第324話 「イヌサフラン」
幼い稲豊を乗せた軽バンが、静かな住宅街の一角に停車する。
『とうちゃ~~~~く!』
稲豊は声を高らかにあげながら、後部ドアから飛び出した。
その小さな両腕に、野菜でぎゅうぎゅうになった麻袋が抱えられている。
『じゃあ父さんは車を裏に回してくるから、家の鍵を頼むな』
『はーい』
軽バンがゆっくりと動き出し、ある一軒家の裏側に消えていく。
その姿を、ルートミリアはぼんやりと眺めていた。
「なにがどうなっておるのじゃ…………」
違う場所の畑にいたはずなのに、世界が暗転した次の瞬間にはこの住宅街に立っていた。視線を横にスライドさせれば、幼い稲豊が植木鉢の下から取り出した鍵で、玄関の鍵を開けようとしている。
そのお世辞にも大きいとは言えない一軒家は、周囲の家とは少し違う風体だった。玄関の扉はガラス張りになっていて、外からでも中の様子が筒抜けとなっている。そして扉の横には木製の看板が掲げられており、ルートミリアに読めない字でなにか書かれていた。
『よいしょっと』
扉の鍵を植木鉢に戻した稲豊が、扉を開け家の中へと入っていく。
ルートミリアはただ導かれるように、そのあとを追った。
「そうか…………ここは」
中に入れば、そこがただの家ではなく、食事処であることがわかる。洋風の椅子とテーブル、部屋の隅に置かれた観葉植物。清潔で、どこか落ち着く雰囲気の漂う店内。
その店の中を横切るように、稲豊は小さな体には重そうな袋を、引きずりながら運んでいく。
『う~~~~~おもかった~~~~~!』
カウンター奥の厨房に回り込むようにして野菜を運んだ稲豊は、麻袋を床に置き両手をブラブラと振った。ちょうどそのときに、父親も大きな麻袋を抱えて厨房にやってくる。
『おいおい、その程度で弱音を吐くのは男じゃねぇぞ?』
『いまのじだいに、そのはつげんはいかがでしょうか?』
『うおっ!? 嫌な言葉を覚えたもんだな……まったく』
世も末だ……と言わんばかりに首を振ったあとで、父親は収穫した野菜を手際よく収納していく。
『お父さん、いつになったら後ろの戸がとおれるの?』
『う……仕方ねぇだろ。間違って一桁多く注文しちゃったんだから。あの扉の前にしか置くとこなんかねーし。んなことより、お前も口ばっかじゃねくて手を動かせ』
『そういうはつげんは、いまのじだい』
『だあぁ~! もうそれ禁止!! 今の時代を生きる自信が無くなってくるわ!』
そんなやりとりをしていると、ピンポンというチャイムの音が店内に鳴り響いた。ふたりは同時に顔を見合わせ、次に自然と玄関の方へ顔を向ける。
するとガラス扉の向こうに、中年の男がひとり立っているのが見えた。
男はふたりに気付くと、ぺこりと頭を下げた。
『おおっと忘れてた! 約束、今日だったか。悪い稲豊、あとの片付け頼む』
『ええ~~? でもご飯が…………』
稲豊の言葉を最後まで聞くこともなく、父親は来客の対応に急いだ。ひとり厨房に残された稲豊は、不服そうに眉を寄せる。
『お母さんがかえってくるのに……まにあわないじゃん』
料理をするときは、いつも両親のどちらかと一緒に作っている。
まだ幼い稲豊に、ひとりで料理をさせるのは危険も多いからだ。
しかし稲豊にとっては、納得のいっていないルールだった。
『ボクだって……ひとりで大丈夫なのに』
稲豊は決心し、食材を調理台に並べ始める。
頭に思い描くのは、食卓に置かれた完璧な料理と、それを褒めちぎる両親の姿。
ひとりで料理して叱られるなど、微塵も考えなかった。
『まずはじゃがいもの皮をむいて…………』
厨房に立っている父の姿を想像しながら、稲豊はその年齢にしては手際よく調理を進める。
『うすく切って、レンジで四分。そのあいだに、たまねぎを……』
ルートミリアの目の前で、着々と工程が進んでいく。
稲豊は玉ねぎを切り、ひき肉を炒め、溶き卵やパン粉を用意した。
そして最後にフライパンに油を熱し、形を整えた“たね”を揚げる。
十数分後には、バットの上にきつね色をしたコロッケがいくつか並んでいた。
『ふぅ~~! ただいま~~!』
そんな折、ジョギングをしていた母が帰宅する。
『あれ? お父さんは?』
『だれかきて行っちゃった』
『そうなんだ。業者さんかな?』
母親は大型の冷蔵庫からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出し、額の汗をタオルで拭いながら喉を潤す。
そしてひとつ大きく息を吐いてから、稲豊の方を向いた。
『ああ~~! 稲豊、ひとりで料理しちゃダメだってお父さんにも言われたでしょ? しかも油料理!!』
『だ、だって…………お父さんがいなかったから…………』
『言い訳しないの! 稲豊が大怪我したら、お母さん泣いちゃうよ!! お父さんだって!』
想像もしていなかった母の剣幕に、幼い稲豊は泣きそうな顔になった。母のためを想ってしたことだったのに――――――と、不満もあったが、怒られるだけの理由があることも稲豊にはわかっていた。
『お母さんとも約束して。“大きくなるまで、ひとりで料理しないよ”って』
『うん…………わかった…………』
