第295話 「彼の理念」
「チェスやリバーシ、囲碁といったモノもやったが……どうも拙僧には将棋の方が合っているようでね」
老人が孫と遊ぶときのような嬉々とした表情で、トロアスタはテーブルの上に将棋盤を取り出した。駒が両側に整然と並べられ、すでに臨戦態勢といった具合だ。
「振り駒をしても構わないが、どうするかね?」
「小官はどちらでも。大参謀殿のお好きな方で」
「気を使わせて申し訳ないね。じゃあお言葉に甘えて、先手をいただこうか」
パチリという小気味の良い音を出しながら、トロアスタの歩が一歩前進する。堂に入るその打ち方は、老人がそれだけ駒に長く触れていることを示していた。
「なんだか……懐かしいですね」
負けじとアモンも歩を進める。
そしてしばらくの間、交互に鳴る駒の音だけが、ふたりの会話となった。
「……………………」
「……………………」
戦局は一進一退。
しかし白熱した戦いという訳ではなく、互いに定石を無視した自由な指し方をしているからだ。この対局において重要なのは勝ち負けではなく、“対話”にあることをふたりは知っていた。
「攻守の要となる角と飛車は、さしずめ……アルバ殿とファシール殿といったところかな」
「では香車や桂馬は?」
「ふうむ、時と場合にもよるが……敵陣に深く切り込める精鋭、即ち君ら下位の天使たちが適当だろうかね。そして王を守る銀将や金将は、言わずもがな」
「大臣や、参謀である貴方というわけですか」
再び訪れる沈黙。
だがそこに、気まずさなどは露ほどもない。
魔素を使った命の削り合いと違い、この戦いに破れたとて失うものは何もない。しかしそれでいて、適度な緊張感が脳の一部を刺激する。静寂のなか互いの心を読み合うこの時間でしか得られない、心地の良さがあった。
「少し、昔話でもしようか」
そんなとき、トロアスタが視線を盤上に落としたまま、唐突に言った。
「むかしばなし?」
「なに、この老いぼれの暇つぶしに付き合ってくれている礼だよ」
駒を進めるトロアスタの表情からは、心の内は読めそうもない。
真意を探ることを諦めたアモンは、眼の前の老人と同様に視線を落とした。
「リリト=クロウリーと我々が出会ったのは、そう……いまから六百年以上も昔のことになる。最初に目にした彼女は、牢獄の囚われ人だった。君もあの絵本を読んで、知っているだろう?」
「絵本の件、ご存知でしたか。ええ、エデンの……まさにこの地で、魔物に捕らわれていたとか」
「いかにも。かつて、遥か遠くの地に【アンフェール】という名の王国があった。中々な大国だったのだが、それが故の食糧難にいつも苦しめられていてね。このままではアンフェールは遠くない未来に滅びるだろう……と、国の学者たちはそう結論付けた」
ここで初めて、トロアスタは盤上から視線を上げ、天井を仰いだ。
「王は決断した。食材の豊富な新天地を目指し、国ごと移動することにしたのだ。そのために、三人の人間が選ばれた」
「絵本にはこう書かれていましたね。『きし』と『けんじゃ』と『ゆうしゃ』が手をあげた」
「そう。当時の小隊長だったアルバ殿と、生物学者だった拙僧。そして、いち兵士だったファシール殿…………くっくっく」
当時を思い返し、トロアスタが小さな笑い声をあげる。
それがどういった感情から来る笑みなのか、アモンには分からない。
「君からしたら……なんて無謀で愚かな作戦なんだと思うだろう。まるで雲を掴むような話だと。だがね、それだけ当時の我々は追い詰められていたのさ。人間、ときには藁に縋ることを迫られる場合もある。手段を選んでなどいられなかったのだよ」
トロアスタの香車がアモンの懐深くまで攻め込み、成香となる。
盤面は少しずつ、トロアスタの優勢に傾きつつあった。
「長い長い旅路の果てに、我々は遂に緑に満ちたこの大地を見つけた。報告のためには、苦労してたどり着いた道を戻らねばならない。そんな煩わしさすら忘れ、我々は歓喜したものさ。…………だが、喜びも束の間、ひとつ大きな問題があった」
「緑豊かなその場所には、“先客”がいた」
