第48話 「マリアンヌ・アレスグア・ルヴィアース」
誤解無きように言っておくが、稲豊はこの女性と知り合いではない。
顔も記憶の中には無いし、稲豊が二層住民街に此処まで入り込んだのも初めての経験である。――――にも関わらず、女性の第一声は稲豊の名前。困惑の表情を浮かべる稲豊だが、その女性の困惑度合いに比べれば、遥かにマシな方だろう……。
「なんでなんでなんでぇ!! どうしてシモン君がここにぃ!!」
「ちちょちょーまー。説明させる気ぃ…………あああーりますぅ?」
顔を真っ赤にした女性に、首をガクガクと前後に揺さぶられるタルタル。
女性の動転具合は、とても会話が出来る状態ではない。しかし、稲豊はそれでも良かった。何故なら、彼女がタルタルを揺さぶる度に、胸の大きな二つの果実も揺さぶられ、非常に目の保養になるからだ。稲豊が心のカメラで、シャッターを切ろうとしたその瞬間。視界が何かに遮られる。
「うわっ! ――――何をなさるかタルトさん」
「ダメ…………ご主人様だから」
「ご主人様? あの人が?」
稲豊はタルトの小さな手の平に目隠しをされた状態で、少女メイドに女性の正体を聞き返す。
「うん…………もう少し待ってね」
「ああ、凄く残念だが了解した」
稲豊の腕に抱かれたタルトは、目を塞がれている彼の代わりに状況を確認する。
数分後に小さな目隠しが外された時、バスタオル一枚の女性は稲豊の前から消失していた。交代する様にその場に居たのは、赤いドレスの美しい女性。気品のある彼女は、はにかんだ表情で佇んでいる。
肩と胸を強調した真紅のドレスには、金色の鷹があしらわれ。
服装に疎い稲豊でも、それが上質な素材で作られている事が分かる。右手には赤とピンクを基調とした絢爛華麗な扇子を持ち、優雅な仕草で口元を隠す。――――先程までのあられもない姿とは違う、誠の屋敷の主人の姿が、そこにはあった。
「まー。かくかくしかじかな訳です。預かってもいいですかー? 一泊」
「そ、そういう事なら仕方あらへんなぁ! いやぁ。うん……え、ええよ! 一泊と言わず……もっと…………ぃ……も……」
モジモジと両人差し指を絡めながら、後ろに行くほど声が小さくなっていく女性。
とにもかくにも、稲豊の宿泊許可は出たと言う事だ。抱いていたタルトを床に下ろし、稲豊は自己紹介と共に頭を下げる。
「えーと、ご存知かどうか分かりませんが、ルートミリア・ビーザスト・クロウリー様の元で料理長をやっています。志門 稲豊です。よろしくお願いします!」
「う、うん! ウチは『マリアンヌ・アレスグア・ルヴィアース』。気軽にマリーって……呼んで……も……ぃ」
紅潮した顔色を更に赤くするマリアンヌ。やはり言葉の最後の方は聞き取りづらく、稲豊は当惑気味に首を捻る。そんな少年の疑問に答えたのは、両の目の他に、額に一つ目を持つ、二十歳くらいの女性メイドだった。
「ふふ。ご主人様わぁ――――イナホ様のファンなんですよ!」
「んなぁ!?」
少しの悪意を含んだ笑みを浮かべながら、主の秘密を暴露する三つ目のメイド。
密かな思いを当事者の前で暴かれ、八重歯を覗かせながら、素っ頓狂な声を漏らしたのはマリアンヌである。優雅な仕草は何処へやら……、林檎の様に赤くつつメイドをキッと睨む。
「あー? 何を今更。毎日ヒャク売り場ー。見に行ってるじゃないですかー」
「ぎゃああ!!?? や、やめてぇ!!!!」
「ぶっ!!」
空気を読まず発言したタルタルは、豪華扇子で思い切り横殴りされる。金属バットで鉄塊を全力で殴ったんじゃないか? と思うぐらいの轟音が響き、トラックにでも跳ね飛ばされたかの様に宙を舞った挙句、十メートル先の壁に激突するタルタル。目を回し頭部から大量出血する彼の姿から、その攻撃がいかに凄まじいモノなのか、誰の目にも明らかだ。
「あかん! またやってもうた! 治癒魔法頼むわ!」
「はいはい。元々傷があったので、丁度良いかも知れませんね~」
異常事態に戦慄を覚える稲豊だが、周囲の反応は至って平常運転。
