第266話 「奇跡を起こす男」
エルブ直属の部隊、シースターズ。
弓兵や衛生兵で構成されたこの隊は、戦闘時は主に他の隊の補助を任されていた。そして非戦闘時はエデン周囲の動植物の調査や、新たな食材の発見に従事している。
ニライカナイの西に位置するこの小さな森も、彼らの調査範囲内だった。
「では皆様、いつものようにお願いしますね」
エルブが言うと、隊員たちは「はい」と慣れた様子で周囲へ散っていく。補助が主務の隊だけあって、柔和な性格の隊員が多くを占めていた。調査をする様子も、森林浴のような穏やかさだ。
「小官も何かお手伝いしましょうか?」
「滅相もございませんわ! 天使様に我々のお仕事を押し付けるなんて、バチが当たってしまいます。アモン様は六つ葉のトレーフルを探していただいて結構ですわ。群生している場所までご案内いたします」
「調査の方はよろしいのですか?」
「ご心配には及びませんわ。ここだけの話、もうこの森は調べ尽くしておりますの」
呆れたようにそう口にすると、エルブは森の奥の方へ歩き始める。
アモンはさも不思議そうに、そのとなりに追従した。
「アモン様はきっとこうお考えですわね。『調査を終えているのに、また調査をするのか?』と」
「ええ、まあ……理由はなんとなく察しておりますが」
「ふふ、恐らく想像の通りですわ」
エルブは足を止めると、地面に落ちていた木の葉を一枚、優しく拾う。その表情はまるで、我が子を愛でる母のようだった。
「草に、木に、花。そして湖や動物たち。こういった自然が存在するのは、エデンと魔王国の周辺だけ。エデン側はほぼすべてを調べ尽くし、こうして形だけの調査を続けている。残すは魔王領内のみですが、それはきっと魔王軍も同様なのでしょう」
愛ある瞳が、憂いを帯びたものへと変わる。
その小さな手のひらの上で、一枚の葉はゆらゆらと揺られていた。
おもむろに、アモンがその葉をひょいと摘み上げる。
「人と魔物はこの少ない資源を奪い合う運命…………いいえ、宿命なのですよ。この狭隘した世界は、呪われているのです」
「そうかも……しれませんわ。さあ、こちらです」
何とも言えない空気のまま、案内は再開される。
ほどなくして、開けた場所がふたりの視界に飛び込んできた。
「ほぅ、これはこれは」
「わたくしのお気に入りの場所なんですの」
森の中に、唐突に現れる小さな湖。
透き通った湖面に反射する光が周囲を淡く照らし、幻想的な雰囲気を演出するのに一役買っている。湖を囲うように群生するトレーフルの花が、美しい情景に文字通りの華を添えていた。
「実に美しい――――と、見惚れているワケにもいきませんね。さっそく六つ葉のトレーフルを探すとしましょう」
「わたくしもお手伝いしますわ」
屈んだアモンのとなりに、エルブも同じように屈み込む。
そして切れ長の目から覗くスカイブルーの瞳で、トレーフルをひとつひとつ眺めていった。
無言のまま、ふたりで六つ葉のトレーフルを探すこと数分。
先に沈黙を破ったのは、エルブの方からだった。
「あの、アモン様……お訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
「間違っていたら申し訳ないのですが、先ほどの孤児院で……その、セムラを……その」
エルブはしどろもどろに、口をモゴモゴと動かしている。
目を凝らせば、頬も少し染まって見えた。もうちょっと眺めていたいような気もしつつ、アモンは助け舟を出すことにした。
「ああ、ちゅっちゅレロレロしたことですか?」
「ちゅ!? え、ええまあ……そうですわ」
本当は触れた程度なのだが、エルブがさらに顔を赤く染めたので、アモンは満足そうに頷くのだった。
「あれはその……アモン様の神籬の力と関係があるのでしょうか?」
「神籬――――神の身体の一部分の名を冠する、天使だけが使用できる特異な能力。神籬は基本的に、天使ひとりにつき、ひとつの能力が宿る。先天的なものではなく、神樹セフィロトの加護によって後天的に発現し、力を授かった者は不老となる……でしたっけ。昨夜に読んだ【天使解体新書】という本に書いてありました」
