第334話 「束の間の安堵」
「――――――と、まあ……エデンでは色々あったわけで……」
稲豊は疾走する猪車の中で、これまでの経緯を包み隠さず皆に話した。
「そうか、なにはともあれ……間に合ってよかったのじゃ」
「なんやもうちょっとでハニーが消えてたらと思うと、いまでもぞっとするわ」
「本当に、帰ってこれて良かったよ」
安堵の息を漏らす稲豊だったが、王女姉妹たちの表情には複雑な心境が見え隠れしている。それもそのはず、皆の心の支えとなっていた魔王サタンは、もうどこにも存在していないのだ。魂も残さず、消滅してしまった。
「いまは……魔王国に帰ることだけを考えよう。いつ敵に追いつかれるかも分からないからな。イナホ、さっきの“アモン化”は、再び可能なのか?」
ソフィアが稲豊の腰に下げられた仮面を見ながら訊ねる。
「どうだろうな? 奴の精神力が弱まっている、いまだからできたってのもあるからなぁ。正直、もう二度とやりたくはないかな」
「…………そうじゃな。巨大な力とはいえ、あまりにリスクが大きすぎる。アモンの力は宛にせん方がよいじゃろう」
「利用できたら、心強かったんだがな」
残念そうに言うソフィアだが、顔を見れば本気でないことはわかる。
稲豊は苦笑しつつ、猪車の進む方向を見た。
「お?」
すると遥か前方に、なにか建物のような物がいくつも並んでいるのが見えた。
「あれは…………」
「ようやく見えたねぇ」
ほっと息を吐き、へなへなと座り込むウルサ。
弛緩した空気が、猪車内に充満する。
「安心してええよハニー。あれはウチらの“陣”やから」
「陣?」
近づいてくると、天幕がいくつも設置されているのがわかる。
そして四方八方に散らばった魔物兵の姿も見えてきた。
向こうも天井の消えた猪車の存在に気付いたようで、遠目にもわらわらと一箇所に集まってくる。最初は警戒の色を浮かべていた兵士たちも、荷台を引いているのが巨猪であることを知り、戦闘の体制を解いていく。
「どうどう」
陣の中へ案内されたアドバーンが、マルーを止める。
すると何体もの魔物が、近寄ってきた。
「ご無事ですか?」
そのなかの一体が、誰にともなく訊ねる。
「うむ、大事ない。すべては予定通りに進んでおる」
ルートミリアが答えると、魔物兵たちの歓声が上がった。ソフィアが猪車を降り、他の王女たちもその後ろに続く。その度に、兵士たちが沸いた。
「ここまでくれば、もう大丈夫そうだな」
最後に稲豊が猪車を降りようと立ち上がる。
「………………って、俺の時だけ歓声は無しか。まあ、仕方ないけど」
稲豊は苦笑しつつ、猪車を降りた。
そして周囲に目を向け――――――
「へ?」
呆然とする。
なぜなら周りにいるすべての兵士たちが、跪き頭を垂れていたからだ。
「え? え?」
混乱する稲豊の前で、跪いていた魔物の一体が立ち上がり、口を開いた。
「おかえりなさいませ。イナホ様……いえ、魔王様」
「あれ? お前ライトじゃないか! なんか久しぶりだなぁ!」
稲豊に話しかけてきたのは、レフトの弟。
眼鏡と褐色の肌が特徴的な、ダークエルフのライトだった。
「って、魔王様? もしかして…………バレてる?」
ルートミリアらの方へ顔を向けると、皆が一様に首を縦に振った。
「お前を救出する為に必要だったのでな。許せシモン」
「は、はぁ……そういうことなら別に構いませんけど……。なんというかその、こういうの慣れてなくて」
再び苦笑する稲豊のところへ、ふたつの足音が近づいてきた。
「ふん、僕は頭を下げるつもりはないけどな」
「オレ様もな」
「あ! お前ら!?」
声をあげた稲豊の前で、ひとりの人間と魔物が足を止める。
それはかつて、稲豊と火花を散らしたふたり。
「ネロに…………デーブ! デーブじゃないかッ!!」
「誰がデブだ! “ターブ”だターブ!!」
オークの大きな鼻息を浴びながら、稲豊は「冗談冗談」と両手をあげる。
そのときには、周囲の兵士たちも面をあげていた。
「なんでお前たちがこんなところに?」
「この大所帯の兵士たちの兵糧の管理と調理を担当しているのさ。僕ほど優秀なら、当然の栄誉だ」
「オレ様は兵糧庫の門番だよ。ったく、テメェのせいで面倒くせぇ役目を――――――うっ」
ため息混じりに愚痴をこぼそうとしたターブだったが、王女姉妹たちの無言の圧力を感じ、静かに後ろへ下がった。
「その生意気な態度もなんだか懐かしいなぁ。タルタルの奴はどうしてるんだ?」
「ああ、あいつなら陽動に出ているはずさ。僕たちはここで、陽動隊が戻ってくるのを待機中って訳だ」
「そうか、タルタルの奴なら無茶はしないだろうしな。なにはともあれ、皆が無事でよかったよ」
「まあ、それは別にいいんだが…………………………」
ネロはそこで言葉を区切ると、懐疑的な視線を周囲へと向ける。
そして額に若干の汗を浮かべながら口を開いた。
「本当に我々は無事で済むんだろうな?」
そう苦々しく訊ねるネロ…………いや皆の周りには、大小様々な無数のミツバチたちが降り立っている。その異様な光景に、兵士たちの間にも一様に動揺が広がっていた。
「あ、ああ。ミツバチ、お前も見たことあるだろ? 俺たちの敵じゃないし、襲ってくることはないと思う…………多分」
「多分?」
「絶対! 多分な!!」
ルートミリアらの説明もあり、動揺していた兵士たちも二度目の武器の構えを解く。ミツバチたちの輪の中心という歪な状態のなかで、稲豊は先ほどのネロの言葉を思い出していた。
「話を戻すけど、ここで陽動隊と合流するのって…………まあまあ危険なんじゃないか?」
稲豊は少し狼狽しながら、ソフィアの方へ顔を向ける。
「エデン軍の本隊が出てくる可能性は低いうえ、もし出てきてもこちらは全力でとんずらするだけだ。その為の準備なら抜かりはない」
「そ、そうか……なら安心だな」
「しかし、そう悠長にもしてられますまい」
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、アドバーンが再び御者台へと上り、緊迫した口調で言った。
「念の為、我々は先に王都へと向かいます。この作戦はイナホ殿が魔王城に帰城して、初めて成功なのですから」
「まだまだ油断は禁物ということじゃな。すまぬが皆の者、あとを頼むぞ」
ルートミリアが告げると、兵士たちが真剣な表情で敬礼をする。
「オレはここに残り指揮を取る。アドバーン、イナホと姉さんたちを頼んだぞ」
「この命に代えても」
簡単な言葉を交わし、ルートミリアらも再び猪車に乗車した。
稲豊の脳裏に一抹の不安がよぎったが、『ソフィアが言うのならそれが最善なのだろう』と、猪車の方へと足を進めた。
「じゃあ、みんな……気を付けてな」
猪車の前で、稲豊がそう声をかける。
その直後のことだった――――――――――――
「敵襲!!!! てきしゅうーーーー!!!!!!!!!!」
見張りの兵士が、そう大声をあげたのは。




