第296話 「三つの可能性」
「そこで見たのは――――――何だったんスかッ!!??」
「しっ……声が大きいです」
口先に人差し指を立てたアモンに窘められたトリシーは、ハッとした顔で周囲を見渡して警戒する。そして「申し訳ないッス」と謝罪しながら椅子に腰を下ろした。
ふたりがいるのはアート・モーロ、西区の商店街。
その裏の路地にひっそりと建つ、こじんまりとした喫茶店だ。常連客だけで成り立っているこの店は、昼の書き入れ時にも関わらず閑古鳥が鳴いている。それを知っていたからこそ、アモンはこの喫茶店を待ち合わせの場所に選んだのだ。
「し、しかし……今更ッスけど、本当におれっち何かが聞いていいんスか? 魔女に関する情報は、軍の中でも最重要機密! この喫茶店を出た途端……拘束されて監獄送りなんてことは……」
「大丈夫ですよ。書庫のことを教えてくれた貴殿に、小官が個人的に礼をしたかっただけですので」
「お気持ちはスゴく嬉しいッスけど、なんだか落ち着かなくて……」
あの晩餐会の日から、すでに三日が経過していた。
トリシーは武闘会の記事を書いたのも束の間、いきなりアモンに呼び出されここにいる。心の準備もままならない呼び出しだったが、トリシーは手で両頬を叩いて己を鼓舞した。
「いや、おれっちも記者の端くれ! 一面記事に骨を埋める覚悟はできてるッス!! さ、さあアモン様……続きをどうぞ。魔女の書庫には、いったい何があったんスか?」
「書庫……と呼ぶには違和感のある場所でしたね。せいぜい書斎でしょうか。そこそこの書物と、最低限の生活空間。覚悟して入ったものの、ちょっと拍子抜けでしたねぇ」
「何言ってるんスか!? その置いてある書物に、何か重要なことが書かれているに違いないッスよ!」
ため息交じりに話すアモンとは対照的に、トリシーのボルテージは上がっていく。
「まあ、普通はそう思いますよねぇ。この書物に何かがあると」
「当然ッスよ。その書物に………………」
ふたりの間にあるテーブルの上に、アモンが一冊の古びた本を放り投げた。トリシーはその表紙を眺めたあとで、しばらく沈黙する。
そして――――――
「ぎゃあッ!!?? なな、何で持ち出してるんスかぁ!? こここ、こんなの見たら読んだら触ったら、間違いなく拷問された挙げ句レモラの餌にぃ!?」
「多分、問題はないかと。嘘だと思うのなら、どうぞ手にとって中身を検めてみてください」
「ぐぐ……! し、しかし…………!」
テーブルに投げ出された本と、アモンの顔を交互に見て葛藤するトリシー。だが新聞記者の好奇心には抗えず、やがて恐る恐ると本を手に取った。
そして意を決した様子で本を開き、その中身に充血した目を走らせる。時間が経つと共にページを捲る音が次第に早くなっていき、それに比例するようにトリシーの表情も険しくなっていった。
時間にして一分足らず。
トリシーは開いていた本を静かに閉じ、複雑そうな顔をして口を開いた。
「…………なんスか? これ」
なんとも言えないその表情に、アモンの口から笑いが漏れる。
それを聞いたトリシーは馬鹿にされたのだと感じ、あからさまに眉をへの字にした。
「いやいや、申し訳ございません。あまりに期待通りの反応だったもので」
「そりゃそッスよ! こんなモノを見たら、誰だってこんな顔になるに決まってるッス!! なんですかこりゃ? 全部……暗号文字じゃないッスか!!」
本を指差し、トリシーは頭から蒸気を上らせて憤る。
それもそのはず、魔女の書物に書かれている文字は、彼には解読することができなかったからだ。わずかに理解できるのは、描かれたイラストくらいのものだった。
「いいえ、これは暗号文字などではないんです」
アモンはテーブルの上にある本を拾い上げ、適当なページを開きながら言った。
「これは『日本語』といって、リリトの母国語です」
