第58話 「大切な事なのでもう一度言う、俺はSだ」
「なんやコレ? むっちゃ微かやけど……なんかええ匂いする。嗅いだことの無い匂いや」
部屋に漂って来た芳香はマリーの鼻孔を擽り、彼女の胃袋を刺激した。
腹の虫を抑えるマリーは、少し頬を染めながら目下の少年に視線を戻す。先程の台詞といい、その様子はまるでその匂いを予期していたかのよう。何処か満足気な表情に見える。。
「匂いの正体……、きっとタルタルが知ってると思うぜ? 気になるのなら、聞いてみるのをお勧めするよ」
「タルタルが?」
タルタルの料理は今まで何度も食べてきたマリーだが、こんな香りの料理は知らない。好奇心に負けた彼女は、稲豊の鎖を確認した後で部屋を出る。
「やっぱ台所からやね」
匂いの強くなる方へと足を進ませれば、そこは自然と調理場。
厨房内にはタルタルが一人、中サイズの鍋でスープを煮込んでいる。彼は基本的に調理の過程を全て一人でこなすので、別段珍しい光景でもない。
「作ってるのシチューなん? なんやいつもと香り違うんやけど?」
「あー、マリお嬢。やっぱ分かります?」
「ええ匂いやね」
ひょい、とマリーがタルタルの横側から鍋を覗くと、鍋の中には見たこともない色のスープ。何を使うとこんな色と香りになるのか? 気になった彼女は、稲豊の言葉に従ってコックにその正体を尋ねる。
「これ何入れとるん? 珍しい食材でも手に入ったん?」
「あー、なんか知らない調味料ですけど。毒味も済ませたんでー、問題ないです」
「ふーん」
食器棚より小鉢と銀のスプーンを取り出したマリーは、食事の時まで待ち切れない――と言わんばかりにスープを小鉢に移し、その味を確認する。
「ふわぁ~。めっちゃ美味しいなぁコレ! 魔素がぎょうさん増えるのを感じるわ。もっともらおっ!」
その味はマリーの琴線に触れたようで、彼女に行儀の良さを忘れさせた。
上機嫌で何度も小鉢を口へと運ぶ彼女だが、それは次にタルタルが発した言葉で中断される事となる。
「それー。チビが持って来た調味料なんですよ。彼の部屋からー」
「ブッ!!??」
その言葉を聞いた瞬間、マリーの口からスープが盛大に噴き出される。
そして彼女は口の端から溢れる液体もお構い無しに、困惑顔のタルタルへと詰め寄った。
「どどどど、どういうコト!? なんでタルトちゃんが自由に動けてんの!?」
「え、えっとー。実は――」
青い顔をしたマリーはタルタルに事の成り行きを話させるが、その話が後半に進むに連れて、彼女の顔色は益々青みを増していく。顔全体に浮かぶ汗が、心の動揺を如実に表わしている。しかし、それはタルタルが話終えるまでの間だ。彼の話が終了した直後、マリーの顔色は青から赤へと信号機のように変化した。
「アホかーーい!!!!」
「ヘブッ!?」
何処から出したのか? マリーの扇子がタルタルの頬を豪快に横殴りし、彼は奇声と共に吹き飛び、食器棚に背中から勢い良く激突する。その際に多くの食器が砕け散ったが、激昂したマリーは地面に散らばる破片など気にもかけない。一瞬でタルタルの傍に駆け寄ると、彼の胸ぐらを両手で掴み声を上げる。
「どこや!!」
「えー? な、なにがです?」
「その調味料がどこにあるのか聞いとんのや!!!!」
マリーのあまりの剣幕に萎縮したタルタルは、左手の人差し指でその調味料を指し示す事しか出来ないかった。その指の先を視線で追ったマリーは、程無くして棚に置かれていた“ソレ”を見つける。
「…………なんやコレ」
駆け寄ったマリーが右手で持ち上げたのは、大口のガラス瓶。
中に入っているのは、見たこともない茶色の調味料。彼女は迷わず瓶の蓋を取り、茶の物体を凝視しながら大量の魔素を生門より取り出した。
マリーの全身を赤い蒸気が覆った後、それはやがて彼女の両耳へと集約される。
「教えて……『コレは何?』」
彼女が誰かにそう問い掛けた瞬間。
男とも女とも判別つかない不思議な声が、マリーの両耳に飛び込んで来る。
『魔神の耳』その『正答』の力の発動である。
その声は感情の籠もっていない音を呪文の様に吐き出し続け、マリーに問いの答えを与えた後に沈黙する。大量の魔素を消費する代わりに、自らの欲しい情報を入手出来る魔能。謎の声から告げられた情報に、マリーは軽い目眩を覚えた。
「だいじょぶですかー?」
頭を右手で押さえ眉を顰める主に、タルタルは呑気な声を掛ける。
マリーは少し呼吸を落ち着けて、愚鈍なコックにも理解できるように言葉を選び説明をした。
「“正答”の大半が意味不明な内容で頭いたなったけど、コレの名前と出処は分かった。シモン君が自分の世界から持って来た『ミソ』ってもんやて……、で! それがどういう意味か。タルタル、あんたわかっとるんか?」
