第70話 「朝から?」
時間を持て余した稲豊が、いつもよりもかなり早い時間に厨房に入ると、意外な事に先客がいた。稲豊は右手を軽く上げながら、その者へと近付く。
「おはようさん。朝食手伝ってくれんの?」
「んー? やあ、シモっちおはよう。おれとしては面倒なんだけどねー。やれって言われたからさー。マリお嬢に。もちろんルートミリア様の許可は得てるよー」
調理台の前に立ち、牛肉へ向けて包丁を振るうタルタル。
「マリーに? あいつも少しは罪を感じているんかねぇ?」
「ひねくれ曲がったのがマリお嬢の特徴だからねー。無邪気なひねくれ者ってさ、地味に最強だとおれは思うんだー」
「悪意なく人に迷惑かけるタイプか……。正にトラブルメーカーだな」
ため息を吐きながら、壁に吊ってあるコックコートに手を掛ける稲豊。
だがそれは稲豊に着られる事無く、元いた位置に戻る事となる。タルタルの言葉と出された手によって遮られたからだ。
「いいよいいよ。今日はお詫びも兼ねてるからねー。シモッチは時間まで寝てなよ」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えるかな」
「あっ。ヒャク使っても良い? 材料費はこっちで持つからさー」
「まあ沢山あるからな。材料費まで持ってくれるなら、俺から言う事は何も無いよ」
「あんがとー」
簡単な会話を終えると、タルタルは視線を食材へと戻し調理作業に没頭する。これ以上この場に居ても邪魔にしかならない、稲豊は肩透かしを喰らった気分で自室へと戻った。
「……かんっぜんに目が冴えてしまった」
マリーの幽香が残るベッドに一度は寝そべった稲豊だが、いつまでも睡魔はやって来ない。もっそりと体を起こした彼は、なんとは無しに部屋をぐるりと見渡した。
「あ!」
そんな彼のレーダーに引っ掛かったのは、鏡台に置かれた黒いアタッシュケース。稲豊はベッドから這い出ると、ゆっくりとそれに歩み寄り、鞄を開ける。
中に並ぶのは、今まで自分を助けてくれた調理器具達。
――――そして。
「お前には随分と助けられたなぁ」
大口の小瓶に入った、ほんの小さじ一杯分の『最強味噌』。
稲豊の父がくれた、渾身の自家製味噌である。
もう皆に振る舞えるほどの量はないが、稲豊は別にそれでも良かった。
これを眺めているだけで元いた世界との、父との繋がりを感じる事が出来たからだ。それが『弱さ』である事を重々承知している稲豊であったが――――
「それぐらいの弱さは勘弁してくれ」
誰が聞いてる訳でもないのに、言い訳を口にする少年。
再びベッドに倒れ込み、彼は食事の時間まで、飽きること無く瓶を眺めていた。
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食堂に入った稲豊は、室内を見渡してから一言。
「あれ? 俺最後の方スか?」
そう口を開く。
彼が尋ねた通り、食堂には殆どの者が揃っていた。
アドバーンにミアキス、ナナにタルト。マリー家のメイド二人に、普段この時間は就寝中のルトでさえ、既に席についている。
「ええ。あと来ていないのは、マリアンヌ様と御食事だけですな」
「……あいつまだ寝てるんスか?」
アドバーンと会話しながら、稲豊は呆れ顔で彼の隣に腰掛ける。
そんな様子を見ていた三つ目のメイドは、首を左右に振りながら立ち上がった。
「仕方ありませんね。起こして来ましょう」
「まったく。何処までも自由な奴じゃのぅ……」
ルートミリアの一言に皆から苦笑が漏れたとき。
話題の人物は、ようやく扉から姿を現した。
「おっかしいな~?」
