第272話 「俺たちにできること」
暗く冷たい闇の中を、ひとつの部屋が漂っていた。
いや、それは部屋と呼ぶには語弊があるかもしれない。二十畳ほどの土の上にいくつかの家具が無造作に置かれており、天井と壁が存在しないのに窓があった。
しかし、いま窓から見えるのは漆黒の闇ばかり。手を伸ばしてみても、掴めるものは何もない。ベッドから少し離れた場所には成人男性をゆうに越える両開きの扉があり、歪な紋様の刻まれたソレには、ぐるりと囲うように鎖が巻き付けられていた。だが当然というべきか、扉の先には闇しかない。
「くそ!! このッ!!」
そんな凡そ人間が住むのに適しているとは言えない場所で、大扉の鎖を壊そうと悪戦苦闘する人間の姿があった。かつて魔王国で激動の日々を送っていた、その人物の名は――――――
「稲豊、いい加減に諦めろよ。その扉はお前がどうにかできるほど、やわにできてねぇんだって」
ベッドの上で横になり、誂うように言うのは白髪の優男だ。
緋色の瞳とコウモリのような羽を持つその男は、何を隠そう魔王サタン。
そして大扉に悪態をつきながら座り込んだのは、志門 稲豊だった。
「じゃあ他に、俺に何ができるってんだよ。こんなワケの分からねぇ場所で、ただ指を咥えてじっとしてろって言うのかよ!」
「ひでぇ言われようだな。ここは侵食の行き届いていない、謂わばオレ様たちにとっての最後の砦なんだぜ? オレ様がこの場所を守らなかったら、お前はとっくにアモンの野郎に呑み込まれてたんだ。少しは感謝して欲しいね」
「そ、それはありがたいと思ってるけど……でももう見てられねぇんだよ」
稲豊は窓に近づき、その暗闇の向こう側へ目を凝らす。
いまは泥のような闇しか目に入らないが、そこにはときおりアモンの見ている光景が浮かぶことがあった。光景にはしっかりと音もあり、そのときだけはこの音のない空間が、ふたりの声以外で満たされる。それは現在の状況を確認できる、唯一の手段だった。
「気持ちは分かるけどよ、前にも言った通りここはお前の精神世界。つまりは心ん中だ。んで、この場所以外はぜ~んぶアモンに支配されてる。奴が自主的にステージを降りない限り、お前の肉体はずっと奴の思うがままだ」
「んなこと……言われなくても分かってる。でも、さっきのルト様とのやりとりではっきりした。奴は相手がルト様だろうと、容赦なく攻撃する。まったく、とんでもねー野郎だぜ!」
吐き捨てるように言う稲豊だったが、向けられた緋色の瞳は冷ややかだった。
サタンは深いため息を吐いたあとで、頭を掻きながら上体を起こす。
「あのなぁ……。いつか自分で言い出すまで待っていようと思ってたけどよ、お前があまりにポンコツなんでこの際はっきり言っとくわ」
「な、なんだよ急に……?」
「お前はアモンが魔法で生み出された邪悪な人格か何かかと思っているようだが、それは誤解だっつってんだよ」
稲豊は突然のことに、何がなにやら分からないといった顔をした。
そんな当惑した様子の眼前まで、サタンが自分の顔を近づける。そして鋭く尖った歯を覗かせながら、はっきりとした口調で言った。
「アモンを作り出したのは、お前だよ志門 稲豊。お前がすべての元凶なんだ」
ただでさえ困惑していた顔が、さらに混沌なものへと変わる。
次に稲豊が口を開くまで十秒を要したことが、その衝撃の度合いを物語っていた。
「俺が作ったって……どういうことだよ? なんで俺が、あんなワケの分からねぇ仮面野郎を作らなくちゃならねぇんだよ! あいつは洗脳魔法の影響で――――――」
「残念だったな、洗脳の魔法に新人格を生み出すような効力はねぇよ。トロアスタがいままで洗脳の魔法をしくじってきたのも、恐らくそこが課題だった」
「で、でも現に俺の体はアモンっていう人格に支配されてるじゃねぇか。あれは魔法とは関係ないって言うのかよ?」
「そこまでは言わねぇ。けど、魔法はあくまできっかけに過ぎない。深淵なる闇を手繰り寄せ、現実の人格と置き換える。要するに、お前が心の中にしまい込んだ魔物への畏怖や憎しみ、ストレスやトラウマ。そういったものが複雑に絡み合い、洗脳魔法で表に出てきたのがアモンっていう存在なんだよ」