「へー? ………………さぁ?」
間抜けな顔で首を傾げるタルタルを見て、またもマリーは顔を赤くする。
そして再度彼の胸ぐらを掴み直すと、激しく揺さぶりながら非難の言葉を浴びせた。
「シモン君の世界にしか無いもんの匂いを出したら!! あっちゅー間にココが特定される言うてんねん!! 香りなんて! ミアキスやルートミリアからしたら一番の目印やって、何で気づかへんねん!?」
「っていわわれてもも、おれ最近働きだしし。誰ですかかかソレれれ」
「とにかく!! すぐにココを離れる準備をするんや!! こんだけ匂い出しとったらいつ――――――」
マリーの発したその言葉が、最後までタルタルの耳に届く事はなかった。
何故ならそれ以上の爆音が屋敷中に轟き、彼女の声を掻き消したからである。
「は、はわ……あ……ま、まさ……か……?」
泡を食ったマリーの顔色はもはや白に近い。
彼女はタルタルをその場に放り出し、急いで厨房を後にする。目指す先は稲豊のいる自身の部屋だ。
「はわっ!?」
階段前に差し掛かった所で、マリーは素っ頓狂な声を上げる。
先程まで健在だった屋敷の中間部分が、今では廃墟のように崩壊した様相へと一変していたのだ。もうもうと煙が立ち込める中で響いたのは、瓦礫が崩れ落ちる音と、聞き覚えのある二人の声。
「ふむ。微かじゃがシモンの匂いがする。此処で間違いないのぅ」
「ええ! それと他にも知ってる者の匂いが――――」
二人の侵入者の話も最後まで聞かず、マリーは「ひぃ!」と軽い悲鳴を上げ、一目散に階段を駆け上がり自室へと飛び込んだ。入室後の第一声は無論、抗議の声である。
「しっ……シモン君!! わ、私達のこと騙したの!?」
「だから言ったじゃん。俺はどちらかと言うとSだって」
しれっと答える稲豊の顔に浮かぶのは、若干の悪意の宿った笑み。
彼の言葉で更に冷静を欠いたマリーは、涙目になりながらベッド上の稲豊に詰め寄る。
「で、でもどうやって!? タルタルから聞いた話では、タルトちゃんとはおまじないの話しかしてないって!! あんな物を持ってるなんて、一言も言ってないって!!」
「ん? そうだよ。おまじないの話しかしてない」
「じゃ、じゃあ……なんでタルトちゃんが……?」
混乱した頭では、その答えに辿り着く事は出来そうもない。
目を泳がせ、可哀想なほど狼狽するマリー。同情を感じた稲豊は、彼女の望む解答を教える。
「ダンバ・カレ・クツル・シソミ」
「――――――え?」
「後ろから読んでみろ」
「う、うしろ? ミソ……シ……ル……ツクレ……カバンダ!?」
自分で言った言葉の意味に気が付き、目を大きく開くマリー。
その様子を見た稲豊は少しの戦慄を覚える。味噌も鞄もこの世界には存在しないにも関わらず、彼女が稲豊の説明無しにそれらを理解したからである。マリーの魔能を聞かされて居なければ、彼は混乱の極みに立たされていた事だろう。
「そう、『味噌汁作れ鞄だ』。以前タルトに俺が作った味噌汁を、タルタルに作らせろって暗号だよ。勿論タルトは味噌汁も知ってるし、俺が持ち歩いてるのが鞄だって事も知ってる。わざわざタルタルを選んだのも、あいつが料理人である事を見越して選択したってわけ。方言やインテリアも良いけど、子供の遊びにも耳を傾けるべきだったな」
「な、何のことよ!? いや、そんな事より! 早くここから――――」
またしてもマリーの言葉は轟音に掻き消される。
しかしさっきと違うのは、その音の出処が彼女の背後であったことだ。
「あ……あわ…………も、もう……き」
ギギギと壊れた絡繰人形のように首を回すマリー。
振り向いた彼女の視線の先には、吹き飛んだ部屋の扉と、この場で最も見たくなかった者の姿。
「――――居たな」
侵入者は稲豊とマリーの姿を見つけるなり、邪悪な笑みを浮かべ覇気のある声を部屋に響かせた。
その声には溢れんばかりの怒気を孕んでおり、監禁されていた稲豊ですら、背筋に冷たいものが走るのを感じてしまう。
声の主は緩慢な歩みを見せ、ベッドで硬直する二人の前で止まり仁王立ちを決め込む。
「は……う……。ひ、久しぶり……」
稲豊にギュッと抱き着きながら、震え声でマリーは挨拶を告げるが、それは逆に侵入者を刺激する結果となる。腕を組み、こめかみに青筋を立てる“白髪の彼女は”、口端を引き攣らせながら悪意ある挨拶を返した。
「うむ。久し振りじゃのう? “我が愚妹マリアンヌ”。言い訳の準備は出来ておるか?」
ルートミリアの王者の覇気は、その場の全てを蹂躙した。