「当然といえば当然かもしれんね。これだけ荒廃した世界、考えることは皆……同じようなものさ。巨木を根城にする魔物らは、ひとりの少女を捕らえていた」
自然と、アモンの視線が持ち駒へと注がれる。
そこには敵軍に捕らわれた、歩の駒が無造作に置かれていた。
「巨木はその無数にある枝のいくつかに、見たこともない朱色の果実を実らせていた。我々は魔物の目を盗み助け出した少女から、果実には特別な力があると教えられ…………その果実を口にした。するとどうだ、不思議な力が体の内より込み上げるではないか」
「不思議な力……ですか。まさかその果実が?」
「そのまさかさ。拙僧の場合は、異常な嗅覚の発達。他者の魔素や感情を嗅ぎ分けられるようになり、広い範囲に渡って敵の居場所を察知する能力が開花した。アルバ殿は空気を纏い不可視の存在となり、ファシール殿は超人的な身体能力を手に入れた。荒唐無稽な能力と不老。素晴らしくもあり、そして恐ろしくもある力が…………その果実には宿っていたのだよ」
過去を語るトロアスタは時々、苦々しい表情で眉を潜める。
その様子はまるで、思い出すだけで痛みが走っているかのようだった。
「“神籬”の正体。一体どうやって天使たちは異能を手に入れているのかと思っていましたが…………まさか果物を口にするだけとは」
「拍子抜けさせて申し訳ないね。その後は魔物を一掃し、大木を神樹セフィロトと名付け、その地に【アンフェール】改め【エデン】国家を建国。国ごとの引っ越しは大仕事だったが、我々はやってのけた。無論、多くの犠牲を払いながらね」
ため息と共に、そう語るトロアスタ。
話はそこで一旦の区切りを迎え、次にアモンが口を開くまで、たっぷり数分の時間を要した。
「話を戻しますが、リリト=クロウリーはその後もエデンに留まったということでよろしいですか?」
「命の恩人である拙僧たちに恩返しをすると言ってね。聞けば、彼女はこの世界の住人ではないと言うじゃないか。最初は半信半疑だったが、リリトの語る言葉にはどこか説得力があった。彼女はとても博識でね、色々なことを我々に教えてくれたよ」
トロアスタはそう言いながら、感心したように頷く。
「遺伝子や細胞、瞳に映らぬ細菌の存在。宇宙や、君たちの住んでいた地球という星のこと。この将棋という遊戯もそうだ。残念ながら、あまり浸透はしなかったがね」
残念そうに頭を振ったあとで、トロアスタは再び盤上へと視線を戻した。
「彼女も我々と同じ、特別な力があった。リリト曰く、囚われているときに果実を食べさせられたそうだ。絵本に書いてあったのは、記憶しているかね?」
「少女が声を掛けるだけで、どこからともなく生き物が現れた。たしかに、絵本にはそう記されていましたね。ということはつまり、リリトの神籬は…………」
「――――そう、【神の声帯】。その能力は……【召喚】。彼女が呼び掛けるだけで、異世界の生物や食物が次元を跨いで姿を現した。まさに神の御業。リリトは魔法こそ使えなかったが、知識と神籬で大いにエデンの発展に貢献してくれた。芯が強く、慈悲深い彼女は住民の皆に愛されていたよ」
絵本の中にも、住民たちに囲まれ、笑顔を浮かべる少女の姿が描かれていた。皆が幸福に包まれた、温かみのあるイラスト。だが、アモンはすでに知っている。そこから数ページも捲ると、その幸せな様相が一変することを。
「しかしあなた方は、リリトを糾弾した。エデンを惑わした魔女として」
アモンの【角】が、相手の【歩】を押しつぶす。
形勢は逆転。トロアスタの表情に、隠し通せない陰りが浮かぶ。
「…………うむ、だがそれにも当然のように理由がある。リリトはエデン国民に偽りの情報を流布し、このアート・モーロに混乱をもたらした。彼女に大恩ある我々だが、まさに苦渋の決断だったよ。彼女は裁判の前日、当時の近衛兵長と共に魔王国に亡命。そのあとは――――――」
『君らの方が詳しいだろう?』
老人の大きな瞳は、そう語っていた。
「偽りの情報……なぜリリトはそんなことを?」
