第57話 「おまじない」
部屋の扉が開く音に、稲豊はハッと目を開き顔だけをそちらへ向ける。
そこに佇んでいたのは、唯でさえ小さい女の子が、更に小さくなった哀れな姿。
「…………イナホ!」
少女は稲豊の姿を見るなり、声を上げ彼の傍へと駆け寄る。
その姿を扉の影から見守るのはタルタルだ。魔物である彼とて、二人の最後の時間を邪魔するほど野暮ではない。遠からず近からずの距離で、気配を殺して二人の様子を窺っている。
「タルト……なんでだろうな? 昨日あったばかりなのに、随分久し振りに見た気がするよ。ちょっと痩せた? なんて悪趣味な冗談だな。でも、思ったより元気そうで良かったよ。ごめんな? 俺が不甲斐ないせいで、またお前に迷惑掛けた」
「そ……なこと……ない! イナホぉ……」
昨日と変わらぬ少女の姿を見て、稲豊は謝罪と同時に安堵の言葉を洩らす。
それに対しタルトが見せた反応は否定と涙。その泣き顔と悲壮感漂う声が、稲豊の胸をチクリと刺激する。
「イナホ……指……が」
「ああ、コレ? ちょっと過激な指切りげんまんしただけだから気にすんな」
稲豊の縛られた右腕を片手で握った少女は、自らを差し置いて少年の指を心配する。
タルトは恐怖によって泣きそうになっていたのではない。拘束され指先を消失した稲豊の姿が、何よりも辛かったのだ。心優しき少女はこんな時でさえ、自身よりも他人を心配している。
「おいおい。そこは笑いながら『小指じゃないじゃん!』って突っ込む場面だぜ? 笑えタルト」
「……む、無理だよぉ……ひっ……くっ!」
わざと明るく振る舞う少年だが、少女の顔は歪み、遂には涙で頬を濡らす。
そんなタルトの様子を見た稲豊は、やれやれと大袈裟に首を左右に振り「じゃあ、こうしよう!」と、彼女にある提案を持ち掛ける。
「元気になれるおまじないを教えてやるよ」
「……おまじない?」
まじないなど、ただの気休めでしかない。
そんな事、タルトは百も承知している。
だけど、そう語る稲豊の笑顔は眩しくて、例えそれが気休めでも少女に縋りたいと思わせた。少しでも落ち着くことが出来るならそれで良い。そのような考えに支配された彼女は、二つ返事で彼の提案を受け入れる。
「…………教えて」
「巷でも流行中の重要で大切なおまじないだ。聞き逃すなよ?」
「う、うん」
稲豊はその重要さを念押しした後に、簡潔におまじないの言葉を告げる。
それは支離滅裂な、言葉にすらなってない言葉。聞いたことのない不思議な呪文に、離れた位置から聞いていたタルタルは、眉間に皺を寄せ首を傾げた。
「覚えたか?」
「ダンバ…………おぼえた」
確認の言葉に、指折り文字を数えるタルト。
その様子を微笑ましく見守る稲豊は、穏やかな声で少女の背中を押す。
「きっとそのおまじないがタルトを救ってくれる。頑張れ」
「…………うん。が、がんばる!」
稲豊の言葉にタルトは力一杯頷く。
その様子に満足した稲豊は、扉の方へと視線を送る。それは二人の時間の終了の合図だ。目が合ったタルタルは、少女に「いくよー」と声を掛けた。
「またな?」
「…………またね?」
簡単に別れを済ませながらも、タルトは名残惜しそうにその場を離れる。
そして何度も振り返りながら、時間を掛けて少女はタルタルと共に部屋を出て行った。
「頑張れよ」
見えなくなったタルトの背中に声援を送り、稲豊はまたも目を閉じ時を待つ。
まるでその姿は、全てを諦めてしまったかのよう――――
しかし、穏やかなその姿は偽りの姿。
何故なら今現在の彼の胸中には、心騒ぎの暴風が吹き荒れていたからだ。何が彼をそうさせるのか? それが分かるのは、少し後のことである。
