第300話 「私の嫌いなもの」
夜――――――アルバ邸宅。
東のはずれにある一室の中、ひとりの少女が窓際で月を眺めていた。
「…………………………」
明るく屋敷を照らす満月とは対照的に、少女の表情は暗い。
時折、口から漏れるため息がその心中を表していた。
「……………………まだやってる」
月の視線に耐えきれず、瞳を落とした少女。
そのひとつ下の部屋では、いまだひっきりなしに人影が動き続けている。
婚約披露宴の為の準備が、使用人たちの手により着々と進められているのだ。
「…………ハァ」
窓をそっと閉じ、逃げるように視線を逸らす。
しかし最後の逃げ場である私室の中でも、仕立て屋の用意した花嫁衣装が視界に入り、少女の気は滅入る一方だった。
仕方なくベッドの上で横になり、無表情で天井を見つめる。
心にぽっかりと穴が開いたような喪失感が、少女――――レトリアの感情を空虚なものにしていた。
――――――コン。
唐突に、小さな音が鳴った。
「…………誰? カナン?」
木を叩いたときの音によく似ていた。
だからレトリアは、扉に向かって声をかけた。
しかし、何の反応も返ってこない。
「カナンではないの?」
もう一度、訊ねてみるがやはり応答はない。
不思議に思ったレトリアは体を起こし、少々の警戒心を抱きながら扉を開ける。
そこには――――――――――誰の姿もなかった。
「変ね……確かに音がしたと思ったのだけれど……」
幻聴が聞こえるなど、どこかおかしいのだろうか?
そんなことを考えながら、再びベッドに横になるレトリア。
するとまた――――――コン、コン。
と、ノックのような音が耳に飛び込んでくる。
「幻聴じゃ…………ない?」
レトリアは確かに聞いた。しかも先ほどと違い、音の方向も何となく察することができた。それは扉の方からではなく、どういう訳か窓の方向から聞こえたような気がしたのだ。
「……………………まさかね?」
慎重に窓に近付き、恐る恐る窓を開ける。
そして首だけを出し、周囲の様子を確認した。
何も変わったところは見つからない。先ほどと同じ光景があるだけだった。
「はぁ、私…………疲れてるのね」
レトリアはうんざりしたようにため息を吐き、窓を閉めようと両腕を伸ばす。
「どうも、こんばんワ」
直後、眼前に逆さになった悪魔の顔が浮かんだ。
悪魔の挨拶など、耳に残るはずもない。レトリアは叫び声をあげるべく、驚きで限界まで見開いた瞳よりも大きく口を開いた。
「おっと、夜半はお静かに」
悪魔は右手で素早くレトリアの口を覆い、声が漏れ出るのを阻止する。そこでようやくレトリアは、眼の前にいるのが逆さ吊りとなったアモンであることを知った。
「あ、あなた!? どどど、どうして!?」
「お邪魔しますねどっこいしょ」
狼狽するレトリアを他所に、アモンは窓の外からするりと室内へ侵入する。そして部屋の中を一見してから、音もなく窓を閉じた。
「少女趣味とでも言いましょうか、随分と可愛らしいお部屋ですねぇ」
「ほ、ほっといてよ! って、そうじゃなくて!」
「いやぁ、探知結界が外縁部のみで助かりました。この屋敷内にも張り巡らされていたら、どうしようかと思いましたよ」
「結界を……抜けてきたと言うの? いったい……どうやって!?」
納得がいかないといった様子で、ただただ当惑するレトリア。
アモンはその表情を楽しみつつも、埒が明かないので説明を開始した。
「水の上級精霊である彼女が、協力してくれましたので」
「エレーロが?」
「彼女が教えてくれたんですよ。普段、彼女が出入りしている水路の存在を」
レトリアは自然と、いつもエレーロが滞在している噴水の方へと視線をやった。
「た、確かにあの噴水と外の水路は繋がってはいるけれど……。人ひとりがようやく通れる狭さだし、何より常に水で満たされているのよ? 距離もあるし、息だって続かないはずなのに……」
「彼女の協力さえあれば些末な問題です。なに、簡単な方法ですよ。小官はただ、彼女に覆ってもらっただけなのですから。そう、鎧でも着るかのように」
「あなた……エレーロの中に入ってここまでやってきたの!?」