「さてね。だが、その答えを知ることはお勧めしない。藪をつついて飛び出すのが、蛇だけとは限らないからね。それでも知りたいと言うのであれば…………」
トロアスタはズボンのポケットを右手でごそごそと弄り、やがて人差し指と親指でひとつの小さな鍵をつまみ上げた。
「入ってみると良い。君の望むものが、そこにあるかもしれない」
怪しい笑みを浮かべながら、トロアスタは鍵をアモンの手のひらの上に落とす。そして腰を擦りながら立ち上がると――――――
「この続きは、また今度にしよう」
おもむろにそう口にし、盤上の戦いは休戦という結果で幕を下ろすこととなった。アモンは特に文句を付けるわけでもなく一礼し、鍵を手に部屋の入り口の扉へと向かう。
しかしドアノブを握ったところで動きを止め、思い出したようにトロアスタの方を振り返った。
「最後にひとつ確認したいのですが、リリトが吹聴した噂……。即ち軍によるエデン住民の“間引き”。それは妄言であると、『本当に』信じてもよろしいんですよね?」
最後の問いにトロアスタからの返答はない。
ただ無言で、盤上の駒を眺めている。仕方なくアモンは回れ右をし、再びドアと対面した。
そのとき――――――
「例えばの話だが」
アモンの方を見るでもなく、トロアスタが口を開いた。
「小舟で川を渡っているとする。船上には自分の他に、老夫婦とその息子夫婦。さらにその子供たち三人が乗っている」
「うん? 何の話を……?」
「しかし川の半ばで船底に亀裂が入り、浸水が始まった。このままでは、皆の重みで船が対岸につく前に沈んでしまう。だが川の中には魔獣がいて、水の中に入ることは叶わない」
トロアスタはそこで瞳だけを動かし、アモンの方を見た。
「亀裂はどうやっても塞げない。水を掻き出したがとても追いつかず、このままでは船が沈むのは避けられんだろう」
「…………当然、魔法は使えないという前提なのでしょうね」
無言で肯定するトロアスタから視線を逸らし、思考を巡らすアモン。
解決方法は誰もが思いつくほど、明瞭で単純なこと。船の沈みを遅らすために、船に掛かる“重み”を減らせば良いのだ。
「つまりは――――船上の誰かを犠牲にする必要があるということですか」
「明白な答えに辿り着いてなお、実際にその状況となれば多くの者が躊躇するだろう。…………だがね、私は違う」
トロアスタはそう告げると、盤上を右手で払った。
当然のように、ばらばらと床に転がる駒たち。
「拙僧なら迷わず老夫婦を突き落とす。必要であれば、息子夫婦も同様に沈めるだろう。それでもまだ足りぬなら、この身さえ船の外に投げ捨てよう。より良い未来のためであれば、私はどんな犠牲も厭わない」
「それが…………神咒教の教示ですか?」
「いいや、拙僧の理念だよ。私がやらねば――――――誰がやるというのかね?」
その質問に、アモンは答えることはできなかった。「失礼します」と扉を開き、そのまま部屋をあとにする。そして一度だけ振り返ったあとで、再び暗い廊下を進むのだった。
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トロアスタの部屋を出て、数分後。
アモンの姿はガーデン・フォール城の六階、南塔にあるひとつの扉の前にあった。
「一見は何の変哲もない部屋…………しかし」
幾重もの結界に守られている、謂わば開かずの間。
リリト=クロウリーという魔女が過ごした、謎の書庫。
アモンは一呼吸を置いたのち、その扉の鍵穴にゆっくりと小さな鍵を差し込む。トロアスタから貰った、魔女の鍵だ。
――――――カチリ。
その施された結界の数とは相反するように、錠は呆気なく音を上げる。ドアノブを捻れば、また驚くほど簡単に、扉は奥へと身を引いていった。
「虎穴に入らずんば…………。さて、鬼が出るか蛇が出るか?」
覚悟を決めて、アモンは魔女の書庫へと足を踏み入れる。
そして、部屋の奥まで進んだ。
「これは………………………………」
そこでアモンが見たものは――――――――――――




