第264話 「レモラ」
アモンの提案に、周囲の人間は一様にポカンとした表情を浮かべた。
数秒後、その中のひとりのシグオンが、おずおずと一歩前に歩み出る。
「は、話を聞いていたでござるか? 魔獣をやっつけたところで、キリがないのでござるよ?」
「それは倒したのが雑魚の場合でしょう? 親玉さえ倒してしまえば、なんら問題はありません」
再び目を丸くするシグオンを他所に、アモンは近くにいた漁師に声をかける。
「小舟を一艘、お借りしても?」
「そ、そりゃあ使ってねぇ船はいくらでもあるがよ……。止めときなよアンタ。興味本位で魔獣に挑むものじゃねぇよ。隊長さんも、止めたほうが良いよ」
「む……むぅ……」
不安な顔をする漁師と、困惑して唸るシグオン。
しかしアモンは係留している小舟に乗り込むと、有無を言わさずそのロープを外した。
「少し借りますね。すぐに戻りますので」
「ちょちょ! ちょっと待つでござる! 拙者も行くでござるよ!!」
本当は付いて行きたくはない。
魔獣の群れを相手に一艘の小舟で向かうなど、自殺行為に等しい。
しかしエルブとティオスに大見得を切った手前、アモンという男を確かめねばならない。それ以前に天使に何かあったら自分の、ひいてはレトリアの責任問題にもなりかねないのだ。
シグオンなりの、苦渋の決断だった。
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「も、もう岸が見えなくなったでござる…………」
小舟の縁にしがみつき、シグオンは泣きそうな声で言った。
いや、実際にその大きな瞳には、涙が浮かんでいた。
「そんなに嫌なら、村で待っていればよろしかったのに」
「そういうワケにはござらん……。拙者はレトリア様からアモン様を任されている身。アモン様に何かあっ……あったら、レトリア様にも……め、迷惑が」
「大した忠誠心ですね。いや素晴らしい!」
アモンはからからと笑いながら、櫓を漕ぎ続けた。
ほどなくして魔獣がよく目撃されるという海域まで到達したふたりは、舟を止めて周囲の様子を窺った。
「いませんねぇ」
「で、出てきてもらったら困るでござる。もし体当たりでもされたら、こんな小舟ひとたまりもないでござるよ」
「しかし出てこなければ、魔獣は退治できません」
「うう……か、帰りたい…………」
シグオンがそんな泣き言を漏らした、そのときだった――――――
「あ、あれは……!?」
ニライカナイの方角から、何かが飛んできている。
よく目を凝らせばそれは、シグオンの相棒のエテ吉であることがわかった。
「拙者たちの後を追ってきたのでござるか!? まったくなんてムチャを!」
「ウキャッキャ!」
ふたりの姿に気付いたエテ吉は、興奮して羽をばたつかせた。
いままでの心細さから、ほっと頬を綻ばせるシグオン。
次の瞬間――――――
「キギャッ!?」
海からいきなり一筋の線が伸びる。
それは矢のような速度で、エテ吉の体に直撃した。
「エテ吉!!!!」
シグオンの叫びも虚しく、バランスを失ったエテ吉は真っ逆さまに海へと落ちていく。その姿を見て、アモンはさも愉快そうに口を開いた。
「水鉄砲ですか。どうやら、千客万来のようですねぇ」
「何を言って…………ひぃ!?」
海の中に先ほどはなかった魚影が、いつのまにか出現している。しかも一匹や二匹ではなく、両手の指を足しても足りないほどだ。そのひとつひとつが人間の二周りは大きく、たまに大きな背びれが顔を覗かせている。
魚影の中のひとつが、ふたりの前で大きく海上へ跳ねた。
「ででで、出たでござる!!!? 吸血怪魚に間違いないでござるよ!!!!」
暗く澱んだ人間のような瞳に、ナマズのような口には無数の歯がびっしりと生え揃っている。鱗のない青い皮膚が全身を覆い、額からは三本の触覚がだらりと伸びていた。
「エテ吉!! いま行くでござる!!」
シグオンは小舟の縁に足をかけるが、そこで彼女の体が拒絶した。
エテ吉はパニックになり、バシャバシャと海面でもがいている。本当ならばすぐにでも救出しなければいけない状況なのだが、シグオンには海に飛び込めない理由があった。
『拙者は……拙者は………………泳げないッ……!』
震える体が、全力で止める。
しかしエテ吉を放っておけば、間違いなく魔獣に食べられてしまうだろう。
エテ吉はペットを通り越した、シグオンにとっては家族のようなもの。
一秒にも満たない一瞬の合間に、心と体が激しくせめぎ合っていた。
「む……むぐぐ…………い、いま行くでござるよ!!!!」
葛藤は、心の方に軍配が上がった。
両の目をぎゅっと閉じたシグオンは、力いっぱいに舟の縁を蹴り、怪魚ひしめく海中へと飛び込んだ。
「ごぼ! はぐ!! ま、待ってるで…………ござる!!」
両手で必死に水をかくが、服を着ているせいもあって思うように前へ進まない。すぐ脇を泳ぐ魔獣の気配も、恐怖に拍車をかけた。しかし引き返すわけにはいかない。エテ吉を見捨てて、戻るわけにはいかない。
「がぼ…………!?」
そのとき、一匹のレモラが向かってきた。
大きな口に食いつかれたが最後、全身の血を吸われて死んでしまう。
しかしシグオンの得意とする地魔法は、土に触れてなければ発動できない。
絶体絶命。
ぞろりと揃ったナイフのような歯で、視界のすべてが満たされる。
死を覚悟したシグオンの顔が、苦悶に歪んだ。
「…………え?」
