたのだが……。
今更後悔したところで、失った信頼は戻っては来ない。
ならばマリアンヌは、せめて自分らしくあろうと思った。どうせ戻って来ないなら、突き放す事で傷を小さくしようと考えたのだ。マリーはそのまま振り返らず、猪車に乗り込む為に足を踏み出す。
――――しかしそんな彼女の思惑は。
「まって」
「……なんや? 退職は聞き届けたる。やからもうウチとタルトちゃんは、たに――――」
件の少女によって砕かれる。
「お友達に……なってください……!」
背中越しに聞こえたタルトの言葉に、マリアンヌの瞳は大きく開かれた。
そして驚きの表情を浮かべたまま、ゆっくりと少女の方へと振り返る。
「…………わたし。ご主人様のこと、スキです。……さいごはイヤだったけど、それまでずっと優しくしてくれました……。おねえさんが出来たみたいで……うれしかった……です」
「た、タルトちゃん……」
少女が震えと戦いながら、一生懸命に言葉を紡ぐ姿に、引きかけていたマリーの涙が戻って来る。
「だから……わたしとお友達になってください……。また、文字を教えてください……。マリー……おねえさん……!」
「……っ!? ダルトぢゃん!! ごめ゛んな゛ぁ!!」
口唇を噛んで耐えていたマリーだが、遂には押し寄せる感情の波を抑えきれなくなり、大粒の涙を流しながら少女へと抱き着いた。
「ゴメンねぇ!! ゴメンネ゛ェ!!!!」
「…………よしよし……」
タルトは、自分に泣きつくマリーのクリーム色の髪を優しく撫でる。
それを見たルトは「どちらがお姉さんか分からんのぅ」と皮肉を零したが、その顔に慈愛の笑みが籠もっていた事を稲豊は見逃さなかった。
まだまだ完全に打ち解ける日は遠いマリーとタルトだが、いつか必ずその日はやってくるだろう。
稲豊は、そんな気がしてならなかった。




