第69話 「よくも騙したぁぁぁ!!!! 騙してくれたなぁぁぁ!!!!」
「命令する――――妾に口付けよ」
大きなベッドの上で、潤んだ瞳を稲豊へと向けるルト。
熱い吐息を吐き出しながら愛らしい口唇から飛び出た言葉は、やはり相手を熱くするものに違いなかった。
「い、いけませんルト様! 俺達は主従関係……! そんな上司と部下のいけない関係みたいなのは……。まだ経験するには早すぎる!!」
「言葉では拒んでいても、お前の体は正直じゃな?」
「はっ!? いつの間に!」
彼女の言葉で自分を見た稲豊は、自身が下着一枚になっている事に気が付いた。
床に顔を向けると無造作に投げ出された洋服達。どうやら、稲豊の腕は既に欲望に負けていたらしい。
「良いんですか!? 本当にキスしちゃいますよ!!」
「なんじゃ? 口付けだけで良いのか? その先も……命令した方が良いのかえ?」
「さ、先!? 忠臣! 志門 稲豊! どんな願いでも聞き届けますぅ!!」
ベッドという聖域に侵入し、ネグリジェ姿のルトとの距離を詰める稲豊。
吐息が掛かり合うほどに顔を近付けても、ルトは全く逃げる素振りを見せない。
「い、良いんですよね?」
稲豊のする最終確認に頬を染めたルトは、良く見ていないと分からないぐらいの頷きで返す。唯でさえ近い距離を、更に縮める二人。
「んっ」
そして触れ合う二つの熱い口唇。
ルトの絡んだ腕が稲豊の両脇下を通り、「逃がさない」とでも言うように強く強く背中を押さえる。元々逃げるつもりなど毛頭ない稲豊は、彼女を抱きしめながらキスの雨を降らせた。
「んっ……んんっ!」
強く口唇と体を押し付け合う二人。
密着した事により、ルトの豊満な胸と蓄えた髭の感触がダイレクトに伝わり――――
「ちょっと待ったぁぁぁ!!!! 巨乳はともかくヒゲぇ!!??」
異常な感触に大袈裟なツッコミを入れる稲豊。
ルトは胸も髭も蓄えてはいない。改めてルトの方へと視線を戻した稲豊は、次の光景に愕然とする事となる。
「やれやれイナホ殿。つれませんなぁ。まだ情事の途中ではありませんか?」
「アドバーンさん!? おええぇぇぇ!!!!」
ルトの姿は何処へやら?
ベッドの上にはネグリジェ姿の老執事。
その異様な姿と、先程までの熱烈なキスの相手が彼と分かった衝撃に、稲豊の体は迷うこと無く吐き気を催した。
「ささっ……イナホ殿。続きをしましょう」
「嫌ですよ!! 何が悲しくてオッサンに走らなくちゃいけないんですか!! 『いけない関係』にも限度ってもんがあるんですよっ!!!」
逃げるようにベッドから絨毯の上へと飛び降りる稲豊。
彼はそこで奇妙な浮遊感に囚われる。
「へっ?」
間抜けな声と共に足元へと視線を送った稲豊は、自身の足裏が何にも触れていない事に気付く。その数瞬後に漆黒へと落ちていく彼の体。
「素晴らしい落ちっぷり! 九十八点を差し上げましょうイナホ殿!!」
「嬉しかないわぁ!! 家ん中に落とし穴掘ってんじゃねえええぇぇぇぇ……ぇ……」
どんどんと遠くなる頭上のアドバーンの姿。
その穴のあまりの深さに稲豊が絶望した時、漸く彼は少々の痛みを伴いつつ、現実世界へと帰還する。
「イテッ!?」
絨毯の感触と軽い痛みが、じんわりと稲豊の頬へと伝わってくる。
「………………あれ?」
寝ぼけ眼で周囲を見渡すと、そこが見慣れた一室である事が分かった。
異世界に来てから苦楽を共にした、最早愛着すら湧いている稲豊の私室。
窓から覗く陽光の具合から、彼は今が早朝である事を知る。
皆がそうするように、起きて直ぐ壁の浮遊時計を一瞥する稲豊。
そして知った現在時刻は午前五時。
「OK。まだ寝れる。神様、次の夢はもっとマトモなのをお願いします」
稲豊はベッドに潜り込み、「今度こそは!」と目を閉じる。
しかし――――その時。
「んっ?」
右手から何やら柔らかい物の感触が伝わって来た。
マシュマロを大きくしたようなそれは、手に加える力によって形を自在に変える。何処か幸せな触感を手の平に感じながら、稲豊はその何かの正体を確かめた。
「うおぉ!?」
右手の先を確認した稲豊が見たものは、薄いピンクのネグリジェに身を包んだマリアンヌだ。熱っぽい表情をしながら、少し荒い寝息を立てている。そして彼の右手が触れていたのは、言わずもがな。マリーのはち切れんばかりの右胸である。
「な、なんで!?」
稲豊は驚くと同時に、昨日の記憶を思い出す。
