第320話 「あの日 あのとき」
「なんじゃ、ここは……………………………………?」
ルートミリアは何度も瞬きをしたあとで、呆けた顔をして呟いた。
絵の具を塗ったような青い空に、巨大な入道雲。
眩しい太陽の光が燦々と降りそそぎ、爽やかな風が頬をなでる。
視線を下へずらせば、デコボコの石で覆われた地面があり、地面には白い線が道を横断するように引かれていた。
「妾は父上と扉を開き、その先へ…………その先へ行ってから、どうなったのだ?」
記憶がハッキリとしない。
気がつけば、ルートミリアはこの見たこともない場所にひとりで立っていた。
そのとき、なにか地響きのような音が近づいてくる。
「なんじゃ……この音は――――――って、なんじゃとッ!?」
驚愕するルートミリアの目の前に、巨大な鉄の塊があった。
大きな四角い箱が連なったような形のそれは、六つの車輪を転がしながら、猪車よりも早い速度で迫ってきている。
「土壁魔法!!」
右手を伸ばし呪文を唱えるルートミリアだが、どういうわけだか魔法が発動しない。避けるのも間に合わない。ルートミリアは衝突の衝撃に備え、両腕をクロスさせて身を庇った。
しかし――――――
「…………む?」
鉄の塊は体をすり抜け、彼方へと去って行った。
ルートミリアは無事であることに、安堵の息をひとつ漏らす。
「幻……か。そうか、ここはシモンの――――――」
見たこともない空。
見たこともない大地。
見たこともない植物。
ルートミリアはここが、稲豊の記憶の世界であることを直感した。
「ならば、ここがシモンの元いた世界か」
蝉の声が、草の揺れる音が耳心地いい。
平和を絵に描いたような風景だった。
しばしのあいだ、ルートミリアは瞳を閉じ、その安穏とした空気を胸いっぱいに吸い込む。
そんなとき、ふと誰かの話し声が耳に届いた。
「………………?」
ゆっくりと瞼を持ち上げたルートミリアは、導かれるようにその声の方へと足を進める。
緩い坂を上り、狭い道を奥へと進めば、そこはすぐに見つかった。
「ここは…………畑?」
森に隣接するように設置された、お世辞にも大きいとは言えない畑。
四つに区切られた畑のひとつに、野菜の世話をする親子らしき人影が見えた。
『よお~し、そっちの雑草をどけてくれ』
『うう~~』
三十代くらいの若い父親が、小さな男の子に話しかける。
すると男の子は眉をへの字にしながらも、雑草を両手で抱え運んでいく。
『もう食べれるの?』
野菜の手入れをしている父親に、男の子が訊く。
『玉ねぎはまだだなぁ。トマト、きゅうり、なすとピーマンはもういけるな』
『うぇ~! ピーマンはいらないよ~!』
『ばっか、ウチの店はピーマンで持ってるんだぞ。ピザトーストからピーマンを抜くってのは、麻婆豆腐から豆腐を抜くようなもんだ。更に例えるなら、茶碗蒸しから茶碗を取り上げるような――――――』
『まーたバカなことを教えてる』
女性の声が聞こえ、ぎくりと父親の動きが止まる。
ルートミリアが声の方へ顔を向けると、そこには上下に白のジャージを着た、妙齢の女性が立っていた。
女性は寄せていた眉を元へ戻し、柔和な表情で親子に近づいてくる。
『あ~! お母さん!』
『やっほー、お父さんのお手伝いはちゃんとできてる?』
『うん!』
『そっかー、偉いね稲豊は』
お母さんと呼ばれた女性はしゃがんで、男の子の頭を優しく撫でる。微笑ましい親子の日常風景だが、ルートミリアは男の子だけをじっと見つめていた。
「…………イナホ?」
言われてみれば男の子は年齢こそ違うものの、稲豊によく似ている。
父親と母親も、どこか稲豊の面影を感じる顔立ちをしていた。
「シモン? まさか……シモンなのか?」
男の子に触れようとするルートミリアだが、その手は虚空を泳いだ。
先ほどの車と同じ、この世界は現実とは違う理で成り立っている。
『おいおい、わざわざ走ってきたのか? あまり無理すんなって』
『このぐらいの距離、大丈夫よ。もうすぐ大会だし、良い運動になってるわ』
母親は首に巻いていたタオルで、額の汗を拭う。
そして立ち上がり、父親の方を見た。
『なにか手伝うことある?』
『もうあらかた収穫は終わったからいいよ。帰り、乗ってくか?』
『ん~~、やめとく。もう少し走りたい気分なの』
『え~~! お母さんもいっしょにかえろうよ!』
駄々をこねる稲豊の前で母親が再びしゃがみ込み、目線を稲豊へと合わせる。
『今日は稲豊がご飯を作ってくれるんだよね? いま一緒に帰ったらお母さん、お腹が空いてなにか食べちゃいそう』
『え!? それはダメだよ! ボクのご飯が食べれないじゃん!』
『だから稲豊には、先に帰ってご飯を用意して欲しいな。それならお母さんが帰る頃には、ご飯ができてるでしょ?』
『う~~~………………わかった』
不服そうに口を膨らます稲豊の頬をつついてから、母親は立ちあがる。それから『じゃあね』と手を振り、走り去っていった。
『そんじゃあ、野菜を車まで運ぶぞ。父さんが重い袋を持つから、稲豊は小さい袋な』
『は~~~い』
野菜の詰まった袋を抱えた父親が、金網の扉を押し開け駐車している車の方へと向かう。小さな袋を抱いた稲豊も、その後ろへと続く。
そのとき――――――
『あ!』
稲豊が横の茂みの方へと目をやり、小さな声をあげた。
ルートミリアがその視線の先へ顔を向けると、そこには捨てられたように置かれた野菜があった。
この四つに区切られた共同の農園は、それぞれを別の人間が管理している。だからそのなかの誰かによる、必要のなくなった野菜のお裾分け、廃棄などはよくあることだった。
『あ、タマネギまですててる。まだ食べられるのに、もったいないなぁ……』
稲豊は周囲を見回して誰もいないことを確認すると、そのひとつを自分の持っていた小袋の中に放り込む。常日頃から、両親に食物を無駄にしてはいけないと教えられてきた。
『お~~~い! 稲豊、出発進行~~!』
『あ~~! まって~~!!』
野菜の詰まった小袋を手に、稲豊は父の待つ車の方へ駆けていった。




