第305話 「Digestif」
「それが“実の娘”のことならば、尚更でしょう」
アモンがそう口にした瞬間、今度こそアルバの瞳が大きく開いた。
その顔には『どうして?』という、純粋な疑問がありありと浮かんでいる。
「小官には実に優秀な友人がおりましてね。失礼ながら、貴女について調べさせていただきました。貴女は十八年ほど前に、子供をひとり身籠っています。公式の記録では【死産】となっておりますが、その亡骸を目撃した者は誰もいません」
アルバは口を挟むこともなく、じっとアモンの言葉に耳を傾けている。
「時を同じくして、宿り木の家に赤子がひとり預けられています。宿り木の家の創設者でもあるトロアスタ殿が、どこからか連れてきたその赤子の名は――――レトリア=ガアプ」
唐突に吹いた夜風がアルバの黒髪を揺らす。
憂いを帯びたその顔は、どこかレトリアの面影を感じさせた。
「宿り木の家に預けられたその子は、施設の他の子らと同様、奉公人として生涯を送るはずだった。しかし……神の気紛れか、彼女には天使としての器が備わっていました。器が認められれば、その者は天使として生きなければなりません。だから貴女はそのタイミングで、彼女をアルバ家に引き取ったのです。己の目の届く場所に、恐らくは……何かから守るために」
核心を突いているはずなのに、アルバの表情に変化はない。
否定も肯定もしないその姿は、覚悟を決めているように見えなくもなかった。
「小官はその“何か”が知りたいのです。大天使である貴女が、そこまでせざるを得ない“何か”。貴女は一体…………何を隠しておられるというのですか?」
これ以上にない、単刀直入な質問。
不意に顔を上げたアルバの瞳には、何の色も浮かんではいなかった。
そこにあるのは、ただただ空虚。
底なしの――――――“無”だけだった。
「悪いが、それを口にすることはできない。娘の恩人を……ここで斬りたくはないのでな」
抑揚のない、感情の消失した声。
だからこそアモンは、その言葉に偽りがないことを直感的に理解した。
しばらくの間、腹のうちを探るような視線がアモンを襲う。
空気が張り詰めていくのが、目に見えるようだった。
「まあいい」
やがてアルバがゆっくりと振り返り、それと同時に空気が弛緩する。
「受けた恩は必ず返すのがアルバ家の家訓だ。今回の件、ひとつの借りとしておく。今後、何かあれば私を頼るがいい。大義だったな…………アモン」
最後にそう言い残し、アルバはアモンの前から去っていった。
そしてそれと入れ替わるように、三叉の矛の三人とレトリアがテラスへとやってくる。
「アモン様! 上手く行ったのですね!」
「さすがはアモン様だぜ! あの野郎のツラ……ざまあみろってんだ!」
嬉々として寄ってくるティオスたちと、何がなんだか分からないといった様子のレトリア。
「見るでござるよ、レトリア様」
そう言いながら、騒々しさの増した階下の方を指を指すシグオン。
その先には慌ただしく帰っていく、エンカウント家の者たちの姿があった。
「えっとあの……アモン? これはどういう……?」
困惑を顔いっぱいに表しながら、レトリアが訊ねてくる。
「なあに、悪い行いはいつか自分に返ってくるもの。それが今日であっただけです。それに彼は貴女には相応しくなかった。破談になるのも、時間の問題だったのですよ」
「破談? それじゃあ……私は……」
レトリアがそこまで口にしたとき、ティオスらがその体に抱きついた。
「晴れて自由の身でござる。もう――――」
「もうあんな野郎と結婚しなくて良いんだぜ! レトリア様!!」
じわじわと、時間をかけてレトリアの頭に事実が浸透していく。
そしてそれを理解したとき――――――
「…………ッ!」
いままで堪えていたものが、両の眼から大粒の涙となって溢れ出した。
「よかった……本当によかった……!」
レトリアの頭を抱く、エルブの瞳にも涙が滲んでいた。
しかしその表情に悲観的なものはなく、ティオスも、珍しくシグオンでさえ端から見て分かるほどの笑みを浮かべている。
「うぅ……うう…………!」
慌てたように帰っていく客人たちの音を遠くに聞きながら、四人はいつまでもレトリアの傍を離れないのだった。
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――――――数日後。
アモンは再び、西区裏路地の喫茶店へと足を運んでいた。
正面の席には、今回の騒動の功労者のひとりでもある、トリシーの姿もあった。
「う~む……いやはやなんというか、想像以上にヘビーな内容だったんスねぇ。まさかあのアキサタナ将軍が…………っと」
トリシーは周囲を見回し、聞き耳を立てている人間がいないかを確認する。
そして誰もいないことを確認したあとで、またアモンの方へと顔を向けた。
「ある意味、前代未聞の事件ッスねコレ。それでその、将軍の処遇はどうなったんスか?」
「まだコトが発覚してから数日ですからね。天使という立場もありますし、上の方も決めかねているのではないでしょうか?」
「そ、それはそッスよね。じゃあ……地下に幽閉されていた魔物たちのその後は?」
「小官としては魔物などどうでも良いのですが、今回の件は敵とはいえさすがに同情を禁じ得ませんでしたね。治療を施されたのち、タルタロス監獄へ移送されるそうです。それもかなり“緩め”の層に」