だが次の瞬間――――――シグオンの体は暖かい何かに包まれていた。
それがアモンの左腕だと理解したとき、シグオンの眼前には、怪魚が海面を自らの血で染める異様な光景が広がっていた。
「ア……アモン……様?」
アモンに抱かれる形で、海面を漂うシグオン。
手を伸ばせば簡単に仮面を外せる距離だが、そんな気はまったく起きなかった。
「一体何が……? エ、エテ吉は?」
シグオンの質問に応えるように、エテ吉がアモンの肩口から顔を覗かせる。元気そうなその姿に、シグオンは安堵の息を漏らした。
「救助が少し遅れました。泳ぐのが不得手だとは知らなかったので、申し訳ない。あなた達はここで、少し待ってていただけますか?」
「は、はいで……ござる」
呆然とするシグオンと、ついでにエテ吉も小舟に乗せる。
そしてアモンは、再び海中へと戻っていった。アモンの影に続くように、無数の魚影もまた沈んでいく。
「アモン様!? むちゃでござるよ!?」
我に返ったシグオンが叫び声を上げるが、もはやアモンの姿はまったく見えない。海中でチラチラと何かの光が炸裂しているが、シグオンには何が起きているのか、想像することすらできなかった。
やがて光の明滅も消え、穏やかないつもの海が戻ってくる。
「ア……アモン様…………まさか……」
人の姿も、魚影も何も見えない。
やがて時間がどれくらい経過したのかも分からなくなった頃、大きなあぶくが小舟の近くで弾けた。
「アモン様! アモン様でござるか!?」
体を襲う凍えすら忘れ、シグオンは海中へ向かって叫んだ。
するとその声に反応したかのように、海面へ大きな影が姿を現した。
「こ、こいつは…………!?」
驚愕するシグオンの前に浮かんできたのは、先ほど襲ってきた怪魚の十倍はあろうかという、レモラの親玉の姿だった。
一瞬だけ身構えるシグオンだが、どこか様子がおかしい。怪魚は腹を天へと向け、ピクリとも動こうとはしない。よく見ればその体の至るところに傷があり、どこか焦げ臭い匂いが漂っている。
「まさか…………死んでいる? わっ!?」
しかし、奇妙な光景はそれだけでは終わらなかった。
あぶくが次から次へ発生したかと思うと、それと同じ数だけの怪魚の死体が、海面に浮かび上がってくる。
そして最後の締めくくりとして、アモンが何事もなかったように海面へ顔を出した。
「お待たせして申し訳ありません。やたらと深くにいたので、少々手間取ってしまいました。さあ、目的も達成したので戻りましょうか? おっとその前に、このままでは風邪を引いてしまいますね」
小舟に乗り込むやいなや、乾燥魔法で自分とシグオンたちの体を乾かすアモン。そのあまりの現実感の無さに、シグオンはただただ唖然とするほかなかった。
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「これで問題なく漁は可能なはずです。次に魔獣が住み着かない限りは……ですが。舟、ありがとうございました」
漁場に戻るなり、成果を報告するアモン。
「ま、またまた……あの魔獣を退治なんて……ねぇ。冗談でしょう?」
漁場の責任者が何とも言えない表情で訊ねる。
しかし同行したシグオンがありのまま起こったことを説明すると、その顔面は喜色満面なものとなった。
「これでまた漁ができるっぺさぁ!」
「ありがとうよ兄ちゃん! あんたすごいな!!」
漁師たちも皆が破顔し、次々に握手を求めてくる。
アモンはそのひとつひとつに応じながら、突然「そうだ」と思い出したように上着のポケットに右手を突っ込んだ。
「生態系に影響があっても困るので、コレぐらいしか用意できませんでしたが……と。はい、どうぞ」
ひとりの漁師に手渡されたのは、拳大の正方形の宝石のようなもの。
白濁の具合といい氷によく似ているが、冷たくはない。漁師は首を傾げながら、アモンに訊ねた。
「こりゃあ……いったい?」
「海水から作ってみました、塩の結晶です。皆さんで役立ててください」
一同は再び、目を皿のように丸くするのだった。
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「と、いうわけでござる」
「なーにが、『と、いうわけでござる』だよ!? 朝飯前だった諜報活動はどうした! 結局、肝心な部分が何にもわかってないじゃん!?」
昨晩も集まった秘密会議用の小部屋。
報告を終えたシグオンに、ティオスの激しいツッコミが飛ぶ。
「くそぅ……せめて素顔だけでも暴いて欲しかったぜ」
「まぁまぁ。困っている民の為に魔獣を退治したのだから、悪い人間ではないんじゃないかしら? それも、皆が手を焼いていたあのレモラを」
「そ、それだけで判断するのは早計だぜ! なあシグ! お前もまだ諦めたワケじゃないんだろ?」
ティオスが顔をぐいと寄せるが、シグオンは目をまったく合わせずに言った。
「おりた」
「は?」
「拙者は今回の作戦、降りるでござる。理由は気が進まないから」
「はぁ~~~~!?」
目を白黒させるティオスの前で、シグオンはエテ吉と遊び始める。
こうなってしまっては、もはや戦力として期待できそうもない。
「うふふ、なら次はわたくしの番ですわね。シグを心変わりさせたその手腕、お手並み拝見といったところかしら」
「頼りにしてるぜ! エル!!」
折れてしまったシグオンに代わり、残された二本の矛は、再び決意を固めるのだった。