指切りをして、誓いを立てる。
すると母親はニッコリと微笑み、バットの上のコロッケをひょいと自分の口に入れた。
『でも、コロッケはサクサクのホックホク! また上手になったね稲豊』
優しく温かい手で頭を撫でられ、落ち込んでいた気持ちが癒やされていく。稲豊は大きく頷いてから、コロッケを入れる皿を食器棚から取り出した。
『ん~~おいし~~い! やっぱりコロッケは揚げたてだねぇ』
『あーー!? また食べてる! ご飯なんだから、いま食べちゃダメ!!』
『ごめんごめん。それじゃお父さんが戻って来る前に、机に並べておこうか?』
ふたりは大皿に入れたコロッケ、そしていくつかの惣菜を手に、一階奥の食卓へと向かう。ルートミリアも、そのあとへ続いた。
「む……!? またか!」
奥へと向かったルートミリアの前で、再びノイズが走り世界が歪んだ。しかし、それは暗転するでもなく、次の瞬間には食卓に座る稲豊たちを映していた。
ルートミリアは、なんとはなしに見た窓の外の光景から、少し時間が経過していることを知る。
『悪い悪い、ちょっと遅くなっちゃったな』
不機嫌な顔をする稲豊たちの前に、父親が謝罪と同時に帰って来る。
『おそい~~~!! もうコロッケ冷めちゃったよ!』
『稲豊も私も、ご飯を前にずっと待ってたんだからね! もうお腹ぐ~ぐ~!!』
『俺が遅いときは先に食ってても良いって』
『ダメ!! 家族は一緒にご飯を食べることに意味があるんだから!』
『わかったわかった! 俺が悪うございました。もうしません』
平身低頭する父親の前で、稲豊と母は顔を見合わせて微笑む。
これでようやく、家族が揃った。
そして家族での食事が始まり、慎ましくも微笑ましい、団欒が繰り広げられる。
しかしそんな温かい食事風景を前にしながらも、ルートミリアの表情は冴えないでいた。
「妾にも……こんな時代があったのだろうか……? フッ、愚問じゃな。妾にとっての家族での食事は…………」
苦い、苦痛を伴う記憶。
ある事件を堺に、ルートミリアの家族での楽しい食事は終わりを迎えた。
大切な美しい宝石が、実は泥団子だった。
思い出したくもない過去を思い出し、ルートミリアは目の前の光景から目を背ける。
稲豊は自分とは違い、家族との円満な生活を送っていた。
それは胸に小さな痛みを与えるのと同時に、どこか懐かしいものをルートミリアに思い起こさせる。
「シモン……お前が見せておるのか? この光景を……」
ふとした疑問が、ルートミリアの頭に浮かんだ。
『……………………お母さん?』
そんなとき――――――“それ”は唐突にやってきた。
『おい……どうした? 顔色が悪いぞ?』
『う、うん…………ちょっと…………』
父親の問いに、稲豊の母が言葉を詰まらせながら応じる。
その顔色は真っ青だった。
『どう……したのかな? お腹が…………急に痛くなって』
苦痛に歪んだ母親の顔には、大量の汗が浮かんでいる。
それが異常であることは、誰の目から見ても明らかだった。
『だ、大丈夫……大丈夫! お母さん……ちょっとお手洗い行ってくるね……?』
『おいおい……本当に大丈夫かよ?』
ふらふらと立ち上がった母の顔色は、先ほどまでとは雲泥の差だ。
強がってはいても、足に込められた力は驚くほど弱く、そしてそれは遂に自重さえ支えられなくなった。
『お母さん!?』
稲豊たちの前で、母は大きな音を立てて床に倒れ込む。
それを目の当たりにし、父親が駆け寄った。
『おい!! どうしたんだよ!?』
『いた…………お腹…………が…………ッッ…………』
両手で腹部を押さえ、苦痛に呻く母。
稲豊はどうして良いのか分からず、ただおろおろと狼狽えていた。
『きゅ、救急車呼ぶぞ!!』
父親は事態が急を要することを察し、厨房内にある壁掛け電話へと走った。
『すみません!! 妻が急な腹痛を訴えまして! ええ……救急で。住所は――――――』
電話の向こうの消防隊員に説明をしながら、視線を泳がせる稲豊の父親。そんなとき、意味もなく見たゴミ箱の中に、“ある物”を見つける。
そして早々に電話を切り上げると、それを掴み急いでリビングへと戻った。
『稲豊!!!!』
ふたりのところへ戻るなり、声を張り上げる父。
稲豊はびくんと体を跳ねさせ、父親の方を見た。
凄まじい形相を浮かべた父の手には、コロッケに使った玉ねぎの芽が握られている。
稲豊は最初、ひとりで料理したことがバレたのだと思っていた。だからいまから叱られるのだと。
『お前……コレをどっから持ってきた!!』
『それは…………はたけに捨ててあって…………もったいないから…………』
『…………畑? バカ野郎!!!! こいつは……この植物は…………』
そこで言葉を切り、その芽を投げ捨てる父親。
『おい!! いま救急車を呼んだからな? すぐに来てくれるってよ!』
『ハァ……ハァ…………だい……じょうぶ…………たいじょ…………ぶ』
緊迫する両親のとなりで、稲豊は床に転がった芽を呆然と眺めていた。思い返してみると、いつも使っている玉ねぎの芽とは少し違うような気もする。
父は最後まで言葉にしなかったが、稲豊は気付いた。気付いてしまった。
あれは、あの芽は――――――