首を捻りながら入って来たマリーは、何処か腑に落ちない視線を稲豊へと送る。その視線の意味を彼は知っているが、ここは敢えてスルーした。
「おはよう御座いますマリアンヌ様。如何なさいましたかな? 何処か納得のいかない御様子。何か気になる点でも?」
「う~ん。それがなぁ……昨日の夜、ハニーの部屋にしのび…………遊びにいったんやけど。朝起きたらウチのベッドで寝てたんよ。もしかしてハニーが部屋まで運んでくれたん?」
「…………なに?」
「…………イナホ様の部屋に?」
空気を読まず、自ら地雷原へ突入するマリー。
その無謀な行動に眉を潜めたのは、ルートミリアとナナである。
「何言ってんだ? 昨晩は俺の部屋に訪ねた奴なんていなかったよ。夢でも見てたんじゃないか?」
「ええ!? そうなんかなぁ……。確かに行った記憶はあるんやけど……?」
だが、マリーの行動を予測していた稲豊は、その回避手段もシュミレートしている。流れるように出た稲豊の言葉に、腑に落ちずも納得せざるを得ないマリアンヌ。そんな二人のやり取りを見て、ルトもナナもほっと胸を撫で下ろした。その後ナナは「あっ!」と何かを思い出したような表情を浮かべ、タルトと顔を見合わせて席を立つ。
「ん?」
ツカツカと歩み寄る二人の少女に、マリーの首は再び傾いた。
そして彼女達はマリーの背後に立つと、小さな手を勢い良く振り被る。そして響く何かが弾けたような音。
「ヒャワーーー!!!!!! なんでっ!? なんでなん!?」
音と同時に上がる、マリアンヌの大きな悲鳴。
彼女は涙目になりながら、叩かれた自身の尻を両手で撫でる。そして何故そんな非道が起きたのか? 少女二人に答えを求めて訴えた。
「ええっ? だって――――」
「…………ウシ乳女様が頼んだ」
「う、ウシ乳おんなーー!!??」
少女二人の信じられない言動に、マリーはまたも驚愕の声を上げた。
周囲の者達が困惑している中で、事情を知る稲豊だけは心の中で笑みを浮かべる。
「どったのこれ?」
そんな混沌とした空気を破ったのは、料理を運んで来たタルタルである。
お尻を押さえる主に、首を傾げる周囲の者達。彼の質問に誰も答える者が出て来ないまま、粛々と朝食の準備は整っていく。
「ウチここ!」
先程までの涙顔は何処へやら?
マリーは卓をぐるり見回し、迷うこと無く稲豊の隣へと腰掛ける。
ルトは呆れ顔を浮かべたが、最早ツッコミを入れる気力さえ湧いてこず、放置を決め込む事にした。
「えへへ~!」
締まりのない笑顔を稲豊に向けてくるマリアンヌ。
他人がいる中での全力投球な愛情表現の数々、迷惑なのに悪い気がしない分たちが悪い。稲豊は自然と見つめていた彼女の口唇から目を反らし、目の前の料理へと顔を向ける。
「腕にヨリとか色々かけて作りましたー。どうぞー」
「いや、腕にかけるのはヨリだけにしとけよ……」
稲豊のツッコミが飛ぶ中で、タルタルの朝食が皆の前に姿を現す。
その姿を見た各々は、多様な反応を見せた。「美味しそうやね」とゴクリと喉を鳴らす者も居れば、口角をヒクヒクと動かし、顔色を悪くする者も若干名いる。
それもそのはず。
皆の前には、血の滴る極厚のステーキがズラリと並んでいたのだから。
「たんとー。召し上がれー」
タルタルの言葉に伴い、ステーキに食らいつくマリー家の者達。
彼女達は一切の疑問も浮かべず、それがさも当然のように食事を進めていく。困惑したのは、ミアキスを除くルトの屋敷の者達だ。
「…………お前達はいつも。こんな朝食を摂っておるのか?」
「うん? 朝は一日の始まりやで? 一番魔素を補給する時やん!」
「理屈は分かるんだよ。分かるんだけど…………さ」
