第340話 「笑う門には福来る」
「お…………くだ………………イナ…………ま……!」
どこか遠くから、誰かの声が聞こえる。
しかし稲豊の視界は、まだ暗闇の中にあった。
優しく、穏やかな漆黒の世界。
そんな常闇の国の遥か向こうから、誰かが稲豊の名を呼んでいる。
「もう少し……だけ…………」
暗闇に身を委ねていたい。
その闇の中だけは、時間が進むことはない。
「イ…………さ……! あ…………です…………!!」
また誰かの声が聞こえる。
次に強い力で、体が揺り動かされた。
少しずつ、意識が覚醒していく。
そして――――――
「イナホ様!!!!」
大きな声が、稲豊の頭の中で炸裂した。
「うおっ!? な、なんだなんだ!?」
声に驚き常闇の世界を抜け出した稲豊は、目を開くのと同時に、体に伸し掛かる重力を自覚する。重たくはあるが、柔らかい感触。
稲豊の眼前に、少女の顔があった。
愛嬌のある、整った顔立ちをしている。
少女は怒ったような表情を浮かべているが、すぐにくしゃくしゃの涙顔へと変わった。
「うわ~~~ん!! イナホ様~~!!!!」
「ナ、ナナ? どうして泣いて……って、あれ? ここは……俺の部屋?」
ようやく稲豊は、ここが魔王城内の自分の部屋であることを理解した。己の胸で泣きじゃくるナナを横目に、稲豊は昨日の出来事を思い出す。
「そうか、帰ってきたんだ。あの奪還作戦のあとでモンペルガに帰ってきたときは深夜で、帰るなりベッドで眠ったんだっけ……」
「ひどいですよイナホ様!! 帰ってきたなら、ナナにお声をかけてくださっても良かったじゃないですか!」
泣いていたかと思うと、今度は涙目になって怒る。
そんなナナの姿を見ていると『帰ってきた』という実感が、一瞬にして稲豊の中を駆け巡った。
「ナナ~~!! 会いたかったぞ~~!!!!」
「ひゃわあ!?」
稲豊はナナを抱きしめ、力の限り頬ずりした。
するとナナは顔を真っ赤にしながら、両手をバタバタと大きく振る。
そして頭からボンと湯気を立ち昇らせたのち、ナナは物干し竿に干されたシーツのように、へなへなのペラペラになった。
「おおっと、悪い悪い! つい」
「つ、ついひゃありまへんよ……。どうしへくれるんひぇふか…………」
「空気を入れてやるから、ちょっと待ってろ」
少女の頭を撫でると、少しずつ膨らみが増してくる。
やがて元のサイズに戻ったナナは、落ち着いた様子でホッと息を漏らした。
「イナホ様、ご無事で良かったです。イナホ様が無事に戻って来られると、ナナは信じておりました」
ナナはそう言いながら、恭しく頭を下げる。
その姿を見た稲豊は、わずかだが違和感を覚えた。
「待っててくれて、ありがとな。でも待たせ過ぎて、ナナが少しお姉さんになった気がするよ」
「イナホ様の方こそ! 明らかにその…………」
「ああ………そういえば俺って、一気に成長したんだっけか。大人になったの、まだ実感が湧かないんだよなぁ。もしかして、オッサンになったなぁ……とか幻滅してる?」
「まさかそんな!! ナナはその……たくましくなったなぁって、その…………」
ナナは頬だけでなく、耳まで赤く染めている。
稲豊はもう一度「ありがとう」と伝えると、ぴょんとベッドから飛び降りた。
そして窓から差し込む朝日の前で、大きく伸びをする。
「う~~~~~ん!! やっぱり現実って素晴らしいな! 平和サイコー!!」
そんなことを口にしたあとで、ふと皆のことが気になった。
「いまって、俺が帰ってきた翌朝だよな? ルト様たちは……」
「ご主人様も、お部屋でお休みになられてますよ。アリステラ様やクリステラ様、マリー様やウルサ様もご自分のお屋敷に戻られたはずです」
「そ、そうか……なら安心だな。じゃあソフィアや、ミアキスさん。タルタルたちのことは? なんか聞いてないか?」
敵の追撃に備え、エデン領内に残った者たち。
彼らの安否は不明のままだ。
「いいえ、ナナはまだなにも……」
「そっか、そうだよな……。俺が帰ってきたばっかりだし、まだ分かんないよな」
追撃があるような雰囲気はなかったが、それでも一抹の不安はよぎる。そんな稲豊の心情を察したのか、ナナが眩しい笑顔を覗かせた。
「大丈夫ですよイナホ様! 皆さんならきっと、ううん……ゼッタイに大丈夫ですから!」
その笑顔で、稲豊の記憶がフラッシュバックする。
『いや。だが……信じておる』
『信じる?』
『うむ。この数ヶ月、皆ただ安穏と暮らしておったわけではない。それぞれが辛酸を嘗めながら、それでも此度の作戦に参加を希望した猛者たちじゃ。心配など必要ない』
ルートミリアも、皆の無事を確信していた。
ならば彼女を好きな自分も、それに倣う必要があるのかもしれない。
稲豊は胸の不安が消えていくのを感じ、ナナと同じように笑顔を見せた。
「笑う門には福来る。果報は寝て待て。信じる者は救われる。よっしゃ! やっぱポジティブな方が、良い結果に繋がりやすいよな?」
「ぽじ………? えっと、なんですかそれ? 新しい食べ物ですか?」
「おっと、そうか。俺の中の魔王は、もういないんだっけ………」
いままで同時通訳を担っていた、魔王サタンはもういない。
複雑な思いが、稲豊の胸に込みあがる。
だが、となりで不安そうな表情を浮かべるナナに、情けない顔は見せられない。
「前向きが一番って意味だよ。こうしてナナと会話ができてるだけでも、俺は幸せ者だからな!」
「そ、そういう意味なら、ナナもイナホ様と話せて幸せ者ですね!」
ふたりで笑い合う稲豊とナナ。
しかしすぐに、ふたりは笑うのを止める。
聞き覚えのある“音”が、耳に届いたからだ。
「あれ? この音って………?」
ふたりは視線を交差させたあとで、部屋の窓の方へ駆け寄る。
その音は、窓の外から聞こえてきたようだった。
稲豊が両開きの窓を開き、ふたりで同時に窓の外へ顔を出す。
「あ⁉」
そして一緒に声をあげた。
窓から見えるのは、大小様々な魔物兵の列。
ふたりが聞いたのは、彼らの足音だった。
「帰ってきた! はは、やっぱり無事だったんだ!」
兵士たちは疲れた顔をしているものの、悲壮感は漂ってはいなかった。
重傷者や遺体なども、搬送されている様子はない。
「あ、ほら! イナホ様、見てください!!」
「おお! ミアキスさん!」
ナナの指差す先には、馬に乗ったミアキスの姿があった。
遠目には、怪我を負っているようには見えない。
「イナホ様!!」
ナナが歓喜の声をあげ、稲豊はその顔を見ながら大きく頷く。
「ああ、行こう!」
ふたりは自然に手を繋ぐと、そのまま部屋を飛び出していくのだった。




