第271話 「対極の決意」
絹糸のような美しい白髪。
ルビーを彷彿とさせる、緋色の両眼。
シミひとつない、陶器の如くきめの細かい肌。
何かの見間違いでも、幻でもない。
そこには現実のものとして、ルートミリアが立っていた。
「レトリア、ほかの兵士たちに知らせてください」
アモンがルートミリアを見つめたまま言った。
「でも……」
「彼女の狙いは魔物に協力をしていた労働者たちかもしれない。小官はひとりでも大丈夫ですので、さあ早く」
「わ、わかった…………行くわ」
レトリアは後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、駆け足で来た道を戻っていった。アモンはその後ろ姿を見送ったあとで、顔を再びルートミリアの方へと向ける。
「兵士の姿が見えませんが、まさか貴女ひとりですか?」
「魔王国は未曾有の混乱状態での、動かせる兵はもうほとんどおらんのだ。ここにおるのも妾を運んだネブと、案内役のミアキスくらいじゃ」
「それはありがたい。魔王国が弱体化するのは、我々にとって何よりの朗報でございます。しかし、貴女は本当に大胆というか無謀というか。ここはエデン領内ですよ? 不法入国は、問答無用で重罪です」
「妾はエデン法では前科百犯の極悪人、いまさらじゃ。それに、異世界から来たお前に不法入国などと言われとうないの」
「なるほど、確かに! これは一本取られましたねぇ」
久しぶりの再会で繰り広げられる会話は、思いの外に流暢なものだった。
しかしふたりの顔は薄く微笑んではいるものの、互いの瞳に笑みはひとつもない。
「ひとつ謎なのですが、なぜ小官がこの場所に来ると? あらかじめ分かっていたのですか?」
「さあな。なんとなく、ここに来ればお前に会える気がした。ここはアート・モーロに近づける限界の場所でありながら、シモンにも思い出が深いところじゃからな。三日目にして会えたのは、幸運と言わざるを得んがの」
「ということはやはり、狙いは小官ですか」
呆れたと言わんばかりに、ため息をつくアモン。
ルートミリアはその姿を静かに眺めたあとで、明白とした口調で言った。
「魔王国に帰ってくれ、シモン」
笑みのひとつもない表情が、その言葉に嘘偽りがないことを示している。
予想の中にありながらも、ルートミリアの真摯な言葉はアモンに少なからずの動揺を与えた。
「魔王国はこれから前例のない食糧危機に陥るだろう。子噛み孫食う本物の飢饉じゃ。大勢の国民が、飢餓に喘ぐに違いない」
「そのために、小官の力が必要だと?」
「そうだ。しかし、それは魔王国の代表としての願い。そしてこれから話すのは、ただのルートミリアとしての願いだ」
ルートミリアは瞳を落とし、見てるだけで痛みが走るほどの沈痛な表情を見せる。
「仲間として、相棒として、想い人として……妾はお前に帰って来て欲しい。お前が居なくなったことでマリーもクリスも……ソフィでさえ、見る影もないほど消沈しておる。妾たちには――――お前が必要なのだ」
いつも強気なルートミリアからは、考えられないほどの弱々しい声だった。アモンは最初、彼女が何かしらの計画を持ってここを訪れたのだと思っていた。気を抜けば何かしらの方法で身動きを封じられ、魔王国へ拉致されるものだと考えていたのだ。
しかし蓋を開けてみれば、彼女の取った手段はそんな前向きなものではなかった。本当に困った弱者がするように、情に訴えるだけの精一杯の懇願。それがいまのルートミリアにできる、唯一の“作戦”だったのだ。
「くっくっく! ハーーーーハッハッハ!!」
込み上がる笑いを我慢できず、アモンは身を捩って哄笑した。そして涙目になりながら、ルートミリアの顔を見る。
「なぜ小官が魔物なんかを助けねばならぬのですか? 確かに小官には、食糧問題を解決するという最重要使命があります。しかしそれは人間に適用されるのであって、魔物はアウト・オブ・眼中! 貴女方がどうなろうが、小官の知ったことではありません」
ルートミリアの表情が、輪をかけて曇ったものになる。その姿がおかしくて、アモンは一層と笑い声を強くした。
「おもしろい余興をどうもありがとう。ではそろそろ無駄話は終わりにし、本日のメーンイベントを始めましょうか。大人しく拘束されるのをオススメしますが、抵抗しても小官は一向に構いませんよ」
右腕を緩慢に持ち上げたアモンは、上に向けた右手のひらに魔素を集中させた。すると周囲の景色を歪ませるほどの濃密な魔素が、右手の上で渦を巻き始める。
「それはお前の本心なのか? いまのその姿が、お前の本当の姿だとでも言うのか?」
「無論です。昔の小官は弱かった。その弱さがゆえに、大切なモノも何ひとつ守ることができなかった。ですが、見てください。今はこんなにも強くなった! 小官はもう何も失わない! この姿、この能力こそが小官が渇望したもの!! 今や私は……貴女さえ超える存在となったのです!!」
魔素は黒く毒々しい氷塊に変化したかと思うと、すぐにまた槍のような形状へと姿を変える。それは見る見るうちに体積と鋭さを増し、数秒後には牛よりも巨大な氷柱となってアモンの手の上に浮かんでいた。