ここで場面は、部屋の外に出たタルトとタルタルの二人に切り替わる。
室内の稲豊の心中など露知らず。
二人は薄暗い廊下を列になって歩く。
しかし、階段を下りた所でその歩みは止まる事となる。
タルタルの背後を歩いていたタルトが、その場で立ち止まってしまったのだ。
「んー? どったん?」
声を掛けても反応を見せない少女に、タルタルは警戒の色を浮かべる。
今タルトを拘束する物は何もない。逃げ出そうと思えば、走って玄関から外へ出ることが可能なのだ。しかし、腐ってもタルタルは魔物である。例え少女と言えど、油断など見せない。
いつでも走り出せるように意識しながら、少女の傍まで戻るタルタル。
だが、彼は不意に放たれたタルトの言葉に大きく双眸を開く事となる。それだけ、その言葉が意外なものだったからだ。
彼の歩みさえ止めさせたその言葉とは――――――
「…………タルタルちゃんありがとう。さいごにイナホに会わせてくれて」
タルトから彼への、惜しみない感謝であった。
「あー………………うん」
想像していなかった言葉に、心が揺さぶられるタルタル。
今までどの食材にも感じたことのないその感情に、彼は少なからずの動揺を覚えた。そんなタルタルの心情を知ってか知らずか、少女は言葉を更に続ける。
「…………だから、お礼させて? きっとご主人様もよろこんでくれるから」
「んー? お礼? くれるのなら貰うよー。何か知らないけど」
混乱したタルタルに礼を申し出るタルト。
そしてそれを快諾するタルタル。
この時――
タルトの瞳には絶望的な状況には似つかわしくない、確かな光が宿っていた。
だがそれは、少女の長い前髪に覆い隠され、タルタルはその意図に気付くことが出来ない。彼の運命は、首を縦に振ったその瞬間に決まったのである。
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「あと十分いうトコロやね。シモン君、今の気持ちはどないなん?」
部屋に入って開口一番、マリーは得意気な顔でそう話す。
彼女が期待したのは、寒空の下に放り出された子供のように震える稲豊の姿。そして「家に入れて!」と慟哭せんばかりの『一緒にいよう』と懇願する稲豊の言葉だ。
しかし――――
「ぼちぼちでんな」
稲豊に別段変わった様子はない。
もう数分後にその命を失うというのに、冷静そのものである。
そんな潔い稲豊の姿に、マリーは図らずも胸をときめかせてしまう。だが数瞬後には「流されてはいけない」と首を振り、意識して非情な目を稲豊へと向けた。
「その余裕もいつまで持つんか……、見ものやね」
そう言っていつもの場所、つまりは稲豊の隣に腰を下ろすマリー。
何処か哀愁の漂う表情で天井を眺めるのは、彼女の複雑な心境の表れかも知れない。
互いに無言のまま、長いようで短い時が過ぎる。
先に痺れを切らしたのは、赤い彼女の方であった。
「ほんまにええの? 今なら……、まだオーダーの変更は可能や。シモン君の態度次第では、気を変えてあげてもええんやで?」
稲豊の上に覆い被さり、顔を二十センチ程離した位置からマリーは最後通告を伝える。
魅力的な提案に違いないにも関わらず、囚人には微塵も動揺が見られない。真っ直ぐな瞳で頭上の者を捉え、無言で眺めるのみである。
「な、なんでそんな顔出来るん? 死ぬの怖くないん?」
逆に狼狽したのはマリーの方である。
圧倒的優位に立っているのに、その表情はまるで追い詰められているかのようだ。
そして、そんな弱い心を払拭するかの如く、彼女は更に強い言葉で稲豊に脅しを掛ける。
