第329話 「帰還」
稲豊とルートミリアのふたりは、階段を上り続けていた。
何段ぐらい上ったのか、もはや覚えていない。
屋敷のバルコニーも、夜に輝く蒼月も、いまは何も見えない。
暗闇のなかで輝く階段を、ただひたすらに上っていった。
「はぁ……はぁ……ルト様、大丈夫ですか?」
息を切らせながら、稲豊が後ろのルートミリアに声をかける。
「だ、大丈夫……じゃ」
ふたりの体力はもう限界に近い。
しかし、ここで止まるわけにはいかない。
サタンが命を懸けて作り出したこの時間を、無駄にするわけにはいかなかった。
「あ」
だがそのとき、稲豊は見てしまった。
数十段下の階段が音もなく砕け、奈落へと落ちていっている。
「ルト様!! 急ぎましょう!!」
稲豊は呼吸を整えると、ルートミリアの手を引くように駆け出した。
「はぁ……う……………父上…………」
ルートミリアも、稲豊に数秒遅れて階段の異変に気がついた。サタンの魂で造られた階段の崩壊は、即ちサタンの滅びを意味している。
しかしそれでも、涙をこらえルートミリアは走った。
やがて――――――――――――
「見てください!? ルト様!!」
稲豊が階段の上を指差し、歓喜の声をあげる。
その方向へルートミリアが顔を向けると、遠くの階段の先に、歪な両開きの扉が浮かんでいるのが見えた。
「あれは……妾が通ってきた扉じゃ! シモン!! 帰れる……帰れるぞ!!」
「はい! 行きましょう!!」
先ほどまでの疲労も忘れ、これが最後だと気力を振り絞るふたり。
下から順に、階段の崩壊は加速している。
希望と焦燥の板挟みに合う奇妙な感覚を覚えながら、ふたりは拒絶の扉が待つ最上段へと、一歩一歩、確実に前へと進んでいく。
そして次の瞬間――――――――――――
「………………あれ?」
稲豊はふいに、後ろへと引っ張られた。
「シモン!!!!???」
ルートミリアの悲鳴にも似た叫び声が、暗闇のなかで反響する。
しかし稲豊には、何がなんだかわからない。
バランスを崩し奈落へ落ちそうになりながら、稲豊は背後へと目をすべらせる。
「!?」
稲豊はそこで見た。
自身の襟元に、誰かの手が掛かっている。
その手の先へ視線を動かすと、そこには――――――
「ア…………アモン…………!?」
上半身だけになったアモンが、右腕を突き出して稲豊の襟元を掴んでいた。嫉妬か憤怒か執心か、その瞳は紅く燃えている。
足元の感覚を失い、代わりに浮遊感が稲豊を襲う。ルートミリアが握った腕を引っ張ろうと力を込めたが、稲豊は本能的に握り返すのをやめた。
このままではふたり一緒に落ちてしまう。
せめてルートミリアだけでも。
走馬灯が稲豊の脳内に目まぐるしく流れた。
『死にたくない。消えたくない。でもどうしようもない』
そんな思考で稲豊の頭が満たされた――――――そのときだった。
「え?」
光球がどこからともなく現れ、背後のアモンへ直撃する。
「ぐ…………おぉぉぉぉぉぉおおぉおぉ……!!!!!!」
次の瞬間――――――アモンは光に弾かれ、くぐもった雄叫びをあげながら奈落の底へと消えていった。
稲豊はというと、光に支えられるように体を起こし、無事に階段への復帰を遂げる。
「シモン!!」
「だ、大丈夫です」
なぜ自分は助かったのか?
不思議に思いながら、稲豊は光の球の方を見る。
すると光球は扉の方へ飛んでいき、ふたりを催促するようにその周りを回った。
「…………行きましょう」
階段の崩壊は、もう目前まで迫っている。
稲豊はルートミリアの手を握り直すと、今度こそ拒絶の扉まで駆け出した。
「これは……俺の」
「そう、シモンの心の扉じゃ」
扉の前に到達したふたりは、肩で息をしながら異様な扉を見上げる。
そして頷き合ってから、ふたりで一緒に扉のノブを掴んだ。
これまでの道があっけなく感じるほど、扉は簡単にふたりを迎え入れる。
「これで……助かったの…………かな」
扉を抜け、木の床に足を下ろしたふたりは、いままでいた扉の向こう側を振り返る。そこには先ほどの光が、嬉しそうに旋回している光景があった。
拒絶の扉が、音を立てて閉じていく。
「………………あ」
扉が閉まる直前、稲豊は見た。
光球が最後、人の形になり、緑色に光って消えていくのを。
「レ…………」
そして扉が完全に閉じきった瞬間、世界のすべては白に染め上げられていく。
「ルト様」
「シモン」
ふたりは手を握りあったまま、いつまでもその光景を眺め続けていた。
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車輪の回る音と、少し跳ねる程度の振動。
そして背中越しに感じる、木の床の硬さ。
「う………………」
稲豊はゆっくりと、重い瞼を持ち上げる。
目の前には、優しく微笑むルートミリアがいた。
横たわる彼女を見て、稲豊は自分も横になっていたことを知る。
そしてぼんやりとした頭で、今度は周囲へと視線を動かした。
そこには、泣きそうな顔で自分を覗き込む、王女姉妹たちの顔があった。
「ああ……そうか」
稲豊はすべてを理解し、安堵の吐息を漏らす。
そして――――――
「ちょっと、酔ったみたいだ。猪車の寝心地は、あんまり良いもんじゃないな」
そう力なく…………笑う。
「お父さまぁぁぁ!!!!!!!!」
「ハニー!!!!!!」
「父上!!!!」
「シモンくん!!!!」
「イナホ!!」
複数の腕に抱きしめられる、温かな感覚を味わいながら、稲豊は現実へと帰還するのだった。




