第33話 「絵画(日本円で数千万)」
屋敷に到着し、木箱と皿を厨房へと運ぶミアキスと別れた後、いつもそうする様に稲豊はマルーを厩舎へと戻す。そこで彼は初めて見る光景を目の当たりにする。普段マルーが鎮座する場所の隣の房に、見た事も無い猪の姿があったのだ。
マルーよりも一回り小さいが、宝石のついた頭飾りや体の装具から身分の高さを窺わせる。貴族級の専属猪車であると容易に想像できる豪華さだ。広い猪舎の隅には、その人物が乗って来たであろうキャリッジが佇んでいる。この光景が意味する事はただ一つ……。
「来客とは珍しいな」
稲豊がそう漏らしたのも無理はない。
彼が料理長として屋敷に住みだしてからの二ヶ月間。ただ一人として来客など無かったのだから。
行儀良く待機している猪を横目に、稲豊は手際よくマルーをいつもの場所へと戻す。そして少しの緊張感と共に、屋敷の玄関扉を潜った。
「お帰りなさいませイナホ様!」
扉の先の吹き抜けホールでは、少女メイドがその可憐な服を両手で摘み上げ、敬々しく頭を下げて稲豊を迎える。稲豊はそれに「ただいま」と応え、下がったままの頭を優しく撫でる。大袈裟な迎えの挨拶も、それが少女の狙いである事を理解している稲豊だったが、敢えて騙される事としている。
普段なら頭を撫で終えればナナは仕事に戻るのだが、今日はいつもと様子が違い、撫で終えた今でもその場に留まっている。不思議に思う稲豊が尋ねる前に、少女の方から答えは明かされた。
「イナホ様にお客様がいらしてます!」
「俺?」
首を捻る稲豊だが、今日のパイロの言葉を思い出し、心当たりに考えが至る。
その考えを確かめるように、相手の容姿について、稲豊は傾いたままでナナに尋ねる。
「もしかして兵士っぽい格好してる人?」
「いえ! どちらかと言うと……学者さんっぽい人です」
ナナのその言葉に、稲豊は更に首の傾斜をきつくする。
百聞は一見に如かず、ここはひとつその者に会う方針を取る稲豊。ナナに案内されるがままに、客間の扉前に移動する二人。
「イナホ様を連れて参りました」
二度のノックの後、木製扉の向こうへ少女は返事を求める。客間から聞こえる主人の「通せ」の言葉と同時に、ナナは扉から離れ、また稲豊に頭を下げた。ここから先に進めるのは稲豊だけ。それを理解している彼は、少女を横目に見慣れぬ客間へと足を踏み入れる。
「おお! あなた様がイナホ様ですね!?」
客間へ入り、数瞬もしない内にそんな言葉が稲豊に投げ掛けられる。
客人用椅子からすっくと立ち上がり、ガラステーブルの片側をなぞる様に、見知らぬ男が喜色満面で稲豊に近付き。面を喰らう稲豊相手に、全身緑の装いの青年は自己紹介を勝手に始める。
「お初にお目に掛かります! 小官は『レフト・ローレイ』と申します。“魔王国”の大臣補佐を務めさせて頂いている者です」
「ど、どうも。料理長の志門 稲豊です」
仰々しく名乗る男は、自分をこの魔王国の文官であると語った。
整った顔立ちの青年で、ローブから覗く腕は華奢。玉葱の様な帽子を被り、安物でない緑のローブに身を包んでいる。そしてそれに刻まれた魔王国を示す竜の紋様が、彼の言葉の信憑性を高めていた。極めつけは、高価な長椅子に腰掛けるルトが否定をしていない。稲豊は警戒を解き、レフトと握手を交わした。
「さすがは第一王女たるお方! 目の付け所が違います。イナホ様は人間の身でありながら――いえ! 人間だからこそなのでしょうか? 新しき食材を見つけるその眼力!! 料理人の鑑と呼ばずに何と呼べましょうか!?」
舞台演劇の様な大袈裟な身振り手振りで、レフト・ローレイは稲豊への賛辞の言葉を綴る。その激しい動きにより落ちた帽子にも気が付かず、彼の喉は淀みなく言葉を送り出していく。しかし、稲豊が興味を引いたのは称賛の言葉ではなく、彼の茶の長髪と長く尖った耳だった。その姿は稲豊の知る所の“エルフ”と相違ない。
その視線に気付いた彼は「失敬」と照れながら帽子を拾う。
ようやく止まったその言葉にどこか安堵を覚える稲豊。アドバーンやナナによって最近慣れてきた、“褒められる”という行為も、ここまで続けられると逆に疑いたくなるものである。
「シモン。その者は貴様に用があるらしい」
「ええ! 全くその通り。市場での噂をこの長い耳で聞き付けて、馳せ参じました!!」
ルトの言葉でようやく話が歩みを見せる。レフトは大きく良く通る声で、屋敷へ赴いた経緯を語った。
「とあるドンヨリとした曇りの日。小官は王城の図書室にて、嗜みである読書に耽っておりました。そんな折、コツコツと扉を叩く至上の音楽。逸る気持ちを抑える事を楽しみながら、小官はノブを回し重厚な扉を開いた訳です。するとなんと! そこに立ち居でたるは我が――」
「風魔法」
「グヘップ!?」
レフトの一人舞台は、ルトの魔法によって閉演となる。
風魔法によって吹き飛んだ彼の体は客間の絵画に激突し、その絵と共に赤い絨毯に沈む。普段無詠唱のルトが魔法名を口にするのはとても珍しく、それだけ苛ついているのが稲豊には伝わった。悶絶する客人を緋色の目で見下ろしながら、ルトは冷たく言い放つ。
「話が長い。要点だけ申せ」
「つ、詰まる所……新食材を見つけるという……任務を大臣に申し付けられまして。つきましては……ヒャクの栽培方法等、詳しいお話をお聞かせ願いたく……」
「なんじゃ。出来るではないか」
大臣補佐レフト・ローレイの話を掻い摘むんで説明すると、兵士に持たせる携帯食の開発を任せられている彼は、行き詰まっている最中に巷で噂のヒャクの情報を入手する。試しにとそれを口にした時、その可能性を強く感じた彼は、直ぐ様兵士に命じて発見者を探させた。兵士がヒャクを売る店主に交渉を持ち掛けたものの、詳しい話は発見者に聞けとの一点張り。「ならば!!」と、その発見者の元に足を運び、現在に至るとの事だ。
「まさか第一王女であらせられる、ルートミリア様の屋敷の者だとは思いませんでしたが……コレも運命! イナホ様。相応の謝礼は用意させて頂きます。小官の願いを何卒、なにとぞ!!」
腰も折れよとばかりに頭を下げる緑の青年。
常に大袈裟な動きをする彼だが、その熱意は稲豊の心を動かした。志門 稲豊はレフトの左肩にぽんと掌を乗せ、出来うる限りの優しい声で話し掛ける。
「頭を上げて下さいレフトさん。そんな事をしなくても、俺の答えは決まっています」
「イナホ様! そ、それでは!?」
ニコリと微笑む稲豊の言葉に、顔をパァと明るくさせたレフトが面を上げる。
その瞳には涙さえ浮かんでいた。そんな男の肩に右手を置いたまま、稲豊は彼の懇願に返事を告げる。
「無理です」