「ウチがシモン君に惚れてるからって、“直前で助ける”なんて希望持っとるならそれは浅はかやで。ウチは食べる言うたら食べる。君と一つになるのが、ウチの一番の目的なん――――」
「嘘だな」
渾身の脅し文句も、稲豊のたった一言で遮られる。
困惑するマリーに「だってさ」と、少年は悟った様な口調で話す。
「もし本当にお前が俺と一つになる事を望むのなら、そんな脅しをかける必要も無いだろ? 問答無用で俺を殺して食えば良いだけだ。それをしないお前には、別の望みがあるんじゃないか?」
「……は……そ、そんなもの……ない」
図星をつかれたマリーの顔には、汗が次々と作られる。
稲豊から距離を取るように体を起こした彼女だが、目は忙しなく泳ぎ、息もかなり荒い。
しかし、それでも稲豊の言葉は止まらなかった。
「お前が本当の意味で欲しているのは、美味い食材なんかじゃない。お前が本当に望んでいるのは――――」
「貴方に私の何が分かるって言うのよ!!!!」
遂には激昂し声を張り上げるマリー。
顔は真っ赤になり、その瞳にはうっすらと涙さえ浮かんで見える。心の堰が決壊したかのような激情が、マリーの胸に押し寄せては水嵩を増やす。胸に収まり切らなくなったそれは、喉を駆け上がり、声となって稲豊に襲い掛かった。
「ずっと貴方を見てきた私が言うならいざ知らず! 昨日会ったばかりの貴方に、私を理解出来る訳がないでしょう!! 何も知らない癖に! 私の気持ちなんて……考えた事も無い癖に!!」
「前まではそうだったんだけどなぁ。今はどうしてか……マリー。お前の事ばかり考えているよ」
「う……あ……なっん…………!」
稲豊の言葉を聞き、言葉にならない音を洩らすマリー。
今顔を覆っている赤みが、怒りから来たものなのか? マリーは途端に自信が持てなくなった。何処か大人びた表情を浮かべる稲豊は、優しい声で彼女に語り掛ける。
「今のお前は享楽主義には全然見えない。俺にはとても辛そうに見えるんだよ。出来ることなら救ってやりたい」
「そん……な……こと……」
最早立場は逆転している。
囚人に救いの言葉を出させたかったマリーは、どうして今自分が涙を零しているのか分からない。救いの言葉を我慢するのに必死な彼女は、声を出す事も上手く出来ないでいる。
そんな彼女に愛おしさすら感じた稲豊は、先程タルトにそうしたように、マリーにも同じ言葉を投げ掛ける。
「おまじない教えてやるよ」
「――――――おまじない?」
「タルトにも教えた、元気になれるおまじないだ。聞くか?」
「………………きく……」
機嫌を直す前の子供のように小さくなったマリーは、素直に稲豊の話に耳を傾ける。
彼女の言葉をしっかり聞き届けた稲豊は、努めて明るい口調で話した。
「んじゃあ。今から言う俺の言葉を繰り返してくれ。良いか? 『ダンバ・カレ・クツル・シソミ』」
「ダン……カレ?」
「ダンバ・カレ・クツル・シソミ」
「ダンバ・カレ・クツル・シソミ。なんや、初めて聞くおまじないやねぇ。これでホンマに元気になれるん?」
「もちのろんだ」
信じられない、と言った眼差しを稲豊へと向けるマリーだが、視線を向けられた張本人は実に自信あり気。そんな少年の様子を見たマリーは少し元気を取り戻すが、このおまじないが本領を発揮するのは――――これからだ。
「ほら、何か感じないか? 元気になれる“何か”をさ?」
「うん? そんなもん特には――――――って、アレ?」
その時。
確かにマリーは感じた。
この部屋に入り込む、微かな“何か”を。
だが、彼女がそれを感じ取った時。
既にその何かは屋敷を駆け巡り、この監禁騒動の終局を静かに暗示している事に、マリーは未だ気付けぬにいたのである。




