第56話 「最期の願い」
揺さぶりは稲豊の狙い通りに、照準をタルトから自身へと逸らさせた。
唯一計算外だった事は、彼の想像以上にマリーの怒りに火が点いたということだろう。
手足からだった順序が、大きく繰り上げられてしまう。
ルトに異常なまでの敵愾心を燃やす、彼女の心情を察することが出来なかった故の失敗である。
「もっと別の内容で揺さぶるべきだったな…………って! 悔やんでも仕方ない。どうするか? どうしよう?」
脳に檄を飛ばす稲豊だが、起死回生のアイデアは浮かんで来ない。
強力な魔法が使えたのなら、鉄の手枷など簡単に破壊出来るのだろうが、生門の小さい稲豊では夢物語に過ぎない。
久方振りの走馬灯に苦しめられながら、どうにか手枷を外そうとする稲豊。
しかし鉄の腕輪はビクともしない。それはただ冷淡且つ従順に、自らの仕事を全うする。その働き振りには、稲豊も舌を巻くのみである。
「くそ! こんなのどうしようもないだろ!!」
鎖を激しく揺らしながら悪態をつく死刑囚。
以前にも命の危機は数度あったが、今ほど絶望的な状況ではなかった。
稲豊自身がある程度動けていたし、周囲の助けもあったのだ。しかし、今はそのどちらもない。
「今の俺に出来ることなんて…………何が……あるんだよ!」
遂には身を捩ることさえ諦め、僅かに持ち上げていた手さえベッドに放り出す。
諦めに支配された表情をする稲豊だが――――
その際、彼の左手が何かにぶつかる。
触れた“ソレ”に咄嗟に視線を走らせるが、その表情は直ぐに落胆へと変わる。
少年は深い深いため息を零した。
「こんな物があったところで何も…………ん?」
その時。
彼の頭に一つの“考え”が浮かぶ。
それは今の稲豊に出来る。
最後の――――――
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「本当に其奴は二層(住民街)の者なんじゃろうな?」
「分かんねぇよ。奴の身分証にそう書いてたのをチラッと見ただけだ」
「調査隊の人材管理をしていたのだろう? なのに相手の住所も知らないのか?」
「管理なんて大袈裟なもんじゃねぇ。頼まれて助っ人を何人かスカウトしただけだ。そんなキッチリした仕事してねぇよ」
二層住民街の一角で、立ち尽くすのはオークと人狼と上級魔族。
その誰もが、広大な迷路と化した住宅街で頭を抱える。一軒一軒当たっていては、日が暮れるどころの話ではない。
「なんで俺様が稲豊捜索まで……」
「うん? 誰の行為でこんな事態が起きたのか……風穴開けられねば思い出せんか? 『主の元まで届ける』という、最低限の護衛の役目も果たせんかったブタが」
「うぐ…………そ、それはもう謝っただろ。報酬も俺様の方から辞退したし」
「当然だな。護衛が聞いて呆れる」
愚痴を洩らすターブに、辛辣な言葉を浴びせるルトとミアキス。
文句の一つも言いたいターブであったが、二人から発せられる殺気の前では閉口するしかない。
眉をへの字にし、長い鼻息を吐いた後で、ルトはミアキスに尋ねる。
「ミアキス。外から屋内にいるシモンの匂いを嗅ぎ分けられるか?」
「玄関が開いていれば可能です。しかし、居留守を決め込まれたらどうしようもありません」
「聞き込みしかねぇだろうな。見つけた爬虫類人間ん家の玄関を片っ端からぶち破れば、いつか当たるだろ」
「それしかないかのう」
「それしかないですね」
恐ろしい案を採用する捜索班一行。
効率上昇の為、ここで手分けする事に決めた三人は、ルトとミアキス組。ターブの二手に別れ、稲豊捜索を開始する。
頬を伝う汗も気にせず、迷路の中をひた進む三人だが。
制限時間が正午までである事を、彼女達はまだ知らない――――――
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時間は残すところ、あと一時間。
静寂の支配する部屋の中で一人。
目を閉じた神妙な面持ちで、ただ時を待つ稲豊。
それは何処か、覚悟を決めた者にしか辿り着けない境地なのかも知れない。
「あー、もしかして呼んだ?」
そんな呑気な声が耳介に到達した数秒後、稲豊は目を開け声の主に視線を向ける。
扉の前に猫背で立つのは、彼の期待した者に相違無い。
「メイドが来るかと思ったけど、お前で良かったよ。二度手間にならずに済んだ」
「んー? おれに用ってことー?」
首を傾げるタルタルは、稲豊の真意が分からない。
疑問符を頭上に掲げ、口を軽く開けたままで少年の次の言葉を待った。
「メイドさんから話は聞いてるだろ? 今日の昼食のメニュー」
「あー、まあねー。何したの君? いきなり心臓なんて初めてだよー」
「ちょっと挑発し過ぎちゃって」
「ははー。やるねぇー君。一目見たけどマリお嬢カンカンだったよ。ちょっと痛快だったねアレはー」
稲豊の軽口に、タルタルは珍しく笑みを見せる。
少年の最期を知っての情けか? 普段溜ってる鬱憤なのか? 稲豊には分からない。
「んでー、用ってなに? あまり時間の掛からないのが良いなぁ」
「ああ、大丈夫。そんなに手間取らせないと思うから」
そう告げた後、稲豊は憂いを帯びた表情を浮かべる。
そして、死刑囚が果てにする懇願のように、魂からの想いをタルタルに願った。
「俺はもうすぐ死ぬ。だからタルトと話がしたい。あの子は優しくて良い子なんだよ。最後に……声を掛けてあげたいんだ。きっと不安で泣いてる。だから! 頼む!! 一生の願いだ!!」
「あー、う~ん」
死せる者の最期の願い。
その顔は真剣そのものである。
懇願されたタルタルは、頭を斜めにし思考する。
もうすぐ食事の時間なので面倒事を避けたい彼であったが、鎖に繋がれた少年と少女を可哀相に思わなくもない。なにより、そのどちらも期間に差があるとは言え、同じ仲間として共に行動したのだ。タルタルは暫しの葛藤の後、やはりのんびりと首を縦に振った。
「良いよー。おれは鰐であって鬼じゃないから。それに夢見も悪そうだしねー。それでも君が行くんじゃなくて、チビに来てもらう事になるけど良い?」
「ああ、全然構わない。感謝するよ」
「じゃー、ちょっち待ってて」
のそのそと部屋から出て行くタルタル。
それを見届けた後で、稲豊はまたも目を閉じ、今度は呪文でも唱えるようにぶつぶつと何かを呟く。
そんな異様を見ていたのは、暖炉の上に置かれていた人形達だけであった。