「え、ええ……そうですわ。アモン様も、セフィロトの恩恵を授かったのではないのですか?」
他人事のように語るアモンを不思議そうに眺めながら、エルブは再び訊ねる。天使となるのに、神籬は絶対の条件ではない。しかし歴代の天使たちは、そのほとんどが神籬の能力を有していた。
「いいえ。小官の能力は神籬ではありません……が、似たような力ならば持っています。この舌に触れたものを解読し解毒する。魔素疾患にも効果があるかなと思いましたが、残念ながら力は及びませんでした」
「つまり、病気には効果がなかったと?」
「この舌と魔法で調べましたが、やはりセムラの器は異常に小さい。あれでは魔素があっというまに枯渇してしまう」
「はい。ですので、一日に五回の食事が欠かせませんわ。様々な薬草も試してみましたが、改善の兆しは見られません。匙を投げるつもりはありませんが、正直なところ……打つ手が思いつきませんわ」
暗い表情で俯くエルブ。
その表情から伝播したように、六つ葉のトレーフル探しにも暗雲が立ち込める。
探せど探せど、六つ葉どころか四つ葉さえ見つからない。
「この機会に、アモン様に他にもお伺いしたいことが……」
暗い空気を変えようとエルブが口を開くが、トレーフルを真剣に探すアモンの耳には届いていないようだった。少年との約束の為に頑張る真摯な姿を見ていたら、無駄話をしようとした自分が途端に情けなくなる。エルブは地面に視線を落とすと、彼女もまた真剣に六つ葉のトレーフルを探すのだった。
しかしそんなふたりの努力も虚しく。
六つ葉のトレーフルが見つからぬまま、調査終了の報告をエルブの部下が伝えにやってくる。
「残念ですが……仕方ありませんね。皆さんに迷惑をかけるワケにもいきません。ここいらで引き上げといきましょう」
「本当に残念ですが、セムラもきっと分かってくれると思います。お洋服を汚してまであの子との約束を果たそうとしたこと、わたくしからも感謝を申し上げますわ。ありがとうございます、アモン様」
気を使った労いの言葉も、気休め程度の効果しかない。
アモンはため息をひとつ漏らし、森の入口の方へ向かって歩き出した。
馬車に揺られ、戻ってきたアート・モーロの街。
深く伸びた影が、夕暮れ時であることを告げていた。そろそろ夕食の時間だが、任務が終わったあとに寄ると、孤児院の子供たちと約束している。
部下たちと別れたふたりは、気落ちした表情のまま宿り木の家の門を潜った。
「あ! 天使さま!」
西棟のさくせん部屋……もとい病室へ訪れるなり、セムラが読んでいた本を閉じて置き、瞳を輝かせながら声をあげた。その表情には、『六つ葉のトレーフルは見つかった?』という期待がありありと表れている。
エルブはセムラのベッドの前まで近づくと、約束を交わしたのが自分でないにも関わらず、申し訳なさそうに謝罪する。
「ごめんなさい。頑張って探したのだけれど、六つ葉のトレーフルは…………」
エルブがそこまで口にしたとき、アモンが彼女の肩に手を置きそれを阻止した。そしてお互いの場所を交代するようにアモンがベッドの前へやってくると、先ほど肩へ置いていた左手を、今度は黒い上着のポケットの中へと滑り込ませる。
そして――――――
「お待たせしました。約束の物です」
そう口にしながら、アモンは厳かにソレを差し出した。
人差し指と親指で優しくつままれたソレは、一本のトレーフル。その葉は迷信で伝わった通りに、六つに分かれている。
「わあ! すごいすごい初めて見た!! ありがとう天使さま!!」
驚きのあまり言葉が出てこないエルブの前で、セムラは飛び上がらんばかりに歓喜する。他のベッドの子供たちも、口々に「すごい!」や「いいなぁ」と羨ましげに声をあげた。
「彼女がトレーフルの生えている場所を教えてくれたから見つかったのです。だから彼女のおかげでもあるのですよ」
「そうなんだ! ありがとうエルおねえちゃん!」
「え! あ……わたくしはその……」
状況が飲み込めずあたふたとするエルブの頭へ、アモンの右手が伸びていく。
「ひゃっ!? ア、アモン様なにを!?」
「手伝っていただいたので、お礼です」
子供たちへするように、アモンがエルブの頭を優しく撫でる。