「ああ。招待してたんだっけ……」
マリー家での騒動後。
彼女達はルトの屋敷に泊まる事になったのだ――――が。
当然。稲豊が就寝した時に、彼女の姿は少年のベッドの上には無かった。
『きっと夜の間に忍び込まれたに違いない』
狼狽しながらマリーから離れた稲豊は、唐突に悪夢の正体に辿り着く。
ルトの胸が大きいのは、マリアンヌだったから。髭だと思ったのは、クリーム色のふわふわした髪。熱い口唇は…………。
「まさか俺。マリーと?」
濡れたマリーの口唇を見て、稲豊は夢が何処まで現実と連結していたのかを考える。しかし、それが不毛である事に気付くのに時間は掛からなかった。そして次に彼の頭に浮かんだのは、現在の状況の危険具合だ。
「この流れは……マズイ!!」
こういった展開は、実に稲豊の良く知るところである。
この先、タイミング悪く入って来た女性に「不潔!!」と罵られる事は火を見るよりも明らかだ。
「だが俺をテンプレ漫画やアニメの主人公と一緒くたにして貰っては困る。俺は! テンプレの先を行くぜ!!」
洋服ダンスから大きなローブを取り出した稲豊はそれを羽織ると、その格好のままでマリーを立たせるように抱き上げた。つまりは二人羽織の状態である。かなり重いが、文句を言ってはいられない。そのまま稲豊は、よろめきながら部屋を出た。目指す先はマリーの泊まった客室だ。
「前あんまり見えねぇけど、何となく道は分かる。起きる気配も全く無いし、これはイケる!」
天井を仰ぎながら浮遊する、背中の膨れたマリアンヌ。
傍から見れば明らかな異常であるが、やっている稲豊は大真面目だ。廊下の端のマリーの部屋まで、少年は顔を赤くしながら移動していく。
「あっ! マリアンヌ様!!」
タイミングが悪い事に、そんな綱渡りの最中の稲豊に、近付き来たる影があった。ナナとタルトの少女コンビである。
「おはようございます! マリアンヌ様。朝のお散歩ですか?」
二人羽織りに何故か気付かない二人の少女。
少し警戒するタルトの前に立つナナが、率先してマリーに話し掛けてくる。こうなってしまっては、無言で立ち去る訳にもいかない。稲豊はヤケクソになりながら、裏声で返事をした。
「あ、あら~。おはようさん。朝の散歩は気持ちええからなぁ。二人はこんな朝早くにどうしたの~?」
「今から書斎に行って本の探検するんです!」
「…………絵本」
瞳を閉じたままで、口を全く動かさずに喋る変な声のマリーに、不信感も抱かず会話を続ける無垢な少女達。彼女達を騙すことに若干の罪悪感を覚えつつも、稲豊に湧き上がって来たのは悪戯心。
「早朝から? 偉いな~。立派すぎて何か自分が恥ずかしくなって来たよ……。しかしコレはコレ、ソレはソレ! 二人にお願いがあるんやけど、構わない?」
「…………お願い?」
「なんですか?」
素直に耳を傾ける少女達に、イナホンヌは二つの頼み事を告げる。
「ウチの事はこれから『ウシ乳女』って呼んで欲しいんや」
「ウシ乳女!?」
「ほんで。次に会った時には、ケツぶっ叩いて欲しいんや」
「…………お尻を!?」
「ほな頼んだで~!」
驚き固まるナナとタルトをその場に残し、ヒョコヒョコと前後に浮遊しながら廊下の奥へと消えるイナホンヌ。少女二人は顔を見合わせ、小首を傾げるばかりである。
「うおらぁ!」
「ふにゃ……」
廊下端の部屋の中に滑り込んだ汗だくの稲豊は、勢い良くマリーをベッドへと放り投げる。それでも起きない彼女に呆れと少しの感心を覚えつつ、部屋を去ろうとドアノブに手を掛けた稲豊。
――――丁度その時。
「……ふふ! ハニー」
不意に背後から聞こえた声にギョッとして振り返る稲豊だが、マリーに起きている様子は無い。
「……寝言か」
稲豊は念の為にと近付いてマリーの顔を覗き込む。
すると幸せそうな笑みを浮かべながら、彼女は擽ったそうに寝返りを打った。
「眠ってる姿は可愛いんだけどなぁ」
口を開けば残念な事ばかり、しかしそんな部分も彼女の魅力なのかも知れない。
ふとそんな事が稲豊の頭をよぎり、マリーに対する愛おしさが沸々と胸の内から込み上げて来る。そして稲豊は数秒後、彼女の頬を優しく撫でていた自分に気が付く。
「……って! 何やってんだ俺は!?」
我に返った稲豊は、後ろ髪を引かれる思いを感じながらも無言で部屋を立ち去った。何故彼がマリーにそんな感情を抱いたのか? それが分かるのは、ずっと後の事である。