レトリアは再び、驚きの表情を浮かべる。
「おかげで結界も素通り、まさに一石二鳥!」
うんうんと頷くアモンを見て、レトリアは呆れ顔で自分の額を押さえた。
「…………とりあえず、状況は理解できたわ」
「では、小官がここにお邪魔した理由もお分かりですね?」
アモンが訊ねると、レトリアの表情が途端に暗くなった。
そしてしばらくの沈黙のあとで、レトリアは口を開く。
「婚約の件…………かしら」
「あまりに突然のことなので、ティオスらは混乱しています。皆、何があったのか理由が知りたいのですよ。もちろん、それは小官も同じ気持ちですがね」
レトリアは伏し目がちに、窓際の椅子に腰を下ろす。
「カンの良いあなたのことだから、とっくに理由を察しているのではないの?」
「例えそうだったとしても、貴女から聞きたいのですよ。レトリア……君自身の口から」
いつもの茶化すような口調ではない。
アモンの言葉からは、有無を言わさぬ真剣さが感じられた。
そもそもこの場所に居ること自体が、生半可な覚悟でできることではない。もしアルバに見つかりでもすれば、死罪を言い渡されても文句は言えないのだ。
その覚悟の重みが分かったからこそ、レトリアも気持ちに報いる覚悟を決める。
「…………晩餐会の日、母に告げられたの。アキサタナと……夫婦になれと。『天使が天使の子を宿すことで、その子供はより大きな器を授かるかもしれない。軍人ならば、それは当然のことだ』……って」
「例えそうだったとしても、相手はあのアキサタナだ。断る権利ぐらい」
「もし私が婚約を断るようなことがあれば、その代わりは三叉の矛の誰かに務めてもらう。母は……私にそう釘を刺したの」
語るレトリアの瞳は虚ろで、一切の感情を読み取ることができない。
「明後日の披露宴が終わったら……私はその日のうちにアキサタナ家に迎え入れられる。もう二度と、この部屋に帰ることはないわ……」
レトリアが女性らしく彩られた鏡台を一瞥する。
そしてゆっくりとアモンの方へ首を動かし、弱々しい笑顔を見せた。
「アモン、私ね? 戦いが嫌い。諍いが嫌い。人と競い合うのが嫌い」
嘘偽りのないレトリアの本音だった。
「気概も根気もない私だけれど、武闘会だけは頑張ろうと思ったんだ……。ティオスの敵を討ちたいという想いもあったし、母に認められたくもあった」
アモンは口を挟むことなく、告白に耳を傾ける。
「でも何より……私自身が変わりたかった……。役立たずで守られてばかりだった私から……母の隣に並び立ち、皆を守れる私になりたかった」
語りながら、レトリアの瞳に大粒の涙が滲み出す。
それを両の手で拭っても、溢れ出した涙と感情は止まらない。
「私…………頑張ったの…………頑張ったのに……!!!!」
声を押し殺して嗚咽するレトリア。
アモンはその頭を抱え込むように、そっと胸に抱く。
しばらくの間、部屋の中は啜り泣きの声で満たされる。
やがて、レトリアの肩の震えも小さくなった頃、アモンがおもむろに口を開いた。
「…………俺にまかせろ」
小さな声だが、その声はレトリアの耳にはっきりと聞こえた。
不思議な感覚を覚え、静かに顔を上げるレトリア。
ふたりの視線が交差し、時が止まる。
永遠にも似た、見つめ合うだけのふたりの時間。
「いな――――――」
「レトリア様、少しよろしいですか?」
レトリアが口を開いたそのとき、扉の外から聞こえた女性の声によって、時が再び動き出した。レトリアは慌ててアモンから離れ、扉の方へ「ちょ、ちょっと待って!」と声をかける。
「た、大変! 早く逃げ――――――!?」
そう言いながらレトリアが正面へ顔を向けると、そこにはもうアモンの姿は影も形も存在していなかった。開いた窓から入る夜風で、シルクのカーテンがただ揺れている。
まるで夢でも見ていたかのような気分で、レトリアは扉を開けた。
「レトリア様、披露宴の段取りについて確認を……? レトリア様?」
「あ、いえ……大丈夫、少し疲れているだけ」
使用人の話をどこか遠くに聞きながら、レトリアの頭の中では『俺にまかせろ』というアモンの言葉が、いつまでもいつまでも木霊し続けていた。