撫でられている当の本人は、いきなりの出来事に顔を真っ赤にして首を左右へ振った。
「わたくしは子供ではないのですから、そういった配慮は必要ありませんわ!」
「おや、そうですか? 今日の朝に子供たちの頭を撫でているとき、さも羨ましそうにこちらを眺めていらっしゃったので」
「ご、誤解ですわ! そんな子供扱い、羨ましくなんて――――――!」
これ以上ないほどに狼狽しながら否定するエルブだったが、同時に胸に込み上げる複雑な感情に戸惑いつつあった。軍に入り、いや入る前から“皆のお姉さん”だった彼女にとって、子供扱いは何とも言えない不思議な感覚。しかしその感情を言葉にすることは、慌てふためくいまのエルブにはできそうもなかった。
「天使さま、あの……これ!」
混乱するエルブを他所に、セムラが一冊の本をアモンに差し出す。
それは先ほどまで少年が読んでいた、幼児向けの絵本だった。
「これは?」
「ボクの宝物だけど、天使さまにあげます! トレーフルのおれい!」
「しかしトレーフルは小官がした行為の詫びですよ? 本当に良いのですか?」
「うん! おとうさんがおじいちゃんにもらった本だけど、もう何回もよんじゃったから! だからあげます!」
拙い敬語で、セムラは宝物の本を再び差し出す。
そこまで言われては、もはや受け取る以外の選択肢はない。
アモンは畏まりつつ、セムラの絵本を受け取った。
「ほんとうにありがとう! トレーフル大切にします!」
「こちらも絵本をありがとう。暇があれば、また寄らせていただきますね」
トレーフルと絵本を交換し、日が落ちる前に孤児院をあとにするアモンとエルブのふたり。それぞれの住処へ帰る道中で、エルブはアモンへ微笑みの眼差しを送った。
「それにしてもアモン様、よく六つ葉のトレーフルが見つかりましたわね。わたくしはてっきり、見つからず途方に暮れているものかと」
「ああ、アレ。アレは……………………修復と成長魔法の応用ですね」
「へ?」
ぽかんと口を開けるエルブの前で、アモンは道端の雑草をふたつ拾い上げる。
そして彼女の見ている前で、アモンは器用にふたつの雑草を組み合わせて見せた。
「ではあのトレーフルは……魔法で作ったものでしたの!? ならばどうして、あんなに落ち込んだ様子を?」
「できれば天然の六つ葉を見つけてあげたかった。その方がご利益がありそうなので。しかし残酷なことに、奇跡というのは待ってて起きるものではない。彼の病気も、待つだけでは決して治らない」
その声色は、いままでのアモンとは別人かと感じるほど、真剣なものだった。
「小官には夢があるのです」
「夢……ですか?」
遠い目を浮かべながら、アモンは夕焼けを抱くように両手を広げる。
そして空を飛ぶ鳥の鳴き声に負けない大きな声で、高らかに言った。
「この世界に蔓延る呪いを祓う料理! 魔素疾患も、食糧事情をも解決する奇跡の料理!! それを作り出すことこそが、我が本懐。我が本望!! それこそが…………小官の夢なのです」
遠い昔、誰かと似たような約束を交わした気がする。
記憶にない誰かの想いは、いまやアモンの夢となって心の奥に存在していた。
「そんな……そんなことが可能なのですか? そんな奇跡が……本当に?」
それは誰が聞いても奇跡のような話。
しかしエルブは、それを世迷言だと笑わなかった。アモンにならば可能なのではないかと、信じたくさえあった。
そんなエルブの期待に応えるように、アモンは不敵に笑う。
「小官は天使。奇跡を起こす男なのです」
エルブは胸と顔が熱くなるのを感じて、アモンからさっと目を逸らした。
鼓動はどんどんと早くなっていく。しかし不思議と、悪い気持ちではなかった。
俯いたエルブの頬が朱に染まっていたのは、夕焼けのせいだけではない。そしてそんな彼女の仕草と同様に、アモンも顔を落とす。その視線の先には、セムラから貰った絵本があった。
幼児向けとはいえ、貰い物に目を通さない訳にもいかない。
アモンは表紙だけでもと、セムラの宝物の本へと視線を向ける。
そこには黒く大きな文字で――――――
【ゆうしゃたち と しょくざいのまじょ】
と書かれていた。




