第326話 「妾が許せるもの」
真っ白な部屋の中。
白いベッドの上に、ひとりの女性が寝かされている。
規則的な寝息を立ててはいるが、女性が目を覚ます様子はなかった。
『それでは…………』
白衣を着た男が部屋を出ていく。
その姿を見送ったあとで、父親は眠る母を見つめる息子の肩に手を置いた。
そして父も部屋を去り、病室は稲豊と母…………ルートミリアの三人だけとなる。
「……………………シモン」
すべてを目の当たりにしたルートミリアが、幼い稲豊の後ろから声をかけた。
『イヌサフラン。球根の部分が玉ねぎによく似ている…………毒草だって』
稲豊は感情のない声で告げる。
『呼吸困難で死ぬ人もいるけど、母さんは運の良いことに一命を取り留めた。そして……運が悪いことに、毒は大切な神経に作用した…………』
そこで言葉を切った稲豊は、長い長い沈黙のあとで、その重い口を開いた。
『母さんは…………二度と歩くことができなくなった』
掛ける言葉が見つからず、ルートミリアはただ稲豊を見つめることしかできないでいる。
『中学生の頃から母さんは陸上をやってて、高校生のときには学生たちの大きなマラソン大会に出たこともあるって。大学に行っても……主婦になっても、マラソン大会があれば遠出してでも参加してた』
次第に、稲豊の声が大きくなっていく。
『走るのが好きな母さんの、唯一とも言える趣味だったから。入賞したときなんか、お祝いしたりして。ボクはそんな母さんの姿をカッコいいと思ってて、きっと父さんもそれは同じで……。そんなお母さんは、ボクの誇りだった。誇りだった…………のに』
感情のなかった声が、いまは負の感情で満たされている。
悲しみと、後悔の念がルートミリアにも伝わっていく。
『なんであんな物を見つけたんだろう。なんであんな物を拾ってしまったんだろう。なんでボクは…………俺は味見をしなかったんだろう。そうすれば、“舌”を持つ俺なら……気付けたはずなのに。なのに……なんで、なんで、なんで………………!』
「シモン………………」
ルートミリアは稲豊の背後まで歩み寄ると、後ろからそっと稲豊を抱いた。
『時折、症状が悪化するらしくて……母さんはいまでも入退院を繰り返してる。俺のせいで、母さんの人生は狂わされたんだ。俺も…………あの日から、家族に料理を作らなくなった。蜘蛛やカエルのような毒を持つ生き物が見れなくなった。毒草がテレビに映るだけで、吐き気が込み上げるようになった』
稲豊の独白に、ルートミリアは静かに耳を傾ける。
『父さんも母さんも……俺を責めなかった。でも、俺は違う。俺は自分が嫌いで、俺は俺を責め続ける。少しでも許しが欲しくて、色んな店を巡った。誰もが唸るような美味しい料理を見つけて、母さんに食べてもらおう……って』
抱きしめるルートミリアの手に、熱い雫がぽたぽたと落ちる。
稲豊の声は、震えていた。
『だって……だって……!! 母さんはもう………もう二度と………俺の料理を食べてくれないだろうから……!!』
臆面もなく、稲豊は嗚咽する。
母の、ルートミリアの前で、声の限り号泣した。
その弱々しい背中を抱く腕に、ルートミリアはぎゅっと力を込める。
「シモン……これが、お前の抱えていた咎だったのじゃな。ずっとずっと、お前を苦しめておったのじゃな。すまぬ……妾はお前の側にいながら、気付いてやれなんだ」
『ルト様……俺は……俺はどうしたら……? どうしたら……俺は…………?』
「哀れなシモン……。無念だが、妾にはお前を許してやることができぬ。過去の過ちを、無かったことにしてやることができぬ。無力な妾を…………許せ」
過去に起こったことは、もうどうすることもできない。
そんな当たり前の真実が、巨大な枷となって稲豊に重くのしかかる。
稲豊が抱えてきたトラウマの重さを感じ、ルートミリアも苦痛に顔を歪めた。
その傷跡は深く、もう二度と癒えることはないのかもしれない。
しかしそれでも、それでも――――――――
「それでも妾は………お前の傍にいたい」
ルートミリアは、幼い稲豊の体をゆっくりと自分の方へと向けさせた。
「これほどの苦痛に苛まれながら、お前は妾たちに尽くしてくれた」
『それは………全部、成り行きでしかたなく………』
「例えそうだとしても、妾たちが救われたことに違いはない」
稲豊は首を大きく振る。
『俺は………非力な俺にはなにもできない。なにも……救えない……』
「そんなことはない。お前は魔法も満足に使えぬ身でありながら、何度も妾たちを助けてくれた。それは到底、非力な者にできる芸当ではない」
『嘘だ……俺が…………俺なんか………………が……?』
否定し続ける稲豊の頬に、ルートミリアは優しく右手を添える。
手のひら越しに伝わる温もりを感じるまもなく、稲豊はその手が赤く染まっていることに気付いた。
「妾に……お前の過去の咎を許すことはできぬ。しかし、妾にひとつだけ許せるものがある」
稲豊がゆっくりと、顔をあげる。
その瞳には、微かな光が戻りつつあった。
「――――――シモン。お前がお前を愛することを、妾は許そう」
あっ――――と、稲豊が小さな声を漏らす。
「己のことを、好きになっても良いのだ……シモン。自分の為に、生きても良いのだ」
そう言いながら、ルートミリアは力を込めて稲豊を抱きしめた。
すると、濡れたタオルを絞ると水が滴り落ちるように、稲豊の両目から大粒の涙がこぼれ始める。
『いいのかな……? 俺…………おれ…………生きてても…………いいのかな…………?』
「妾が許す。妾はお前に、ずっとずっと……生きてて欲しい。お前にもっと、幸せになって欲しい」
ルートミリアの緋色の瞳からも、涙が溢れていた。
ふたりは泣きながら抱き合い、そして――――――
「シモン…………帰ろう。妾と一緒に」
そうルートミリアが促すと、幼い稲豊は小さくとだが、はっきりとした頷きを見せる。
すると次の瞬間、世界は崩壊し――――――辺りは一面の白い光に包まれるのだった。




