第44話 「冷淡と温和」
再びの爆発音に、稲豊とターブの二人は、異常事態を確信する。
「――くそっ! 分かったぞ!! お前以外の人間の臭いがする! 敵襲だぞコレは!!」
先に行動を起こしたのは魔能により、敵の正体を察知したターブだ。
ターブは急いで回れ右し、この場を離れる為に、猪車の出発の準備に急遽取り掛かる。より色濃くなる、裂け目の道からの人間の臭い。今この場所にいるのは、自殺行為に他ならない。
「レフト…………何があったんだよ? クソッタレ!!」
「――――あっ!? おい!! 待てっ!!」
レフトの叫び声を聞いてしまった稲豊は、その不安を払拭するかのように全力で走り出す。
それはあろうことか、今まさに敵が迫る奥の方角。ターブはその後姿に静止の声を掛けたが、稲豊は止まる事なくひた走る。
「ちくしょう! オメェが死んだら俺様が!! クソがっ!!」
心底不本意極まりないが、ターブはやむを得ず稲豊の後を追う。
既にかなりの距離が開いているが、二人の速度の違いは一目瞭然。ターブはあっという間に追い付き、稲豊を巨大な腕で捕まえる――――はずだったのだが。
「あんだってんだ! この俺様が追いつけねぇだと!?」
以前非人街にて後を追った時、難なく稲豊の前に回り込めたはずの自分。なのに、今回は距離が縮まる気配がしない。そんな疑問に惑わされつつ疾走していたターブだが、少年の両足を漂う魔素に目が止まり、その異常現象の答えに辿り着く。
「あの野郎!! 速度強化魔法を使ってやがる!!」
今まで一度も成功した事のない、速度の強化魔法。
本人の自覚も無いまま発動されたソレは、走る稲豊の速度を飛躍的に上昇させた。しかし、器の小さい稲豊の生門。効果は程なく切れ、脱力感と共に、稲豊は地面に伏せてしまう。
「んだよ…………足が動かねぇ!」
憎々しげに、自らの足を睨む稲豊の元にターブが追い付く。
ターブは稲豊の腕を掴み、立ち上がらせると、今来た道を引き返そうと振り返る。しかし、その行動に稲豊が納得する訳もなく。
「おいっ! やめろよ!! 俺はレフトの所に!」
「馬鹿かオメェは!! テメェ一人増えた所で何も出来ないだろうが! そういうのは、強者が口に出来る言葉だ! 弱者はタダ逃げてりゃ良いんだよ!」
「クソっ! 離せよ!! 出来る出来ないじゃねぇんだよ!! やらなきゃダメな時もあるんだよ!! 俺は後悔したくねぇんだ!!」
聞き分けなく抵抗する稲豊に、手を焼いたターブは、最後の手段に打って出る。
オークは稲豊の胴に右手を回し、巨大な自身の脇に挟み込む。ジタバタと暴れる少年だが、この体勢になってしまえばどうする事も出来はしない。
「降ろせよ! 頼むから!!」
「フン! 今の俺様は護衛だ。テメェの命を守るのが最優先だ。護衛対象の頼みでも聞くことは出来ねぇな」
稲豊を右脇に抱え込み、元来た道を駆け戻るターブ。
「クソっ!!」
憤然とする稲豊は、悔やみきれない表情で、理不尽な怨嗟の念をオークに送った。
――――その瞬間。
念を送った対象のバランスがぐらりと崩れ。驚愕の表情と共に、前のめりに地面に倒れ込んだ。
「いてっ!」
ターブが激しく倒れた衝撃に、その腋に控える稲豊も運命を共にする。強か地面に打ち付けられる稲豊の体。擦り剥いた横腹を押さえながら、体を起こした稲豊の視界に信じられない物が映り込む。
「お、おい!? 大丈夫か!!」
稲豊が声を張り上げたのは、ターブの背中から伸びた赤い花を見たからだ。
直ぐにそれが異様な形状の矢だと気付くのだが、それは必然、二人が敵の射程圏内にいる事を示している。
「ぐぉ……くそ……テメェだけでも…………さっさと逃げやがれ」
