第282話 「闇 VS 闇」
それがあまりに唐突だった為に、実況のトリシーだけでなく、観客たちまでしばらく言葉を発することができなかった。
やがて客席から小さなざわめきが聞こえてきた頃、我に返ったトリシーがようやく口を開く。
【 え~~~と…………申し訳ございません、ティフレール選手。いま……なんと? 】
「だ~か~ら、降参。ギブアップ。あーしの負けで良いっつってんの」
「ちょ、ちょっと! どういうことよ!?」
レトリアも意味が分からないとティフレールに詰め寄るが、その堅い意志は覆りそうもない。このままでは埒が明かないと、実況のトリシーも仕方なしにレトリアの勝利を宣言した。
「おいおいおい!? ど、どうなってんだ?」
一度にどよめきに包まれる観覧席の中で、ティオスも困惑を露わにする。しかしその謎に答えられる者は、周りのどこにもいなかった。
「決着前に何か会話していたようでござるが……。ここからでは良く聞こえなかったでござるな」
「どんな会話があったってよ、あのティフレールだぜ? 自分から降参するようなタマじゃねぇだろ?」
「拙者に言われても困るでござるよ」
首を傾げるティオスとシグオンのとなりで、静かに石舞台上を見つめるアモン。すでに勝敗のついたその場所では、いまだレトリアがティフレールに不満をぶつけているところだった。
「納得がいかないわ! 誰がどう見たって、あなたの方が優位に立っていたはずよ!」
「勝ったんだからい~じゃん。あーしにはこんな汗くせぇ大会よりも、ずっと大事な用事があんのよ。初戦突破おめでとう。じゃあね、レトリアちゃん」
「あ! ちょっと!?」
取り付く島もないといった様子で、ティフレールはさっさとアリーナを去ってしまった。彼女が不可解な行動を取るのは、いまに始まったことではない。レトリアは甘んじても、この結果を受け入れるほかなかった。
「何はともあれ、勝ったことに違いはねぇ! 行こうぜ!」
「そうでござるな。いまはこの勝利を喜ぼうでござる」
ふたりは弾んだ足取りで階段を下りていく。
そしてアモンもその後ろに続こうと、足を踏み出した。
そのときだった――――――
「…………まずは……おめでとうと…………言うべきなのかしら……?」
まるで地の底、黄泉の国から聞こえてくるような陰鬱な声が、アモンをその場に縛り付ける。背後から感じるのは、振り返るのさえ躊躇いたくなる負の気配。例えるなら暗闇の中、周囲で大量に虫が蠢いているような……薄気味の悪い気配だ。
しかしこのまま、無視する訳にもいかない。
アモンは警戒心を抱きつつ、振り返った。
「……貴女は」
背後に立っていたのは、黒いローブを着た若い女だった
熱気の上るこの暑さのなか、頭まですっぽりとフードに覆われている。
なんとか顔面は露出しているものの、肌は病的に白く、唇も化粧か血色か紫に染まっている。目の下のクマも酷い有様で、ひと目で健康的とは対局の位置にいる存在であることが分かった。
「…………うふふ……抽選時は簡潔でしたので、改めてご挨拶をと…………。私はワルキューレ隊の……スカルフォ。恐れながら……天使様の初戦のお相手を務めさせていただきますわ……」
スカルフォは妖しく笑うと、恭しく頭を下げる。
だがその殊勝な態度とは裏腹に、発せられた声には少なからずの侮りが含められていた。
「これはこれは、ご丁寧にどうも。そういえば、次が我々の試合でしたね」
「…………はい……。ですからこうして……やってまいりました……」
「小官に教える為に、ですか?」
アモンが訊ねると、スカルフォは「いいえ」と頭を振る。
そして粘着的な瞳を浮かべたかと思うと、おもむろに闘技場の入口の方を指差した。
「いまなら……この場を去ったとて尊厳を守る理由も用意できましょう…………。敵前逃亡も立派な戦略…………私は天使様を尊重いたしますわ…………」