マリアンヌは毛先を指で弄りながら命を下し、メイドは慣れた手つきでタルタルの治療にあたる。子供であるタルトですら、やれやれと首を振るだけに過ぎない。皆の態度は、このどつき漫才がいつもの光景である事を明確に物語る。怪我を負ったタルタルに対して、皆が関心を持たない理由が判明した一幕であった。
「た、たまにやねんで? 毎日やなんて、う……鬱陶しい事! してへんから!!」
「は、はあ……大丈夫です。別に気にしてません」
大慌てで訂正に入るマリアンヌだが、稲豊は言葉通り、別に気にしていない。
稲豊がパイロの手伝いをするのは、大体が週一回。故に、毎日でも影響は殆ど無いのである。これだけの美人に好意を寄せられているのだ。例え毎日でも、彼は嬉しくすら感じただろう。
「ほ、ほんま? ならええんやけど!! ――――――あ? …………ああっ!!??」
稲豊に詰め寄ったマリアンヌは、自身が自然と少年の手を握っていた事実に気付く。彼女は驚きのあまり、部屋の柱に身を隠してしまった。どう対応すれば良いのか難儀する稲豊だが、そんな彼に助け舟を出したのは、呆れ顔をする三つ目のメイドであった。
「…………ダメダメですねぇ。イナホ様とタルタル様は、先に湯浴みされた方がよろしいかと。お嬢様もお二人が上がる頃には、クールダウンされているかと存じますので」
「あー。そうしよう。是非そうしよう!」
話が進まない事を憂慮したメイドは、タルタルの治療を終えると同時に、男子二人に入浴を促した。二人がこの部屋に来た理由すら看破した彼女の機転に、タルタルは諸手を挙げて賛同する。しかし残念な事に、挙げた手は直ぐに下げられる事となった。
「タルタルはあかんで! シモン君と同じ湯に浸かるやなんて! うらやま……やない。とにかくあかん! あんたが入るんわ、タルトちゃんをどうにかしてからや」
「えっ? おれじゃないとダメなんですかー? やだなー」
「ウチが普段よりも早く入ってたとは言え、主の裸を見たんやから当然の罰や。仕事はちゃんとせなあかんで? あんたには給料多めに払ってるんやから」
「って事は。風呂入るの大分先になるじゃないですかー。やだなー」
主に子供を任され、タルタルは隠す気の無い負のオーラを漂わせる。しかし、主人の命に背く訳にはいかない。立場の弱いタルタルは、しぶしぶながらも命に従う。
「んじゃー。ちびっこ、こっちおいでー」
「ん……はい。イナホ……またね」
「おおよ! タルタルさんがいるから問題無いと思うけど、気を付けて帰るんだぞ? 雨も結構強くなってきたみたいだからさ」
稲豊が言うように、外には少なくない雨が降っている。窓を一目覗いたタルトは、「大丈夫」と稲豊に告げ、タルタルと共に廊下奥へと姿を消した。
「ほ、ほなシモン君。ウチの後で悪いんやけど、お風呂入ったってや? 晩御飯はご馳走を用意する分、時間も掛かるさかい、のんびり浸かって来るのがお奨めやで!」
「至れり尽くせり感謝します! それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂きますね」
「着替えも後でお持ちしますので、ごゆっくりどうぞ~!」
屋敷の主人とメイドに促され、稲豊は遠慮がちに浴場へと向かう。引き戸をくぐる稲豊を見届けた二人は、間髪を入れずにハイテンションな会話を行き交わした。
「良かったですね。お嬢様! いつも遠くから眺めるだけだったイナホ様が……。まさかお屋敷に来られるなんて! それも一泊の滞在!」
「ああ~もう…………! シモン君を直に見られへん! ウチ変やなかった?」
グッと右手を握るメイドとは対照的に、マリアンヌは両手で頬を軽く押さえ、不安気に眉を寄せる。そんな主を鼓舞するかの様に、メイドはその背中を力強く押した。
「今は大丈夫ですが、夜はしっかりしなきゃダメですよ? 千載一遇のチャンスなんですから!! 次は無いものと考えて下さい!!」
「せ、せやな! もうこんな機会はないかも知れへん。き、気張るわ!!」
引き戸の外で、そんなやり取りが繰り広げられているとは露知らず。
稲豊は脱衣所にて、服と共に緊張感を脱ぎ捨てた。