「タルトちゃん、平気ですか?」
「…………なれちゃったから」
込み上げる嘔吐感から、口元を押さえるルトと稲豊。
頑張って肉に齧り付くナナに、年寄りだという理由であまり手をつけないアドバーン。そんな中。やはりミアキスだけは文句の一つも零さず、肉を胃袋へと片付けて行く。稲豊は尊敬の眼差しを送りつつ、彼女に習うように食事を進めた。
「マリー。ちょっと、お前に関して聞きたい事があるんだけどさ。良いか?」
「も、もちろんええよ! まずスリーサイズはバストが92。ウエストが――――」
「聞いてない。俺が聞きたいのはお前の魔能、“正答”に関してだ。答えるのが無理なら別に答えなくても構わない。魔能って秘密にしてる魔物も多いみたいだしな」
稲豊は以前ルトにされた、“魔能”の授業を思い出していた。
『魔物の殆どが生まれながらに持っている固有の能力。それは当然、魔物達が切り札として使う場合も少なくないのじゃ。競争や戦闘などでは、相手の魔能を把握しているかどうかで勝率はグンと変わる。故に、それを門外不出としている種族もおるぐらいじゃ。手の内を明かすという事は、それだけ自身の命を縮める結果を齎す。覚えておくがよい』
魔能の秘匿性を知っている稲豊は、マリーに強制をするつもりもない。
彼女が口を閉ざすならば、それも仕方が無い。そう考えていた。
――――のだが。
「別にええよ? ウチは元々隠してへんし。そもそも、そんなに戦闘向きの魔能でもあらへんしな。何が聞きたいん?」
マリアンヌは二つ返事でOKを出す。
了解が出たのなら、その言葉に甘えずにはいられない。稲豊は『正答』について、気になっていた点を遠慮なく尋ねた。
「どういった能力なのかが知りたい。正確性や条件なんかを、出来るだけ詳細に教えてくれないか?」
「ええっとやねぇ……そうやなぁ。正確性っていうか精度は文句無しに自信あるで? 条件さえ満たしたら、知りたい情報は何でも教えてくれるからな。まあ、その条件が癖もの何やけど……」
マリーは難しい顔で腕を組み。
一つ一つ吟味しながら、声に出して説明を始めた。
「まず、調べたい対象はウチが認識出来る距離まで近付かなアカン。ぼんやりとやなくて、完全に把握出来る距離やね。つまり小物なら眼の前、ウチ等ぐらいのサイズやと十メートルくらいやな。次に、『正答』を発動するには質問をする必要があるんやけど、その内容もふわふわしたもんじゃ上手く発動せえへん」
「ふわふわ? 例えばどんなのですか?」
話に興味を持ったのか?
好奇心旺盛なナナがマリーに問い掛ける。
「そうやなぁ。例えばこの肉を見ながら、『もっと美味しくする方法は?』みたいなんはダメやね。味覚なんて人それぞれやから、“答えよう”がないんや」
「はぁ~。なるほど!」
「…………マジか。じゃあ『この世界で“二番目”に美味い食材は?』なんて質問は……」
「残念ながら発動せえへんねぇ。そもそも『世界』は広大過ぎて認識出来へんし」
「そっかぁ…………」
マリーの返答にナナは感嘆の声を洩らし、稲豊は落胆の声を零した。
彼が魔能について問い掛けたのも、ひいては『究極の料理へと辿り着く』。という目的があったからこそだったのだ。それを否定された今。稲豊が肩を落とすのも、理解出来るというものである。
「では……マリアンヌ。こんな“問い”は発動出来るのかえ?」
稲豊がガックリと項垂れる中。
不意にルトが口を開く。その何処か真剣味を帯びた声の音色に、皆が自然に彼女の方へと首を向ける。
若干の緊張が漂う食堂内で、
ルトは一拍置いた後に、その続きに覇気を乗せて言い放つ。
「“シモンを召喚した者は誰か?”」




