第299話 「橋の上の訪問者」
アルバ邸へ向かうであろうアキサタナの背中を見送ったあとも、四人の姿は以前として東区にあった。水路に架けられた橋の欄干に座り、ただぼぅっと水の流れを眺め続けている。
「オレ達じゃ……どうすることもできないのかな……」
ぽつりと、独り言のようにティオスがこぼす。
しかしこの場にいる誰もが、その答えを持ち合わせてはいなかった。
誰にも拾われることのなかった弱音は、そのまま水流の中に消えていく。
「なんとか侵入することはできませんかね」
「無理でござるよ。屋敷を囲うように結界が張られ、空中はもちろん地中からの侵入も不可能。結界を無理に破壊しようとすれば、すぐに護衛の兵士が駆けつけるでござる。以前レトリア様から聞いたので、間違いないかと」
「そりゃ大天使様の邸宅なんだ。厳重な警備が敷かれてるに決まってるよな…………くそ!」
やりどころのない悔しさを、投石という形で晴らすティオス。
石は二度ほど水の上を跳ね、ぶくぶくと無念の音を残しながら沈んでいった。
そのあぶくをぼんやりと眺めていたティオスだったが、数秒後に表情が一変する。
「な、なんだぁ!?」
あぶくの数が増えたかと思うと、どんどんと大きさまで増していく。
やがてそれはひとつの水の塊となって、ティオスの眼の前に発射され、着地した。
「わぁ!! いでッ!?」
「ティオ!?」
橋の欄干からもんどり打って転げ落ち、石畳の地面に強かに後頭部を打ち付けるティオス。しかしその視線は、橋の上に立つ水塊に縫い付けられていた。
人間大のそれは、形まで人間の姿に近づいていく。
皆が水塊の側に寄ったときには、両目に鼻、口までもが備わりつつあった。
エルブがハッと表情を変える。
「もしかして――――――エレーロ? リアが使役……いえ、リアとお友達の精霊では?」
すると人型の水塊はゆっくりとだが、はっきりと首を縦に振った。
「むむ! この者が水の上級精霊……初めて見たでござる……」
「ウッキィ……」
シグオンとエテ吉が、まじまじとその透き通った肢体を眺める。
複数の視線を全身に浴びたエレーロは、素早く物陰に身を潜めた。
「リアの話じゃ、人前に出るのを極端に嫌うって話だったよな? たしか出掛けるときも、リアからはぜってぇ離れないって。なのに、何でこんな所に?」
後頭部を右手で擦りながら、ティオスが不思議そうに言った。
「つまりは、彼女にとってもそれだけ一大事ということでしょう」
アモンは物陰に隠れるエレーロの前にしゃがみ込み、のっぺらぼうのような顔を覗き込んだ。
「人見知りをする貴女が、わざわざ小官たちの前に現れたのです。我々に何か、訴えたいことがあるのでは?」
顔らしきものの瞳のような部位を見つめながら、アモンが穏やかな声で訊ねる。エレーロは逡巡したのち、再びこくりと頷きを見せた。
そして物陰からすすすと出てきたかと思うと、水でも汲むかのように両手を前に差し出した。
「なんだぁ? 何も持ってねぇじゃねぇか?」
「しっ! 静かに」
エルブに窘められ、ティオスが閉口する。
そのすぐあとのことだった。差し出された両手に、ふたつの突起が現れる。それはみるみるうちにふたつの人型となり、不思議な動きを見せた。
大きな人型の突起が、小さな人型の突起へ向けて右腕を振っている。
その光景は、大人が子供を叱りつけているように見えなくもない。
「どちらも女性の姿を模しているみたいですわ……」
「言われて見れば……そう見えるでござるな」
しばらく大きな人型は腕を振っていたが、やがてそこにもうひとつ別の突起が現れる。それは背中のマントを翻すと、両手を腰に当ててふんぞり返った。
そしてその動きと連動するように、小さな人型が顔を両手で覆って頽れ、すすり泣いている。もうそれ以上、人型が新しい動きを見せることはなかった。
「なあ! これってやっぱり‼️」
ティオスが怒気の孕んだ声を上げる。
その言葉の先を聞かずとも、皆には何が言いたいのか分かった。
「考えたくはありませんでしたが、やはりこの婚約の裏には…………」
エルブがそこまでを口にしてから、閉口して瞳を伏せる。
それが事実ならば、あまりにも絶望的だったからだ。
「アルバ卿が一枚噛んでいるとみて間違いないでしょう」
だが、敢えてアモンはそれを口にする。
三叉の矛の三人は表情を曇らせ、一様に俯いた。
「卿の主導か、アキサタナ側から持ちかけたのかは分かりませんがね。しかし参りました、相手があの大天使では……」
大天使はエデンに置いて絶対的な権力を持っている。
この場にいる誰よりも、神に近い存在なのだ。下位の天使や一兵士は、意見できる立場にすらない。
アルバが婚約を承諾したのならば、『受け入れる』以外の選択肢は存在しないに等しい。
「キュィ…………」
表情の暗くなった一同を見て、エレーロは悲しみに満ちた声を漏らす。
「わざわざ私たちを頼っていただいたのに申し訳ないのですが、我々にも……もうどうしたら良いのか…………」
エルブが悔しさを滲ませながら告げると、エレーロは緩慢に頭を振った。そしてくるりと踵を返したかと思うと、肩を落とした様子で水路の方へと戻っていく。
「こ、こうなったら!! オレがアルバ様に直々に訴えてでも……!!」
「拙者たち如きの話に、どうしてアルバ様が耳を傾けるのか。どうせ、先ほどと同様に門前払いを喰らうだけでござる……。いや、それどころか場合によっては、レトリア様が咎を受ける可能性まであるでござるよ……」
「だったら……オレにどうしろってんだよ! ちくしょうッ!!!!」
歯痒さから地団駄を踏むティオス。
その間に、エレーロは橋の欄干の上に立った。
そして水路に飛び込もうと、前屈みの体制を取る。
――――――――――――そのときだった。
「ひとつ、教えていただきたいことがあるのですが?」
欄干に立つエレーロに、アモンが声をかける。
「アモン様? いったい……?」
「もしかしたら……どうにかできるかもしれません」
その言葉を聞いて、少し離れた場所にいたティオスとシグオンも目を丸くして駆けてくる。
「ほ、ほんとかよアモン様!?」
「ど、どうするのでござるか!?」
縋るような視線が、アモンの一身に注がれる。
「………………キュイ……?」
首を傾げるエレーロ。
アモンはその前に立ち、顔を寄せる。
そしてエレーロだけに聞こえる声で、その質問を口にした。
「キュイッ!?」
エレーロは明らかな動揺を見せる。
しかしアモンは、真剣な眼差しを覗かせたまま言った。
「教えてください。貴女にしか、訊けないことなのです」




