第294話 「謎の箱」
贅の限りを尽くした晩餐会も幕を下ろし、招待客たちは続々と城門を後にした。湖面に架かった橋の上に、長い灯火の列が続いている。城のテラスから眺めると、それはどこか葬列を彷彿とさせる、幻想的な光景だった。
「アモン様、大人気でしたわね」
「一生分の握手をした気分です。もう当分は差し出された手は見たくありませんねぇ」
アモンが疲れた様子で肩を回すと、エルブが口元を手で覆いながら上品に笑った。
「そういえば、もうひとりの立役者の姿が見えませんね」
「レトリア様でしたら、一足先に屋敷の方へお戻りになられたようで…………」
「我々への挨拶もなしに? 実に彼女らしくない」
「ええ、わたくしもそう思いますわ。それに……少し様子が気になるというか……」
俯くエルブの表情から、レトリアに何か異変があったことは理解できる。しかしアモンには、まるで心当たりがなかった。そしてこの場で考えたところで、答えが出るはずもない。
「それではわたくしも、そろそろ戻らせていただきますわ。ふたりとも、もうおネムのようですから」
エルブがそう言いながら、場内のテーブルの方へと視線を送る。そこには互いに肩を預け合い、うつらうつらと頭を揺らすティオスとシグオンの姿があった。それぞれ骨付き肉と高級果物をしっかりと手にしているが、それが口に運ばれる気配は一向にない。
「アモン様も、もうお休みになられた方がよろしいですわ。なにせ今日は、あの大勇者様と闘ったのですから」
「そうですねぇ……」
アモンがそう口にしながら周囲へと視線を走らせる。
玉座に腰を下ろすエデン王の姿は既になく、テーブルの上の余った料理たちも片付け始められている。大天使らの姿も、どこにも見えなかった。
「小官は少し野暮用がありますので、それを終わらせてから休もうかと思います」
「そうですか。それでは申し訳ございませんがアモン様、わたくしたちは失礼させていただきますわ」
「ええ、本日は応援ありがとうございました。来年もよろしくお願いします……と、ふたりにも伝えておいてください」
「わかりました。でも、来年は寿命の縮まらない方向でお願いいたしますわ! なーんて、ふふ。それではアモン様、おやすみなさい」
冗談交じりの別れの挨拶を告げ、エルブはシグオンとティオスを連れて去っていった。三人の背中を見送ったあとで、アモンは「さてと」と踵を返す。
そのまま大広間を出たアモンが向かったのは、城の上階へと繋がる階段だった。
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ガーデン・フォール城――――――西塔。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
六階のとある一室。
アモンのするノックに応じ、部屋の主が扉を開けた。
そして促されるまま、アモンは部屋に足を踏み入れる。
「そこの椅子にでもかけたまえ。今夜の残り物だが、ヒャク酒で喉でも温めるかね?」
「いえ、お構いなく」
言われた通り、窓辺の椅子に腰を下ろすアモン。
瞳を動かせば必ずなにかの本に触れるほど、書物に支配された部屋だった。
「窮屈な部屋ですまないね。客人を呼ぶこともあまりないものでね」
トロアスタは、アモンと対面する形で椅子に座る。
そしてふたりの間に置かれた丸テーブルの上へ、平たい箱をひとつ置いた。
「まずは……そう、武闘会の優勝おめでとう。君は頭が切れるだけでなく、度胸もありセンスもある。君を天使に推薦した私も、鼻が高いというものだよ」
大きな鼻を持ち上げ、誇らしげに胸を張るトロアスタ。
しかしアモンの視界には、否が応でも謎の箱が侵入してくる。
トロアスタがわざわざ用意したものだ。意味のない物があるはずもない。
「ありがとうございます。最後は無効となりましたが、優勝の栄誉は光栄の至り。そしてエデン王からの褒美も…………」
「ふむ、王はなんと?」
「“魔女の書庫、その鍵ならば――――トロアスタが持っている”……と」
「なるほど。君にそう告げたということは、王は書庫の閲覧を許可しているようだね。よろしい、ならば拙僧が出し惜しむ理由もない」
納得のいったような顔で、トロアスタは頷く。
そして顎髭を一度だけ撫で、おもむろに目の前の箱に両手をかけた。
だがそこで、ピタリと腕が止まる。
「しかし、鍵を渡せば君はすぐにでもこの部屋を去ってしまいそうだね」
気が変わったとでも言わんばかりに、トロアスタはアモンの顔を覗き込む。そのぎょろついた大きな瞳には、好奇の色が見え隠れしている。
「どうだろう? ここはひとつ、この老いぼれとも“勝負”をしてもらえないだろうか?」
「勝負? 鍵をかけて……ということですか?」
「いやいや、勝敗に関係なく書庫の鍵は渡すとも。この勝負は言ってみればそう、孤独な老人の暇つぶしのようなものさ。誰も対戦してくれんのだよ、拙僧とはね」
やれやれと呆れたように首を振り、トロアスタはおもむろに上箱を持ち上げる。
「これは………………」
中身を露わにした謎の箱。
目を見開いたアモンの前には、縦横が九つのマスで区切られた木製の盤があった。盤上には沢山の駒が、整然と並べられている。そして駒たちには、それぞれ文字が彫られていた。
「“金”に“角”、そして……“王”。これはまさか…………」
アモンは瞳を駒から持ち上げ、目の前に座る老人の方へと向けた。
すると老人は薄く笑いながら――――――
「君も指せるのだろう? “将棋”」
そう口にするのだった。