爪の尖った指を突きつけられ、糾弾されるように現実をも突きつけられる稲豊。それは正論という名の暴力となって、稲豊の頭を強く激しく殴りつけた。
「アモンのしている仮面はマースとミースの影響だし、マントを操るのはナナから貰ったもので思い入れがあったからだ。手袋をしているのも虫への苦手意識から、そんで大仰な仕草や『小官』っていう一人称は…………」
そこまで言われて、稲豊はようやくすべてを理解した。
普通なら、ずっと以前に気づいていてもおかしくはない。目で見ていながら、耳で聞いていながら、稲豊は見て見ぬふりを続けてきた。
「…………………………『レフト』……か」
アリスの谷で命を落とした、稲豊の友人。
その変わった性格や仕草は、稲豊の脳裏に強烈に焼き付いていた。
「お前は自分では抱えきれない出来事がある度に、その闇を吐き出さず溜め込み続けた。それは自分の心を守るための防衛本能のようなものだったのかもしれねぇが、その結果アモンという魔人が誕生した。責任を取れとは言わねぇし、状況が状況なだけに仕方がなかったとも思う。だが、その存在を否定するのは許さねぇ。あれは誰が何と言おうと、オレらが生み出したものなんだよ」
「………………くそッ!」
稲豊はぶつけようのない怒りを覚え、右拳を地面に叩きつける。
本心では分かっていたのかもしれない。だがルートミリアを殺そうとした存在を、認める訳にはいかなかった。それを自分が生み出したなど、信じたくなかった。
だがもう目を逸らすことはできない。耳を塞ぐことはできない。
アモンという存在は紛れもなく、己が生み出した怪物なのだ。
「この大扉はアモンに……いや、お前によって封印された扉だ。強く長く閉ざされたせいで、もはや自分自身ですら開くことができやしねぇ」
「でもだからって……ここで何もしないワケにもいかねぇだろ? なにか……なにか俺たちにもできることがあるはずだ! アモンの攻撃だって、逸らすことができたんだから!!」
「だから何度も言ってんだろ? オレ様たちにできることは何もねぇって」
サタンは投げやりに言うが否や、再びベッドの上に横になる。
「確かにお前の強い意思でルトへの攻撃は回避できた。だが、それだけだ。攻撃を逸らせたところで、この最悪な状況は何も変わっちゃいねぇ」
「そ、そうかもしれねぇけど…………」
「ハァ…………ほれ、そこ見てみろ」
サタンの羽が器用に開き、その先端が離れたところにある机を指し示した。
とりあえず言われた通りに、稲豊は机の方へ視線を向ける。
「なんだよ? この机が何だってんだ?」
何の変哲もない、木製の机。
漆黒に隣接するように置かれたそれは、どこか稲豊の部屋の勉強机に似てなくもなかった。
「気づかねぇか? その机、最初は暗闇からもっと離れてたんだぜ?」
「え?」
言われて初めて、稲豊は思い出した。
確かにその机は最初にこの場所を訪れたとき、ぐるりと一周した記憶がある。しかしいま机の後ろに周ろうとすれば、闇の中へ落ちてしまうだろう。そうなれば、ここに戻って来られる保証もない。
「もしかしてこの部屋…………狭く……なってる?」
「アモンの侵食が進行――――もとい侵攻してんのさ。いまはアモンになり日が浅いからオレ様たちの影響を受けちゃあいるが、それもそのうち無くなる」
「それってつまり…………俺たちが…………」
「そう。……奴に呑み込まれ消滅するってことだ。そうなれば奴の放った魔法は、今度こそルトを殺す」
アモンの放った魔法がルートミリアを捉え、その五体をバラバラに引き裂く。稲豊はその恐ろしい光景を想像し、ぶるりと体を震わせた。
「だがそこまで分かっちゃいながら、オレ様たちには何もできねぇのさ」
「本当に……本当に俺たちには……どうすることもできないのか?」
「そうさな、ここにいるオレ様たちが唯一できることと言やぁ……」
サタンは左手の親指を立て、その指を口元へと持っていく。
そして親指の先を噛みながら――――――
「こうして、指を咥えることぐらいだな」
そう言い放つのだった。




