第289話 「願いをひとつ」
「ただいま」
「リア~~! 信じでだ~~!!!!」
激戦を終え控室に戻ってきたレトリアに、涙で顔をくしゃくしゃにしたティオスが抱きつく。他のふたりも、レトリアの下に駆け寄ってくる。
「一時はどうなることか思いましたわ。でも、途中で止めに入らなくて、本当に良かった……。さあ、体を見せてくださいませ。治療いたしますわ」
レトリアが負った無数の傷を、エルブが治癒魔法で丁寧に治療していく。擽ったそうにしながらも、レトリアは嬉しそうに身を任せた。
「それにしても、さすがはレトリア様でござる! あのグラシャを翻弄する、みごとな作戦でござった」
「ありがとう。でも、この作戦を考えたのは私ではないの」
「へ?」
きょとんとした顔をするシグオンの後ろに、アモンがゆっくりとやってくる。そこで初めて、トライデントの三人はあの作戦が誰の入れ知恵であるかを知った。
「二度使える方法ではありませんが、素晴らしい手際でした。優勝、おめでとうございます」
「あなたの助言のおかげよ。本当に……ありがとう」
胸中にある複雑な感情を持て余したふたりは、それから無言で見つめ合う。
しかし一分も経たぬ内に、足音がひとつ皆の方へと近づいてきた。
見つめ合っていた視線を外し、音の方へ顔を向けるふたり。
そこに立っていたのは――――――
「ご苦労であったな、エデンの誇る天使らよ」
顔を合わせた直後、出し抜けにそう口にしたのは、ティオスほども背の低い小太りの男だった。初老と言っても差し支えのないその男は、その身なりから位の高い人間であることが分かる。レトリアらに至っては、驚いた表情を浮かべるなり姿勢を正していた。
「どちら様で?」
しかしアモンはそんなことは意に介さず、いつもの調子で訊ねる。
案の定、レトリアが「し、失礼よ!」と狼狽しながら小声で言った。
小男はムッと眉間にしわを寄せ、わざとらしい咳払いをひとつする。そして尊大な表情を浮かべながら、口を開いた。
「我輩の名は【モンパイ=カリパプ】。この国の右宰相である」
(王の相談役で軍事も総括する、実質的な軍の最高責任者よ。つまり、この国で二番目に偉い人)
レトリアがアモンに耳打ちする。
その瞬間、アモンの頭の中に“ある言葉”が蘇った。
『重要事項はすべてトロアスタらが決定し、モンパイがそれを王に伝える。私がこの国の政に介入する余地など、どこにもないのだよ』
それは書庫で会った、キルフォの言葉だ。
吐き捨てるように言うその様子から、目の前の小男を良く思っていないことは確かだった。
「左宰相のキルフォのような飾りとは一緒にするでないぞ? 我輩は名実ともに王の右腕である。我輩の言葉は、エデン王の言葉と考えよ」
クルンと曲がった口髭を人差し指と親指で摘みながら、モンパイは偉そうに胸を張った。しかし腹が出ているせいで、他人からは腹を張っているようにしか見えない。
「え、ええっとそれで、モンパイ様は何用でこちらへ?」
話が進まないので、レトリアが横から訊ねる。
するとモンパイはまた咳払いをひとつしてから、ふたりの方を見た。
「王が諸君らに祝辞を贈りたいそうだ。あちらの方まで、来てもらえるであるか?」
そう言いながら、モンパイはアリーナの方を顎でしゃくった。
王からの祝辞、それはエデンの住民としてこれ以上ないほどの栄誉。
レトリアは喜びをつつも、緊張で表情を強張らせた。
「は、はい! もちろんです! モンパイ様、直々にありがとうございます」
「よいよい。天使が優勝するのは、めでたきことよ。大天使に少しでも近づけるよう、励むがよいぞ」
モンパイはそれだけを伝えると、大きな腹を揺らしながら来た道を戻っていく。そうしてようやく、レトリアらは姿勢を崩すことができた。
「はぁ~…………驚いたでござる。まさかモンパイ様が現れるとは……」
「進軍前の演説なんかで遠くから見たことあったけど、こんな近くでは初めてだな」
「私もビックリしちゃった……。でも、これから王様と会うのよね。うう……緊張してきちゃった。どんなお言葉がいただけるのかしら……」
王から言葉をかけてもらえるのは、自身の降臨祭以来のこと。
レトリアはさらに表情を硬くし、深呼吸を繰り返した。
「まあ、行けば分かりますよ」
「お、置いていかないでよ!」
アモンがアリーナへ向けて歩き出し、レトリアも慌てた様子でその後ろに続く。トライデントの三人の声援を背中に浴びながら、レトリアはアモンと共に大扉を潜った。