「んな事出来るか! 一体何だってんだ!!」
稲豊の頭の中は混沌を極める。
遠くのレフトの危機も、眼前の自分達の危機にもどうする事も出来ず、ただ佇む事しか思い浮かんでは来ない。その体を動かしたのは、歯痒さで唇を噛む稲豊の背後に迫る、二つの足音であった。
気配も無く近付く二つの足音は、稲豊の数メートル後ろで止まり、この場には似つかわしくない、軽快な声色で言葉を発した。
「あら? まだ生きてますわね。やはり大きな魔物は、頭部を狙わなくてはいけませんのね……」
「一撃必殺こそ至高にござる」
想像とは違った幼い声に、稲豊は目を見開きながら振り返る。
そこに居たのは、およそこの場には相応しく無い、二人の可憐な少女であった。
「だが、やはりエルの腕は抜群でござるな。命奪うまでは至らずとも、動きは確かに奪った模様」
そう話すのは、黒い忍装束を着た少女である。
亜麻色の髪を後ろで束ねた、ゴールデンポイントのポニーテール。背は稲豊よりも二十センチは低く、一見年端もいかない年齢に見えなくも無いが、その冷淡な鼠色の双眸は、とても見た目通りの歳の子供が生み出せるモノではない。
「あらお上手。ふふ……褒めても手柄は譲りませんわよ?」
そう上品に零すのは、純白のローブから両肩を出した、おっとり系の端麗な少女だ。
透き通る様なアイスグリーンの長髪に、瞳孔すら覗かせない細目。その右目隣の泣きぼくろが特徴的。背は稲豊と同じぐらいで、恐らく年齢もそう変わらないだろう。
だが、何より彼女で気に掛かるのは、細身の背中に背負った、少女の身の丈程もある長弓と、異様な矢を蓄えた矢筒である。オークの背中より生える矢は、矢筒の中身に他ならない。
「――――まさか!」
稲豊がそう漏らしたのは、ある事実に気付いたからである。
二人の少女に共通するのは、身を纏う只ならぬ覇気と、何処にも見えない魔物の証。
つまりはそう――――『人間である』と言う事だ。
長い起動時間の後で、ようやく働き出す稲豊の脳みそ。
人が魔物を襲う……、そんな事態がこの世界で起きたなら、その大半は“奴等”の仕業である。二人の少女の正体に辿り着いた稲豊は、魔物達がそうする様に身構える。
「では……失礼しますわね?」
エルと呼ばれた少女が、稲豊の傍まで歩み寄り、緩慢な動作で右手を伸ばす。
そこから迸る虚無魔法を連想し、稲豊はギュッと目を閉じ、死をも覚悟した。
そんな覚悟まで決めた稲豊だったが、いつまで待ってもその時は訪れない。それどころか、横腹に感じるのは、何処か懐かしい温かさ。恐る恐る目を開いた稲豊だが。目の前の光景に愕然とする事となる。
「大丈夫かしら? 他にお怪我は御座いませんか?」
慈愛の籠もった微笑みを浮かべ、美しい声で話す少女が優しく触れているのは、稲豊が先程擦り剥いた右横腹。
数秒後に少女が手を離すと、傷は初めから存在しなかったのではないか? と、疑ってしまうぐらいに、綺麗さっぱり消滅していた。
「………………はぁ……?」
稲豊が気の抜けた言葉を漏らすと、微笑を浮かべた少女は稲豊の右手を取り、すっくと立ち上がらせる。またしても混乱の波に飲まれる稲豊だが、少女達の次の言葉で、自分の立場の把握に至った。
「危ないところでしたわね? 人間を拐うなんて。魔物は本当に野蛮ですわ」
「感謝するでござるよ。エルが誘拐途中のお前を見つけ、助け出したのでござる」
――――そう。少女達は、稲豊をただ魔物に誘拐された、哀れな人間だと考えていたのだ。
しかし、それは当然とも言える。
稲豊が人間である事は純然たる事実であったし。ターブに抱えられていた姿は、普通の人間が見れば誘拐にしか見えないだろう。