トリシーはうんうんと納得したように頷き、目の前にあるコップに口をつけた。
「貴方には今回の件で世話になったので話しました。さあ、どうします? この内容を記事にいたしますか?」
「そう…………ッスねぇ…………」
なんとも言えない複雑な表情を浮かべるトリシー。
しばらく思考を巡らせたあとで、バッと勢いよく頭を上げる。
「特ダネッスけど、やめときます。天使崇拝の神咒教に変な恨みを買うのもイヤッスし」
「まあ、そうでしょうねぇ。でも本心は?」
「かつてない大スキャンダルッス!! ジャーナリストとしての血が騒ぎ踊ってもはやカーニバル状態!! 十万部……いや百万部ぐらい売れてもおかしくない特ダネッスよ~~~~!!!!」
トリシーはこれでもかと両拳を握って立ち上がり、メラメラと瞳を燃やした。しかしその炎もため息と共に鎮火し、肩を落としたトリシーはくるりと反転する。
「な~~んて、天使の地位を貶めるような記事に……大天使様が許可を出すはずがないッスからね。残念スけど、次の特ダネを探すことにするッス。それじゃあ、今日はこれで」
「ええ、それでは」
落ち込んだ様子で喫茶店を出るトリシーを見送ったあとで、アモンはテーブルの上に置かれた紅茶を啜った。やがてそのカップが空になったと同時に、立ち上がる。
「ありがとうございました」
背中に喫茶店のマスターの声を受けつつ、アモンは大通りの方へと向かって歩き始める。そして大通りの噴水の前を通りがかったとき、ふと足を止めた。
「おや?」
奇妙な気配を感じ、噴水の水に目を凝らす。
するとアモンの存在を待っていたかのように、流水がゴボゴボと形を変えた。
「キュイ」
「あなたは確か……エレーロ」
それは水の上級精霊、エレーロだった。
女性を模した水の顔が、こくこくと頭を上下させる。
「どうしたのですか? また何かあっ――――――」
アモンが言葉を最後まで口にする前に、噴水から伸びたエレーロの腕がアモンを噴水の中へと引き込む。そして凄い力で、その奥へ奥へと引っ張られていった。
「むむっ……苦しくない」
顔はエレーロによって球体の空間が作られ、息苦しいようなことはなかった。距離にして二十メートルは潜り、やがて見慣れた光景へと突き当たる。
「ふむ、件の地下水路ですね。調査の為なればこそ、日常的に訪れたい場所ではないのですが……」
アモンが靴の中の水を落としながら呟くが、エレーロはまるで聞こえてもいないように通路の先へと進んでいく。
仕方なくアモンは、そのあとへと続いた。
「どこへ向かっているのですか? と訊ねたところで、話せませんか」
見たことのある通路から、次第にアモンが通ったことのない通路へと変わっていく。しかしエレーロは、時折り振り返ってはアモンがついてきているかを確認し、それが終えると意気揚々と進むのだった。
そんなやりとりを何度か繰り返したのち、とある場所でエレーロが動きを止める。
「どうしたのですか? そこには何も…………?」
『何もない』。
そう言いかけたところで、アモンは気づいた。
暗がりに、まるで騙し絵のように隠されている通路がある。
ある一定の角度からでないと見えない通路だ。エレーロは迷わずその中へと入っていく。
「ここは…………なんとまぁ」
エレーロに続いて通路に入ったアモンは、その先にある開けた空間で声をあげた。そこは学校の運動場ほどもある広大な円形の空間で、中央にはぽっかりとこれまた巨大な穴が空いていた。穴には大量の水が溜まっており、藻や雑草が蔓延っている。
「なるほど、これは恐らく生活用水。シェルターに避難した際、使用する予定だった貯水池ですね。まさか地下にこんなにも巨大な池があるとは」
エレーロは関心するアモンの前で穴に飛び込み、少ししてから水面に顔を出した。突き出した両の手のひらには、キラキラと輝く石ころが乗せられている。
「これを……小官にですか? ははぁ、つまりは今回の件のお礼というワケですね?」
「キュイ!」
そうだと言わんばかりに、エレーロが首を縦に振る。
「ではありがたく頂戴いたしましょう」
魔石でも宝石でもない。
どこにでもある、石ころ。
しかしアモンは、それを大切に懐へとしまった。
「それにしても、ここはあなたの秘密基地ですか? そんな場所へ招待していただけるとは、光栄の至りですね」
嬉しそうに、くるりと一回転するエレーロ。
アモンはそんなエレーロから視線を外すと、再び中央の穴の方へ顔を向けた。
「やたらと深いですねぇこの穴。一体どれくらいの……………………!」
何気なく穴を覗き込んでいたアモンは、そこで信じられないモノを目撃する。そして大きく息を吸い込む手間も忘れ、頭から穴の中へと飛び込んだ。
水は思いのほか濁っておらず、クリアに水中を見渡すことができる。
「ぶはっ!! やはり…………間違いない…………!」
水から上がったアモンは、“ソレ”を手に歓喜の声をあげる。
「はは……ハハハハハッ!! 見つけた……見つけましたよ!! 魔女の遺産!!!!」
かつてリリトが実験場にしていた、地下の貯水池。
その巨大な穴の中には、まるで舞っているかのように、無数の【昆布】がゆらゆらと漂っていた。
【 第九章 ~暗躍の魔人~ 終】