「し、静かね…………」
アリーナには試合のとき同様に観客たちが座っていたが、様子は随分と違っていた。大人から子供まで、誰もが口を閉ざし、音もなく座っている。そんな静寂に包まれたアリーナの中を、レトリアは緊張した面持ちで歩いた。
そしてリングに上がり、アモンと並んで跪いたところで、観客席の正面にある絢爛な天幕の御簾が競り上がる。中央の玉座のような椅子に鎮座するのは、エデン国王その人だ。王の傍には、パイモンの姿もあった。
「双方とも、大義であった。苦しゅうない、面をあげい」
国王は厳かな声でそう言うと、老人特有のゆっくりとした動きで立ち上がる。アモンらも王の言葉に従い、顔を上げた。
「此度の武闘大会も、エデンの名に相応しい素晴らしきものであった。それも剣魔、両方の部の勝者が天使……かつ初優勝の快挙である。いま再び、両者の健闘を讃えようではないか」
王が大仰に両手を開き、観客たちは賛辞の拍手をリング上のふたりへ贈る。レトリアはここでようやく優勝したことを実感し、こそばゆい気持ちと同時に、誇らしい気持ちが胸に湧き上がるのを感じていた。
しかしその感情も、次の瞬間には霧散する。
「だが、武闘大会はまだ終わりではない。真の優勝者は……ただひとり。明日の最終試合で勝利した者にこそ、最高の栄誉が与えられるのだ」
――――――そう。
まだ最後の試合が残っている。
アモンとレトリアは、自然と互いの顔を見つめていた。
明日にはこのとなりにいる者同士で、決着をつけねばならない。
「明日の試合、同じ時刻に最終試合を執り行う。その試合の勝者には、余が直々に褒美を与えようではないか。双方とも、そのときまでに願いを考えておくがよい。明日の試合も、胸躍る戦いを期待しておるぞ」
王はそれだけを伝えると再び椅子に腰を下ろし、もう何かを語ることはなかった。その後はトリシーが簡単な締めの挨拶をし、この日の武闘大会は終了となる。
しかしアモンもレトリアも、いやトライデントの三人にまで、先ほど突きつけられた現実は重く肩にのしかかっていた。
「………………」
「………………」
皆で一緒に闘技場の外にまで出てきたというのに、誰も口を開かない。
誰もが無言のまま、入り口の扉の前で足を止める。
「……それでは、拙者たちはここでドロンするでござる」
「ええ、今日も応援ありがとう」
「明日もその……応援してるぜレトリア様!」
「アモン様のことも、応援させていただきますわね」
どこかぎこちのない挨拶を交わし、トライデントの三人は闘技場を去った。それが明日、雌雄を決するふたりへの気遣いだということは、アモンとレトリアも分かっていた。
「あ」
トライデントたちがいなくなったあとで、レトリアが小さく声をあげる。
その視線の先には、アルバの前で申し訳なさそうにするグラシャの姿があった。
「誠に……申し訳ございませんアルバ様! かくなる上は、この腹を切ってお詫びを…………」
「もうよいと言っている。本当に申し訳ないと思うのなら、行動と結果で示しなさい。切るのなら腹ではなく、魔物を切れ。それがエデン軍人だ」
「不甲斐のないこのグラシャを…………ゆ、許していただけるのですか?」
「来年は勝ちなさい。それがお前を許す条件です」
アルバが言うと、グラシャは何度も「必ず!」と頷いた。
そんなふたりの姿を、レトリアはなんとも言えない表情で眺めている。
そしてふとしたとき、レトリアとアルバの視線が交差した。
「……………………行くぞ」
「は、はい!」
だが優勝した娘に言葉をかけることもなく、アルバはグラシャと共に去っていく。レトリアは遠くなるその背中を無言で見つめながら、おもむろに口を開いた。
「ねぇ、アモン。明日の試合、もし私が勝ったなら……ひとつお願いを聞いてもらっても良いかしら?」
そう話すレトリアの瞳は、どこか憂いを帯びている。
だからアモンも、端から無下に扱おうとは思わなかった。
「お願いですか? 小官にできることならば、叶えて差し上げたいところですが……。それはいったい、どういった内容で?」
「それは………………」
アモンの質問に、レトリアが言い淀む。
だがやがては意を決したように顔をアモンの方へと向け、そして一息の内に、その願いを口にした。
「私が勝ったら――――――その仮面の下の顔を見せてちょうだい」