「とどのつまり――――負けてブザマな姿を晒す前に、試合を放棄しろと?」
スカルフォはその問いを、不気味な笑みで肯定する。
「試合が始まったら……降参を宣言するのもお恥ずかしゅうございますわ……。悪いことは申しません。天使様が医療用テントでお過ごしになられるのは…………私としても忍びないのでございます……」
それが挑発であることなど、アモンだって百も承知している。
しかしアモンは表情を崩すことなく、深々と頭を下げた。
「お心遣い痛み入ります。後ほど、あの石舞台の上でお会いしましょう」
「…………なるほど……あくまで敗北を選択すると……。うふふ……承知いたしました…………楽しみにしておりますわ…………」
スカルフォが階段を降りていくのと同時に、トリシーがいまだ騒ぎの収まらない観客たちを宥めにかかる。次の試合は、もう目前に迫っていた。
「おっと、こうしてはいられませんね」
侍女が次の出場者である自分を探しているに違いない。
アモンは早足で階段を下りていった。
:::::::::::::::::::::::
「ご武運をでござる~!」
「オレの仇の片割れを倒してくれ~!」
「アモン!! ボコボコよ! 完膚なきまでに、ボッコボコにしてやるのよ!!!!」
石舞台上に立つアモンの背中に、観覧席から数少ない声援が投げかけられる。その中でもひときわに声が大きいのは、怒りの形相を浮かべるレトリアだった。
「仲間の試合と先ほどの試合で、随分とフラストレーションが溜まっているようですねぇ……」
アモンは怒りの冷めやらぬレトリアから視線を外し、正面の豪華な天幕の方へと顔を向けた。王の姿は見えないが、その両脇には泰然と立つ大天使の姿が窺える。
大将軍アルバに、大参謀トロアスタ。そして……大勇者ファシール。
三大天は思い思いの感情で、アモンの瞳を見つめ返していた。
「…………私のことなど…………視界に入らないとでも言いたげですわね…………」
アモンの視線が気に入らないスカルフォが、手首のローブを噛みながら恨めしそうに言った。
「いままでの大会で…………天使が敗北したのは一度や二度ではございませんのよ……? 生門の器が大きいだけでは……超えられぬ壁もあるのですわ…………」
スカルフォの体から、毒々しい魔素が立ち昇る。
それはアモンが初めて感じるほどの、陰気を孕んだものだった。
「いえいえ、まさか。大将軍の片腕を侮るような真似はいたしませんとも。そもそも小官は、貴女のことをまったくと言っていいほど知りませんし」
「…………ならばこれから……嫌というほど思い知らせて差し上げますわ……」
双方ともに戦闘の準備が整い、闘技場内に黒とも紫とも言い難い異質な魔素が充満する。あまりに異様なその空気に呑まれ、実況のトリシーも思い出したように飛音石のマイクを握った。
【 お、遅くなりましたが選手紹介とさせていただきます! 私から見て左手に立つのは、前大会の魔導士の部の決勝で、ティフレール様と死闘を演じた精霊術のスペシャリスト!! 闇を纏ったその出で立ちは、戦場で魔物たちに畏怖の念を植え付けることでしょう!! 悩みのタネは友人がいないこと! スカルフォ=グリモワール卿~~!!!! 】
紹介から少し遅れて歓声が上がる。
それが収まるのを待ってから、トリシーは再び口を開いた。
【 対するはつい先日、エデンに降臨された仮面の天使!! すべてが謎のベールに覆われた第七番目の天使は、果たしてどのような戦いを見せてくださるのか!? そしてまた、どんな決着が待っているのか! ベールで隠されたこの試合の結末を、いまから我々のこの眼で確かめたいと思います!! 黒衣の天使、アモン卿~~!!!!】
スカルフォの瞳が暗く、深く沈んでいく。
「……私はアルバ将軍の左腕…………死霊術師のスカルフォ……。さあ天使様…………楽しい死合を始めましょう……?」




