第65話 「初めての」
「姿が見えないと思ったら、こんな所に居たのか」
「おれの夢はね~。大きな風呂付きの家を買ってさ~。そこで一日中風呂に浸かることなんだ」
食事が終わった後、タルタルは一人抜け出しずっと湯に浸かっていたのだ。
稲豊の隣で湯船から頭だけ出し、幸せそうな表情を浮かべるタルタル。何処か微笑ましいその姿に、稲豊も付き合い真似をする。
「それにしても大物だよね~。シモっちってさ~」
「うん?」
風呂を満喫していた稲豊に、唐突にタルタルが話し掛けてくる。
「だってさ~。シモッチは自分を喰おうとした相手を庇ったんだよ? それは普通出来る事じゃない。マリお嬢に気でもあるのかと思ったけど、どうもそうじゃないみたいだしね~」
「ああ……うん……」
稲豊の歯切れはあまり良くない。
その表情も、何処か覇気が無いようにタルタルは感じた。
「実は俺にも良く分かってない……」
ポツリと零した稲豊の声は、案の定とても自信無さ気である。
「あの時考えていたのは……、ルト様の後悔や、マリーの孤独。タルトの前で殺生が起きるのも嫌だったな。でも何よりも嫌だったのは――――」
「だったのは?」
稲豊が何よりも辛かったのは、見るに堪えなかったのは……。
「姉妹が……争うこと」
ルトとマリーが啀み合う事。
だからこそ稲豊は二人の間に割り入り、現在の結果へと誘導したのである。
「……なんか辛くなってさ。気が付いたら飛び出してた。これがどういう感情なのか? 俺にも良く分かんねぇ」
「ははは。良く分かんないのに、あの二人の間に入ったの? 大物だね~やっぱ」
「そうか? まあ、でも俺もお前を大物だと思ってるしな。お互い様だ」
不意打ちな稲豊の言葉に、あっけらかんと笑っていたタルタルは笑みを止める。
「メルルさんが言ってたの聞いたんだけどさ? あの時間いつも閉まってた屋敷の窓が開いてたんだってよ」
「ふーん」
懐疑的な視線を向ける稲豊とは対極的に、タルタルは興味の無さそうな顔をしている。そんな男にどうにか認めさせようと、稲豊は更に追求をする。
「お前はマリーが王都の市場に毎日顔を出している事を知っていたよな? これは完全に俺の推測だけど、お前はマリーの護衛も兼ねてるんじゃないか? メイドの二人は武闘派に見えなかったし、市場までなら料理人にとっては願ったり叶ったりだしな」
「聞けば分かる事だから言うけど。いちおー護衛兼料理人ね。まぁ、だから何だって話だけどねー」
「そんな事ないだろ? もし護衛だとしたら、お前も俺の姿を見ていたはずだ。それは必然的に“俺の護衛”の姿も視界に入れる事になる」
稲豊のその言葉を聞いた瞬間。
タルタルは湯船から出て会話を強制的に終了させる。
「“良く分かんねぇ”それが答えだねー。じゃあ、おれはのぼせる前に失礼するわ」
「お、おい!?」
それだけを告げて浴場を去るタルタル。
一人残された稲豊は、去った彼の方を向きながら。
「礼も言わせて貰えねぇのな」
と、一言呟いた。
風呂から出たタルタルはというと。
「ああ~。この屋敷の風呂も良かったなー。風呂はリリ○の開発した最高の発明だねー」
浴場でのやり取りなど無かったかのように、ご機嫌な足取りで廊下を進む。
鼻歌を奏でながら彼が止まったのは、客間の扉の前。
良い気分もそのままに、彼はドアノブを握り扉を緩慢に開く。
「どうもー。お風呂いただき――――――」
そんなタルタルの弾んだ声は、部屋の惨状を見た事により中断される。
のんびり部屋を見回した彼の視界に入って来たものは、それだけの凄惨な光景であったのだ。
「うあ……あ……あ……」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
床に転がり息も絶え絶えに痙攣しているのは、何を隠そう彼の雇用主と慌てん坊の仲間。
「や、やめて下さい~! 御慈悲を~!!」
テーブルの上で拷問(?)されているのは、もう一人の仲間である。
羽根ペンの羽先で足裏を擽られ、頬を上気させながら助けを懇願する三つ目の彼女だが、少女二人は「あともうちょっと」と声を揃えて却下する。
この流れは実によろしくない。
そんな思考が咄嗟に過ぎったタルタルは、回れ右して再度ドアノブを掴む。
だが世の中はそんなに甘くはない。
彼の左肩に置かれた手により、逃亡という行為がその先へ進む事は無かった。
振り返ったタルタルが見たのは、悪戯な笑みを浮かべるルトの姿。彼女の瞳は「次はお前だ」と如実に語っている。
一蓮托生。
そんな言葉がタルタルの脳内に浮かび上がる。
マリーに雇われた事への不満を感じながら、彼は深い深い溜め息を零した。
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夜も更けた頃。
蒼い月に照らされた屋敷のバルコニーには、ある男の姿があった。
