第328話 「とある魔王の最期」
蒼月の輝く、懐かしき月明かりの下。
気付けば稲豊とルートミリアのふたりは、屋敷のバルコニーで抱き合いながら立っていた。
「ルト様…………?」
「シモン? シモンなのだな?」
ふたりはしばらく見つめ合い、やがてどちらともなく再び抱きしめあった。
「ここ俺の心の中のはずなんですけど、本物のルト様……ですよね? まさか幻なんてことは……」
「戯言を申すな。熱く打つこの妾の鼓動が、まやかしのわけがなかろう」
「むがッ!?」
ルートミリアに抱き寄せられた稲豊は、そのふくよかな膨らみに耳から触れ、赤面しながら顔を離した。
「た、たしかに! 感じました……鼓動。本物のルト様に間違いないっスね!!」
「当たり前じゃ。おお、シモン……無事で良かった!」
「俺も………またルト様に会えて嬉しいです。でも、どうやってここに?」
稲豊が顔を紅潮させたまま訊ねると、ルートミリアがハッと表情を変えた。
「話は後じゃ! とにかく早くここを脱出するぞ」
「脱出? って………ええと、どうやってですか?」
「わ、妾も分からぬ。しかし、急がねば奴が」
ルートミリアがそこまで口にしたとき――――――
『奴とは、一体全体………………誰のことでございましょうか?』
ふたりのどちらでもない声が聞こえ、稲豊とルートミリアはぎくりと体を硬直させる。そして恐る恐る、声の聞こえた方へ顔を向けた。
「まさか心的外傷を克服するとは………。貴方たちのこと、少し見くびっておりましたよ」
そう不服そうに話すのは、月夜に浮かぶ仮面の男。
黒いマントを翻しながら樹上に降り立ったのは、冷徹な瞳を怪しく輝かせているアモンだった。
「楽屋に籠もっているだけならば、放置しておこうかとも考えました。しかし舞台に上がるおつもりなら、それは見過ごせるようなものではない。残念ですが、貴方たちにはここでGAME OVERしていただきましょうかね」
「くっ……マズイ……! ここは奴の領域。妾の魔法は………………」
ルートミリアが右腕を翳すが、その腕はなんの反応も示さなかった。
「やはり使えぬか……」
「逃げましょうルト様! って、扉が……開かない……!?」
バルコニーと屋敷を繋ぐガラス戸が、どういうわけかびくともしない。稲豊が渾身の力で押しても引いても、まったく動く気配がなかった。
「いま舞台に立っているのは小官です。つまり小官は、この世界の神そのもの。矮小な貴君らに、どうこうできるものではないのですよ。さあ、いい加減に……退場してください」
アモンの突き出した右手が、青く煌々と光る。
狭いバルコニーでは、避けようもない。
「くそ!! 万事休すか……!!」
「シモン……!?」
稲豊はせめてルートミリアだけでも庇おうと、彼女の前に立った。
「さようなら、弱者たる私。氷矢魔法!」
アモンの右手から放たれた氷の矢が、まっすぐに稲豊たちへと向かってくる。だがどうすることもできない。稲豊は次の瞬間に訪れるであろう衝撃に備え、両手を十字にして前に出し、歯を食いしばった。
しかしそのとき――――――――
「な~~~~にが、神だってんだ」
状況に似つかわしくない呑気な声が聞こえたかと思うと、ふたりの前に黒い影が出現する。影はその大きな翼を盾のように広げ、アモンの放った氷の矢をいともたやすく防いでみせた。
「矮小な存在すら、消せねぇくせによ」
空中で弾け壊れる氷塊の隙間から顔を覗かせ、魔王サタンはカカカと笑う。
「父上‼」
ルートミリアが歓喜の声をあげると、サタンはふたりの方を向き、バルコニーの縁の部分に降り立った。
「感謝しろよ? お前らが過去の記憶のなかで乳繰り合ってる間、オレ様が奴を止めてやってたんだからな」
「ちち………⁉ べ、別に俺たちはそんな……!」
「っと、じゃれ合う時間はねぇんだった」
サタンは次に空に輝く蒼月の方へ向き直ると、左手の指をパチンと鳴らした。すると数秒後、空中に浮かぶ上り階段が姿を現す。
階段はバルコニーの縁から、満月の方まで続いている。
「父上………この階段はまさか」
「おうよ。奴の言葉を取るなら、舞台に上がるための階段ってところか。この階段の先へ行けば、現実へ戻ることができる」
「本当か⁉」
稲豊とルートミリアのふたりは互いの顔を見つめ、一度だけ大きく頷き合った。
「小官がそれを許すとでも?」
再び、アモンの放った火の魔法がふたりに襲い掛かる。
「やらせるかって」
しかしそれもサタンの大きな両翼が防いでしまう。「ならば」とアモンは次に空へと続く階段へ向けて魔法を放ったが、魔法は階段に弾かれて消失した。
「オレ様の魂を代償に創った階段だぜ? そう簡単に壊れはしねぇさ」
その言葉を聞いたルートミリアが、瞳を大きく開く。
「そ、そんな‼ それでは………父上は………………」
「気にすんな。どうせオレ様は、遅かれ早かれ消える存在だ。奴に飲み込まれるぐらいなら、ここで娘と…………息子のために命を懸けてぇのさ」
サタンはそう言いながら、稲豊の顔を見た。
「お、お前………………」
「おっと、親心ついでの餞別だ。気が向いたときにでも、眺めてくれや」
ぽいと、サタンがふたりへ何かを投げる。
稲豊とルートミリアは、慌ててそれを両手で受け取った。
「なんだ………これ」
それは小さな輝く玉で、ビー玉によく似ていた。
「さあ、時間はあんまり待っちゃくれねぇぞ。ここも、現実もな。だから早く行け。みんなによろしくな」
「父上………………………………」
ルートミリアが泣きそうな顔をするが、稲豊は唇を噛んで面をあげる。そしてサタンから貰った玉をズボンのポケットに仕舞うと、ルートミリアの手を取り、叫ぶように言った。
「行きましょうルト様‼ 俺たちには、帰るべき場所がある!!」
「シモン………………そうじゃな、お前の言う通りじゃ」
稲豊はバルコニーの縁に上がり、ルートミリアを引っ張り上げる。
そして足元に気を付けながら、階段へ足をのせた。
「ゆくぞ! シモン!!」
「はい!!!!」
ふたりはもう振り返らなかった。
一心不乱に、階段をのぼることだけを考えた。
手摺りもなく、足場のみの不安定な階段。
何度も躓きそうになりながら、ふたりは走った。
「無力な者にとっての現実など、不幸の集合体でしかありえないというのに。知っていて泥船に乗ろうなど、愚かな」
「泥船じゃねぇ、方舟だよ。あいつらがこの世界を救うんだ」
「そんなものは不可能、夢物語です。貴方も知っているはずだ。この世界の“壁の高さ”を」
「知ってて言ってるのさ。オレ様にゃできなかったが、あいつらなら壁を壊せる! そう信じてるんだ、オレ様はよ」
「…………なるほど。なら、まずはこの危機を乗り切っていただきましょうか。魔王サタン、貴公さえ排除すれば……この階段は消える」
アモンの背後に、黒き魔素が立ち昇る。
それを見て、サタンも魔素を練りあげる。やはりその色も、漆黒に染まっていた。
「腐ってもオレ様は魔王サタンだ。来いよヒヨッ子。オレ様の往生際の悪さ、見せてやるぜ」
ギザギザの歯を覗かせながら、サタンが不敵に笑う。
アモンはその姿を見て、暗く瞳を落とすのだった。