「……ならば、その氷槍で妾を貫くがいい。妾は逃げも隠れもせん」
「殊勝な心がけですが、手心を加えるつもりはありませんよ? ここで貴女を倒せば、このくだらない戦争も終わりを迎えるのですから」
「逃げも隠れもせんと言うておる。お前の好きにしろ」
「では――――そのお言葉に甘えましょう!」
アモンは口端を三日月のように持ち上げると、投石でもするかの如く右腕を振るった。氷槍はルートミリア目掛け、唸りをあげて飛んでいく。
回転も加わった氷槍は、触れるだけでも重傷を負うに違いない。
しかしルートミリアは、その場を動こうとはしなかった。魔法を展開する素振りさえ見せず、ただじっとアモンの姿を見つめている。
やがて一秒にも満たない一瞬の間に、氷槍はルートミリアの眼前まで迫った。
そして――――――
「…………ッ!」
氷槍はルートミリアの脇を抜けて、背後にある木々をいくつもなぎ倒してから止まった。一摘みの静寂が、ふたりの間を流れる。
「上手く躱しましたね。では、これならばどうですか?」
今度は手のひらの上に、黒色の電気が走った。
それは次第に大きくなっていき、火薬の爆ぜるような音と共に漆黒の稲妻へと成長する。
「そろそろ、死んじゃってください」
アモンが手のひらを前へ掲げると、黒雷はいくつもの首を持つ蛇のようにルートミリアへと襲いかかった。轟音と稲光を何度も放ちながら、黒雷は触れた草や木を消し炭へと変えていく。
しかしどういう理由か、雷はルートミリアを避けて通り、彼女の服を焦がすことさえできない。
「くっ! 何が起きている!?」
業を煮やしたアモンは無数の光球を作り出したかと思うと、次々とそれを放った。黒い光球は弾丸のような速度で飛び、地面や木々を無作為に破壊する。それは着弾したのが生物だったとしても同じことだろう。
だがやはり、ルートミリアの周囲に見えない壁でもあるかのように、光球は彼女に当たる直前に軌道を変えて安全な場所へと着地する。そして遂に、光球はルートミリアに当たることなく弾切れとなった。
地が大きく削れ木々がなぎ倒された姿は、まるで巨人が暴れた後のような荒れ具合。にも関わらず結局、微動だにしていないルートミリアへ、最後まで攻撃を加えることは叶わなかった。
「なぜだ? 小官は確かに狙った!! なぜ、小官の魔法が……?」
「わからぬか? ならば、教えてやろう」
狼狽するアモンに、ルートミリアが諭すように語りかける。
「屋敷での出来事を覚えているか? お前が振り下ろした剣を、アドバーンが妾の寸前で止めた。のちにアドバーンは『もともと止めるつもりだったのでは』と語ったが、妾にはどうしてもそうは思えなかった」
肩で息をするアモンの頬に、一筋の汗が流れる。
「お前は振り下ろしたくとも、できなかったのではないか? つまり妾に危害を加えることを、お前の身体は……いや、心は受け入れなかった」
「ま、まさかッ…………!?」
アモンの脳が、ズキンと悲鳴をあげる。
「それはあるひとつの事柄を証明しておるのだ。すなわち――――――」
頭痛はどんどんと酷くなるのに、なぜかルートミリアの声だけが鮮明に頭に響いた。痛みに耐えきれず、崩折れるアモン。その痛みにのたうつ頭へ入ってきた次の言葉は、彼にとって信じ難いものだった。
「シモンは生きておるのだ。お前がどれだけその仮面で覆い隠そうと、シモンの意識はちゃんとお前の中で息づいておる。妾はそれを確かめたくて、今日ここを訪れたのだ」
「ぐぅ……! しょ、小官は………………俺…………は……」
「シモン!? まさか意識が!!」
膝をつくアモンの下へ駆け寄るルートミリア。
しかし、そのときだった――――――
「アモン様!?」
「無事か!!」
血相を変えたエルブとティオスが現れる。
その後ろからは、レトリアも駆けてきていた。
「離れなさい!! いったいアモン様に何をしたんですの!!」
物凄い剣幕で武器を構えるエルブとティオス。
それは話し合いという行為自体が、意味を成さないことを想像させた。ルートミリアはアモンへ伸ばした右手を静かに下ろすと、弱々しい表情を見せまいと四人へ背中を向ける。
「妾は諦めぬ。お前が妾たちを救ってくれたように、今度は妾がお前を救う。いつか……必ずな。だからそのときまで、しばしのお別れじゃ」
「な、何を言って……!」
「…………さらばだ」
そしてそのまま、ルートミリアは森の奥へと消えていった。
最後まで矢を放てなかったエルブは悔しそうに唇を噛んだあとで、「大丈夫ですか!」とアモンの側で屈み込んだ。
「いま治癒魔法を施しますので。…………アモン様?」
治癒の魔法をかけようと手を伸ばしたエルブは、アモンの肩が上下していることに気がついた。最初は悔しくて震えているのかと思ったが、よく見ればそれが違うことがわかる。
「くっくっく……!」
アモンは笑っていた。
地獄の底から這い上がってくるような、低く凄みのある笑い声だった。
「ならば……その存在意義ごと消し去ってやりましょう……」
誰にも聞こえない声で呟いたアモンは、背後に立つレトリアの方へ、顔をゆっくりと向ける。そして不安の表情を浮かべる彼女へ向かって――――――
「小官も…………武闘大会に参加します」
そう宣言するのだった。