「……はぁ」
呆けた顔で吐息を洩らすのは志門 稲豊、その人である。
彼は憂いを帯びた瞳で久方振りの満月を眺め、幾度と無く負の感情を息にて吐き出す。
稲豊の脳内を支配するのは、この場所に来ると必然的に思い出してしまうルトのこと。タルト発案の仕置を持ち掛ける事で、彼女との会話が多少出来た稲豊であるが、求婚事件で生まれた蟠りが完全に払拭出来た訳ではないのだ。
現にそれ以外の会話は殆どしていないし、この時間いつもならいるこのバルコニーにも姿が見えない。
「俺を召喚した誰かさん。もっと完璧な翻訳機能を期待したかったよ」
誰かを恨むなら、言葉の選択を間違えた自分と、召喚した誰かさんしかいない。
稲豊は月を見上げながら、顔も分からない召喚士に思いを馳せる。
そんな時。
彼は後方から向けられた視線に今頃気が付く。
独り言を聞かれた気恥ずかしさと、少しの期待を持って振り返った稲豊が見た者は――――
「こ、こんばんは! ええ夜やねハニー!」
「……なんだお前か」
「なんだってなんやの!? 傷付くなぁ……他の誰かを期待しとったん?」
「んな事はねぇよ」
目線で稲豊に確認を送った後、マリーは彼より少し離れた位置に立つ。
心なしか遠い距離に稲豊は疑問を感じながらも、別に追求する気なんかは起きない。
「いやぁ~酷い目にあったわ! あれ絶対ルトかハニーの立案やろ? タルトちゃんから言い出したとは到底思えへん」
「まあな。罰を決めたのはタルトだけど、だからって恨んだりするなよ? あれで済ませてくれたんだからな」
「分かっとるって! もう手は出さへんよ。ハニーに嫌われるんもイヤやし。何よりああいう賑やかなん……嫌いやないし」
何処か楽しそうに微笑むマリー。
そんな彼女を見て若干の癒やしを感じた稲豊は、その感情から目を逸らすかのように事務的に尋ねた。
「で、ご用件は?」
「いやぁ、そんな大袈裟なもんやないんやけど。ハニーとお話がしたくって」
「下らない話だったら気分じゃないぞ?」
「それは保証出来へん。これからするんは、ウチかて下らない話やって思うとるからなぁ。まぁでも、時間は取らさへんから堪忍したってや?」
今はルトに対する誤解を重ねたくない。
必要でない話なら、二人きりでの会話は極力避けたい。
だが「一緒にいてやる」と言った手前、拒否も出来ない。自分の言った言葉の重さを感じながら、稲豊はマリーとの会話に興じる。
「食事会ん時のハニーの推測で一つ間違っとる事があったから、訂正しに来たんよ」
「えっ? マジで!?」
興味無さそうだった稲豊も、その言葉には大きな反応を見せた。
あのプロポーズ以上の間違いだったら立ち直れる気がしない。稲豊はゴクリと喉を鳴らす。
「ハニーはウチが予想してなかった言うたけど、ウチは考えとったよ? もしルトにバレたなら、きっと殺されるんやろうなぁ――――って」
「はぁ!? じゃあお前は、それが分かってて人間に手を出したのか?」
簡単に覚悟を語るマリーに、稲豊の声は自然と上ずった。
理解出来ないと言った表情を浮かべる稲豊だが、マリーはそれを間近で楽しみたいとでも言うかのように、ズイッと体ごと顔を寄せる。
二人の吐息が触れ合うほどの距離まで接近を許した稲豊は、眼前の蠱惑的な美貌の持ち主を見てドギマギした。彼も男、美しい女性に迫られる事が嫌な筈がないのだ。
「本当はルト以外の姉妹にソフトに関わって貰うはずやったんやけど……、途中から“ルトでもええか!”ってなったんよ。だって、どうしても欲しい人が……、あの子のコックやったから」
「でもそのコックに手を出したら。――――お前は死ぬんだぞ?」
「それでも! どうしても彼と一つになりたかったんよ」
「…………マリー」
「言うたやろ?」
マリーはそこで目を細めて、一拍置く。
――――そして。
「初恋やって」
そう言うが同時。
彼女は一歩前に進み、稲豊の唇にキスをする。
触れ合うだけの軽いものであったが、それでもその衝撃は唇から全身を駆け巡り、震えるような快感を稲豊に齎した。
「おやすみなさい。ハニー」
硬直し動けない稲豊をその場に残し、マリーはバルコニーを後にする。走り去る際の彼女の顔が赤く見えたのは、決して彼の見間違いなどではないだろう。
「うわぁ。初ちゅーしちゃったよ。ヤバイなこれ」
馬鹿な独り言を呟きながら、唇の感触を思い出す稲豊。
柔らかく、瑞々しく、良い香りがして、何処か切ない。そんな感触に酔いしれた彼の視界に、ふと何かが映り込む。
「うん?」
頭が蕩けた稲豊は、最初“それ”が何かに気付けぬにいた。
だが数秒後に雲が流れ、その正体が月明かりに照らされるのと同時。彼の顔は蒼い月明かりでは言い訳がつかないぐらいに、真っ青なものとなる。
からからに渇いた喉で、稲豊はようやく一言。
「ル、ルト……様?」
そう問い掛けた。