「二、ニホンゴ?」
魔女の書庫に置かれていた本、約三十冊。
そのすべてが手書きの日本語で統一されており、事情を知らないトリシーからすれば、暗号文字にしか見えないのだ。
「別の国の文字という訳ッスか。……え? でもどうしてアモン様がそれを? もしかして、アモン様はその文字が理解できるので?」
「ええ、一字一句と逃さず理解できますよ。この本に書かれた内容、そのすべてをね」
「まじッスか!? なぜと訊きたいところですが、いまはそれよりも……」
トリシーは言葉を区切り、ゴクリと喉を鳴らす。
そして丸眼鏡の奥から覗く瞳で、アモンが手にする古本への期待と好奇心、畏怖の心境を訴えた。
「そこまで強張らずとも良いですのに」
「焦らさないでくださいッス! 魔女の書物を目の前にして、緊張しないジャーナリストがいる訳ないでしょうが!」
フンと鼻息を鳴らし、文字通りの血眼を向けてくるトリシー。
このままでは客たちの注目を浴び、聞き耳でも立てられるに違いない。そう考えたアモンは、目の前の男の要望に応じることにした。
「…………タル芋の成長過程と、またその収穫時期について」
「は?」
「食用草花の種類と薬効。また適した土壌の――――――」
「ちょっと待ってくださいッス! オレっちが知りたいのはそんな図鑑に載ってるようなモノじゃなく、魔女の遺産についてで」
「ありません」
アモンの言い放った一言に、トリシーは絶句する。
「魔女の遺産らしき記述はありませんでした。それこそ、欠片ほども」
「そ、それじゃあ…………」
「残念ながら、取り越し苦労だったワケですね」
伝説にまでなっていた書物が、蓋を開ければ街の本屋に並ぶほどのありふれた図鑑に過ぎなかった。その事実を突きつけられたトリシーは、目に見えてがっくりと肩を落とした。
「リリトはエデンの発展に大いに貢献した。恐らく、この書物もそのなかのひとつ。いま書店に並んでいる図鑑たちは、公になってはおりませんが……彼女が監修したものが土台となっているのでしょう」
「でも……じゃあなんで大層な結界で部屋を隔離していたんスか? その程度のものなら、別に公開しても問題ないのでは?」
「日本語を理解できなかったのかもしれません。何が書かれているか分からなかったから、仕方なく部屋ごと封印した」
トリシーの肩が、また一段と低くなった。
期待が大きかっただけに、その落胆ぶりも一際である。
「まことに申し訳ないッス! ジャーナリズムに身を置く者でありながら、噂話に振り回され……あまつさえ天使様に徒労を……! このトリシー、一生の不覚!! かくなる上は、タルタロス監獄にて禊の投獄を……!!」
テーブルに額を擦り付け、平身低頭に平謝りするトリシー。
しかしアモンはその姿を見て、「いやいや」と首を振る。
「何を言っているのですか。これは十分な収穫ですとも」
アモンが言うと、トリシーは「へ?」と素っ頓狂な面を上げた。
「良いですか? そもそも、『リリトの書いた本を隠すこと』それ自体がおかしいんですよ。エデン国民の誰も読めない本です。普通なら放置しておいたところで、問題などないはず。にも関わらず、この書物は結界の中に閉じ込められていた。いくら彼女がこの国にとって禁忌の存在とはいえ、あまりに過剰な反応です」
「それはつまり……この本には重大な何かがあると?」
「おそらく。そしてその場合、可能性は三つ」
アモンは右手の指を三つ立てる。
「みっつ?」
「ひとつは、いずれ解読する者が現れたときのために厳重に保管している。ふたつめは、内容が分からないので処分ができず、持て余している。そして最後は――――――」
「さ、最後は………………なんなんスか!?」
鼻息を荒くして、顔を寄せるトリシー。
不安と期待の入り混じった視線を浴びせられながら、アモンは最後の可能性を口にした。