状況を把握した稲豊は、卑怯な脳をフル回転させ、その誤解を利用する事を思い付く。
長髪の少女の治癒魔法は大したモノだ。少しの綱渡りになるが、稲豊は迷わずその手を打った。
「あ、いえ。それは誤解です! 実はですね、この魔物は俺のペットみたいな奴で。今も他の魔物達から、俺を引き離してくれてたんですよ。運び方で少し勘違いさせちゃったみたいで……」
苦しい言い訳だが。
その言葉を聞いた後の、少女達の狼狽振りは、稲豊の想像を絶するものであった。
「――――え? ええ~!? ど、どうしましょう!! 私ったらなんて事を!!」
「まままマズイでござる! この事が団長に知られたら…………。い、いやいや。まずは落ち着いて――――この者の口封じを!」
「シグ!? それは人としてダメですわ! ああでも……困りました!」
両手で頬を押さえ困り顔を披露する長髪の少女と、物騒な視線を稲豊に送る忍者少女。
少女達のあまりの取り乱し具合に、少しの罪悪感を稲豊は覚える。しかしその反面、嘘がすんなり受け入れられた事に、心の中でほくそ笑んだ。
稲豊は揉み手をしつつ「いやいや」と前置きし、自らの都合の良い展開に誘導する。
「取り敢えず治療さえして頂いたら、誰にも言うつもりはありませんので」
「本当でござるな? ――――――エル」
「わかりましたわ! そう言えば、まだ息はありましたわね。では早速!」
稲豊の“シメシメ”といった表情にも気が付かず。長髪の少女は、息も絶え絶えのターブの傍で腰を屈め、「えい!」という掛け声と共に、異様な矢を勢い良く引き抜く。そして、彼女が魔素の宿った右手を矢傷に当てると……、見る見る内に穴は塞がり、やはり傷など無かった様な肌へと戻る。その間、僅か数秒。もしかしたら、稲豊が今まで見て来たどの者よりも、治癒魔法が達者かも知れない。
「私とした事が、取り乱してしまいましたわ。それも見なかったコトになりませんか? なんて言っちゃったりして」
舌を巻く稲豊を余所に、治癒魔法を終えた少女は、少し頬を染めつつ照れ隠しの言葉を述べる。そのお茶目な姿は、何処にでもいる女の子の仕草に相違ない。息が落ち着きつつあるターブの姿も相まって、いくらか安堵した稲豊は、感謝の気持ちを言葉に変えて、少女に伝えた。
「ありがとうございました。俺はペットが動ける様になったらココを離れますんで。貴女様方は俺に構わず――――」
可憐な少女達と言っても、稲豊は今更エデン側に味方するつもりは毛頭ない。
稲豊は、それだけ今の生活に満足しているのだ。異世界に来てからの二ヶ月間は長すぎて、優しい魔物達との親交を深め過ぎてしまったのである。あの屋敷の者達を裏切る行為など、今の彼が取れる筈も無かった。
「ダメですわ!」
しかしそんな稲豊の提案は、一瞬の内に却下される。
昂っているにも関わらず、相変わらず糸目のままな少女は、その細く美しい右手で、稲豊の腕を握って抗議する。そんな彼女の行動を説明するのは、背の小さな少女だ。
「魔物のペットは楽園に持ち込めぬ。アリスの谷で別れるでござるよ」
「残念ですが仕方ありませんの。さぁ、私達と参りましょう?」
白魚の様な指で掴まれた稲豊は、強く振り解く訳にもいかず、ドギマギしながら次の手を思考する。
二人の少女と別れる手段を思案する少年の元に。
――――――“蛇”は突然やって来た
「離れろ魔物野郎ォォ!!!!」
空高く飛来する紅蓮の蛇が、炎の如く烈々たる咆哮を上げ、銀色の舌を稲豊へ向けて伸ばして来たのだ。
舌は真っ直ぐ稲豊の胸目掛けて中空を走り、衣類を貫通した後、肉を裂く。
血管より噴き出す生暖かい血飛沫を、旨そうに絡め取る蛇の舌。
稲豊はそれを――――ただ見ている事しか出来ないでいた。




