第35話 「俺の馬鹿野郎!!」
「ほれ、お前も飲め」
「じゃ、じゃあ遠慮無く……」
どこからともなく小さな瓶を取り出したルトは、稲豊に渡した盃をヒャクの果汁でなみなみと満たす。盃もかなりの小ささ故、何処から口をつけても、その殆どが間接キスとなってしまう。その事実にしばらく硬直していた稲豊であったが、やがて覚悟を決め、それを力一杯に飲み干した。
「うむ。良い飲みっぷりじゃの」
「お、美味しいです」
緊張から味など全く分からなかったが、この幸せな気分が不味い物から来る訳がない。そんな無茶苦茶な理論を展開し、美味いと答える稲豊。そんな少年の事を、見透かす様な緋色の瞳でルトは眺める。そして一呼吸後に視線を月に戻し、稲豊に労いの言葉を贈った。
「――約二ヶ月、お前は良くやっている。ふふ……想像以上じゃ。人嫌いのナナの心を、人間が開くとは思ってもいなかった」
「心を開くなんて、そんな大袈裟なものじゃ――」
「謙遜するでない。本来それは屋敷の主である妾の務め、じゃが少し忙しくての……後回しにしてしまった事は妾の落ち度に相違ない」
まるで落月したかのように、少女の視線は下へと沈む。
その表情は、痛みでも感じているかの如く歪んでいる。主として悔やみ切れないルトであったが、解決の糸口を見つけられなかったのも事実。屋敷に来て数日でその問題を解決した稲豊の事を、ルトは内心で物凄く驚いていた。
「しかし今では何となく理解出来るの。お前といると……。なんだか落ち着く」
「うおっ!?」
「立ってばかりで少し疲れた。借りるぞ」
稲豊が声を上げたのは、その左肩に少女の軽い体重が預けられたからである。更に接触する二人の腕同士を絡ませたルトは、体重を預けたままで会話を続ける。
「ヒャクを見つけた褒美は与えたが、ナナの方の褒美は与えて無かったのぅ。妾は今気分が良い、なんでも申せ」
「マジっすか!! な、なんでも!?」
「うむ。なんでも――――じゃ」
物凄く良い匂いを放つ少女の、耳元で囁かれる甘い言葉。
扇情的な仕草やその艶めかしい視線に、あらゆる想像と妄想が稲豊の脳内を支配する。その中では邪な願いもかなりの範囲を占めていたが、この状況で思春期の少年を責めるのは酷であるというものだ。稲豊は気合で何とか肺を動かし、喉から声を絞り出す。
「じゃ……じゃあ! ルト様の……」
「妾の――――なんじゃ?」
悩みに悩みぬいた末に彼が願った褒美――――――それは。
「コトが…………良く知りたいです」
「ほう? そんな事で良いのか?」
最後の最後で一歩踏み出せなかった稲豊は、『後悔』の二文字に苛まされていた。しかし、そんな彼の願いはルトにとって好印象だったようで、彼女はより上機嫌となり、預ける体重の量を更に増やす。頬を上気させた少女は、稲豊の耳元に口を寄せて改めて告げた。
「何が聞きたい? 今なら何でも教えてやるぞ?」
「で……では! ルト様って……」
「妾は――――なんじゃ?」
既視感を覚える稲豊だったが、その脳内では様々な問いが駆け巡る。その中は邪なものが大半と化していたが、思春期の少年ならそれも仕方がないだろう。稲豊はグッと拳を握り、その先を言葉にして伝える。
「ルト様って…………お父上好きなんですよね? その物語なんか一つ……教えて欲しいな……なんて」
「なんじゃそんな事か? そうじゃのう……父上は素晴らしい魔王じゃったな。優しくて強くて、気紛れじゃがやる時はちゃんとして――――」
最早自分自身を信じられなくなり放心状態となった稲豊は、物語とは呼ぶ事の出来ないルトの父自慢に、ツッコミを入れる事さえ出来ない。預けていた体を離し、より相手に伝わる様に、稲豊の正面からルトは話を続ける。
「父上は様々な魔能を持っていてな? ――と、シモン? 聞いておるのか?」
「ええ……もちろんです」
「うむ。それでな――――――――」
小さな唇は止めど無く開閉し、途中で同意を求められる度に稲豊は相槌を打つ。
ルトがここまで饒舌な姿を、彼は初めて見る。その美しい旋律の様な声と天使の様な笑顔に、「これは確かに褒美だな」と稲豊は思わざるを得ない。長い話もいつかは終わる。一頻り父の自慢話をしたルトは、喉が渇いたのか盃を呷り、平静さを取り戻す。
「こんなに誰かと会話したのは初めてかも知れんのぅ」
少し照れながらそう零す少女は、歳相応に見える。
その表情を見られないように、再度月に視線を戻すルト。稲豊はそんな珍しい主に名残惜しさを残しつつも、遅くなった時間の事を考え、ルトに別れの言葉を告げる。
「それじゃあルト様、まだ仕事も残ってるので戻ります。夜行性なのは知ってますけど、最近寒くなったので早く寝て下さいね?」
「分かっておるよ」
月から視線を戻さず答えるルトに、稲豊は彼女から見える筈のないお辞儀をした後、くるりと反転して歩き出す。…………その途中。
「シモン…………二人の将来について大切な話がしたい。近い内にまた声を掛ける。楽しみに待っておれ」
そんな言葉が背中に投げ掛けられ、「はい!」と短く答えた稲豊は、赤面した顔を見られないように小走りでその場を後にする。
『二人の将来について大切な話がしたい』
その言葉が稲豊の脳内で何度も再生される。
それは彼が料理長としての仕事を終わらせ、風呂に入り、部屋に戻った後でも延々とリピートされ続けた。ベッドの中で悶々としながら、色々な妄想を巡らせている内に、稲豊の眠れぬ夜は更けていく……。
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――――二度のノックの音。
「んん?」
悶々として眠れぬ夜を過ごす稲豊の私室、そのドアをノックする音に彼は体を起こす。魔光石のランプに光を灯し、壁の時計を見てみれば……時刻は深夜一時を示している。
「こんな時刻に誰が――――はっ!?」
『二人の将来について大切な話がしたい。近い内にまた声を掛ける』
またもルトの言葉が蘇り、「そういう事なのか?」と、意図しない声が稲豊の口より漏れる。近い内が今夜だとは思わなかった……、そんな興奮と戦いながら、稲豊は出来る限りの落ち着いた声を意識し、もう一度なったノックに応える。
「だ、誰ですか?」
「眠れなくて――」
高い声。
しかし声が小さすぎて、誰だか判別出来ない。稲豊はより声を近くで聞くために、扉の直ぐ側まで近寄り、再度向こう側へ声を送る。
「な……何か用ですか?」
「一緒に――ベッドで――――」
それでも声は途切れ途切れにしか聞こえない。
このままでは埒が明かないと、早鐘の様になる胸の部分を手で押さえながら、稲豊は三度深呼吸した後で意を決し扉を開いた。
そこに立っていたのは…………。




